たの)” の例文
あるいはたのしそうなかるい笑い声が聞えてくる。死のような静寂が周囲にみなぎっているので、その対照はあまりにも目ざましい。
三人の人間は、ある者は肉体に血紫色の菊の花を着け、ある者は情感の喪服に身をつつんで、それぞれに静穏な秋の日をたのしんでゐた。
青いポアン (新字旧仮名) / 神西清(著)
近々パリーへお出かけの由、ああ首府しゅふ見物、僕も行きたいのですが、今度は心のみ父上のお伴をして、そのたのしみを分つことにします。
にんじん (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
さてそろそろ夏が来ますが、浴衣ゆかたを着られるのはまた何としてもたのしいことです。何が何だと云っても浴衣の着心地は素敵です。
着物雑考 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
たのしい夜は雪にもならず、みな歌をものして過ごし、けて筒井は下がろうとして仲の遣戸やりどをあけようとすると、よい月夜になっていた。
津の国人 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
正成ともちがう、高氏とも大いに違う、義貞その者を彫り上げてみようとする意欲はくるしくもありたのしみでもある。(三五・三・一二)
随筆 私本太平記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
暗さがゆるんで、また宵が来たやうなうら懐かしい気持ちをさせる。歳子は落付いてはゐられないたのしい不安に誘はれて内玄関から外へ出た。
夏の夜の夢 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
料理も自然、天然の材料を人間の味覚に満足を与えるように活かし、その上、目もよろこばせ、たのしませる美しさを発揮さすべきだと思う。
鍋料理の話 (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
その上途中にひらける東海道の風光が、生れて始めて見るだけにひどく心をたのしませたらしい。清見寺から三保の松原を眺めて
小田原陣 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
朝鮮語での述作がこの人達に文化の光を与える為にも、はた又彼等をたのしませるためにも、絶対的に必要なのは論をたぬことではないか。
天馬 (新字新仮名) / 金史良(著)
画面全体にほのかに漂っている透明な空色が、どの仏たちのまわりにも、なんともいえずたのしげな雰囲気をかもし出している。
大和路・信濃路 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
われわれに新生面をひらくを得しめてくれるだろうか? この現象はわたしにとっては葡萄ばたけの豊饒さよりもさらにたのしいものである。
「ぶどう畑」において、特にわれわれをたのしませるものは、彼自ら、「幻象イメージの猟人」と呼ぶにふさわしい観察の記録である。
春の陽ざしにゆるやかな影を刻んで、のろのろと動いてゆく赤馬の姿のたのしさが象徴するものは上野介の人徳ででもあった。
本所松坂町 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
その友達がその前の年の夏に自分たちと一緒にこの岩小屋へやってきてたのしい幾日かをすごして行ったときのことが、ちょっと出たのだった。
かたや胸の歯形をたのしむようなマゾヒズムの傾向けいこうもあった。かべ一重の隣家をはばかって、蹴上けあげの旅館へ寺田を連れて行ったりした。
競馬 (新字新仮名) / 織田作之助(著)
心に泛ぶこともないので、明日からは断々乎だんだんことして訪問をそうと、私はしきりにたのしさを思いはじめるのであった。
(新字新仮名) / 坂口安吾(著)
百済観音をみて心たのしくなる理由のひとつは、近代に激しい内攻症を根絶してくれる点にある。私はそう思う。これを忘却の精神と呼んでもいい。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
あの悄々しょうしょうと鳴りなびいていた、人っ子一人いない海岸の雑草も、今日はあたりの空気に酔うてか、たのしげにふるえている。
鱗粉 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
とはいえ文化的には違いない物のを聴いているのは、——なんといっても実にたのしい、実にもの新しい気分だった。
イオーヌィチ (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
出帆しゅっぱん前からの神経異常が、あなたとのたのしい交わりに、まぎらわされてはいたが、こうした場合一度に出て来て、頭のしんは重だるく、気力もなくなり
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
さっきから祝い日の低空飛行として広場の上空に輪を描いている二台の飛行機の轟音さえもたのしい音楽の一つとして
道標 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
たのしげな、若々しい、苦のなさそうな笑いが、なんともいえないほど似合った! 熱烈で、あけっ放しで、単純で、律義で、力士のようにたくましい
口の方はと云ふと、時々笑つてたのしさうである。頭の考へることは皆んな話さうとするけれども、恐らく心情の經驗に就いては大抵だまつてゐるだらう。
もちろんこの意味のからうたは、支那の土地で支那人によってたのしまれつつあった漢詩を指しているのではない。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
たのしむためにか? 苦しむためにか? みんな耳を傾けて聞いてゐる。固唾かたづをのんだまま。身分のある人びとには、語られてゐることがすつかり分かつた。
酔つた様な、たのしい様な、切ない様な……宛然さながら葉隠の鳥の声の、何か定めなき思ひが、総身の脈を乱してゐる。
鳥影 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
花やつぼみをつけた自然の蔓薔薇つるばら垣根かきねからなる部屋で、隣席が葉にさえぎられて見えず、どの客も中央の楽団から演奏されて来る音楽だけをたのしむ風になっていた。
罌粟の中 (新字新仮名) / 横光利一(著)
女たちの噂した所の、袈裟けさえば、五十条の大衣だいえとも言うべき、藕糸ぐうし上帛はたの上に、郎女の目はじっとすわって居た。やがて筆は、たのしげにとり上げられた。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
……なんとたのしげに、また、なんと数多くの項目を彼は数え立てたことだろう! ことに、若い女人の肉体の美しさと、四季それぞれの食物の味に言い及んだとき
なんの不安もなく懸念けねんもなく、いちずに愛の魔術に、たのしく魅せられ酔わされておったからじゃ。
紅毛傾城 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
「同じじゃないさ。君は苦しんでいるだろう。僕は毎日毎日が苦しくない。むしろたのしい位だ」
風宴 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
句もいし、字もすてきによいので、始終私はこれをかけて、父をしのびつつたのしんでいます。
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
ゆめともなく、うつつともなく、おじいさんが、じっとしてたのしい空想くうそうにふけっていると、あさ、このまえとおってまちむら人々ひとびとが、もうようをたしてもどるころともなるのでした。
とうげの茶屋 (新字新仮名) / 小川未明(著)
花鳥につけても少したのしい日送りができたであろうがなどと、姉君を思い出すと、忍耐そのものが生活であったような宇治の時のほうが、かえって悲しみも忍びよかったように思われ
源氏物語:50 早蕨 (新字新仮名) / 紫式部(著)
こんなんなら、始めから何にもしなかった方がずっと、気が楽でたのしかったのよ。
華々しき一族 (新字新仮名) / 森本薫(著)
また下にくる文字によって吹いているということ以外に、さらにその春風を愛したのしむような心持ちとか、その他まず種々の連想をもつことができるようなきわめて調法な文字である。
俳句の作りよう (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
汽車が新緑の憂鬱ゆううつ武蔵野むさしのを離れて、ようやく明るい山岳地帯へ差しかかって来るにつれて、頭脳あたまさわやかになり、自然にかつえていた均平の目をたのしましめたが、銀子も煩わしい商売をしばし離れて
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
野分のわき夜半よはこそたのしけれ。そはなつかしくさびしきゆふぐれの
詩集夏花 (新字旧仮名) / 伊東静雄(著)
ひまつぶしの遊びみたいにたのしんでいるのか?
煙突 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
言いようもなくたのしい旅だったのです。
かく思ひ たのしさにとりすがれども
測量船 (新字旧仮名) / 三好達治(著)
ランチ・タイムをたのしんでいた
水の上 (新字新仮名) / 安西冬衛(著)
……たのしいこわえ夜じゃった。
蕎麦の花の頃 (新字新仮名) / 李孝石(著)
つぐむでゐればたのしいだけだ
山羊の歌 (新字旧仮名) / 中原中也(著)
雪のごとくたのしかれ。
友人の妻であつた邦子をさらつて、たのしい月日を暮したのはつかで、富岡は二年もしないで、仏印へ軍属として旅立つてしまつたのだ。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
このようにしてこの女と朝夕に食べることを一緒にしたら、どれほどたのしかろうと若者らは同時におなじ考えにふけっていた。
姫たちばな (新字新仮名) / 室生犀星(著)
いま細部の工夫などをたのしんでやっている。日暮れごろ、また高畑のほうへ往って、ついじの崩れのあるあたりを歩いてきた。
大和路・信濃路 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
私もたのしんで書くつもりだし、かたがた、毎日の暮しですらおたがい大へんな今日なのに、その朝ごとの諸兄姉にたいして
随筆 私本太平記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)