周防すおう)” の例文
堀田正盛まさもり、板倉周防すおう、小堀遠州、佐久間将監しょうげん等が著名であるが、沢庵が最も愛したのは、細川家の卓抜な嫡孫、越中守忠利であった。
随筆 宮本武蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
周防すおうどのだ」と甲斐が云った、「国から涌谷わくやさまが来られた、藩邸にはまだ内密で、小石川の普請小屋に周防どのとおられる」
周防すおうにはまたトトコグサ、その他これに近い語がわずかずつの変化をもって行われ、そのトトコ等は、すべて皆小狗こいぬのことである。
同家は三十代も続いた家で、吉川氏は以前周防すおうの大名であった。彼は眼鏡橋の近くに広大な土地と五軒の家とを持っている。
その後文明九年には長尾景春ながおかげはるに招かれ、文明十二年には大内正弘おおうちまさひろに招かれて、周防すおう山口に下り、さらに筑紫つくしに旅をした。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
この書簡は彼が露艦をうて長崎にきたり、遠遊のこころざしを果さんと欲して得ず、その帰途周防すおうより横井翁に寄せたるもの。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
けれども秘密の早船を仕立て、大坂、備後びんごとも周防すおうかみせきの三ヶ所に備へを設け、京坂の風雲は三日の後に如水の耳にとゞく仕組み。用意はできた。
二流の人 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
周防すおう町筋を半町ばかり南へはいった東側に路地があります。その路地の一番奥にある南向きの家でした。
アド・バルーン (新字新仮名) / 織田作之助(著)
康頼は、かねてから出家の志を持っていたが、流罪の途中、周防すおう室積むろづみで出家し、性照しょうしょうと名乗った。
今年になってからは豊後ぶんご、日向を調査し、帰って四国に旅立ち、信州に行き、また最近には周防すおう、長門を経て石見いわみに入りました。丹波たんばを訪うたのはわずか旬日前のことです。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
と、内から雨戸がいて女房がしら周防すおうと云うのに紙燭しそくらして政子の顔があらわれた。
頼朝の最後 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
大阪で鴻池こうのいけ、炭屋、加島屋、平野屋、住友——京の下村、島田——出羽で本間、薩摩で港屋、周防すおうの磯部、伊勢の三井、小津、長谷川、名古屋の伊東、紀州の浜中、筑前の大賀
大菩薩峠:40 山科の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
公卿方堂上人どうじょうびと上達部かんだちめ、いずれその日の生活たつきにも困り、縁をたよって九州方面の、大名豪族の領地へ参り、生活くらしするようになりまして、わが洞院信隆卿にも、過ぐる年周防すおうの大内家へ
弓道中祖伝 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
その昔、周防すおう片田舎かたいなかで医業を営み、一向に門前の繁昌しなかった田舎医者は、維新の風雲に乗じて、めきめきと頭角を現わし、このとき事実上の軍権をにぎっている兵部大輔ひょうぶたゆうだった。
流行暗殺節 (新字新仮名) / 佐々木味津三(著)
独美の初代瑞仙はもと源家げんけの名閥だとはいうが、周防すおうの岩国から起って幕臣になり、駿河台の池田氏の宗家となった。それに業を継ぐべき子がなかったので、門下の俊才がってのちを襲った。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
剛七郎身長みのたけ六尺近く、有名なムッツリ屋、周防すおうの国は毛利左京亮もうりさきょうのすけ府中ふちゅう万石まんごく後足あとあしで砂をかけたという不忠の浪人——ナニ、変な洒落だ? とにかく、コイツ面倒臭いと思ったのだろう。
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
けれども父の知らしてれた事実はこれだけなのです。周防すおう山口の地方裁判所に父が奉職してた時分、馬場金之助ばばきんのすけという碁客ごかくが居て、父と非常に懇親を結び、常に兄弟のごとく往来して居たそうです。
運命論者 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
周防すおう長門ながとにもいるそうですし、石州あたりにもいるそうです。
黄村先生言行録 (新字新仮名) / 太宰治(著)
「松平周防すおうは。」
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
伊勢国(山田、松阪、津、一身田、四日市、桑名) 尾張国(名古屋、熱田、津島、大野、半田) 三河国(豊橋、岡崎、北大浜、西尾、蒲郡、豊川) 遠江とおとうみ国(掛川、浜松、平田、中泉) 駿河するが国(静岡、小川、清水、藤枝) 相模さがみ国(大磯) 武蔵国(忍) 上総かずさ国(千葉、茂原) 近江おうみ国(大津、豊蒲、五ヶ荘、愛知川、八幡、彦根、長浜) 美濃国(岐阜) 上野こうずけ国(安中、松井田、里見、高崎、八幡) 岩代いわしろ国(福島) 陸前国(築館、一迫) 陸中国(盛岡、花巻) 陸奥むつ国(弘前、黒石、板屋野木、鰺ヶ沢、木造、五所川原、青森、野辺地) 羽前うぜん国(米沢、山形、寒河江、天童、楯岡、新庄、鶴岡) 羽後うご国(酒田、松嶺、湯沢、十文字、横手、沼館、六郷、大曲、秋田、土崎、五十目、能代、鷹巣、大館、扇田) 越後国(新井、高田、直江津、岡田、安塚、坂井、代石、梶、新潟、沼垂、葛塚、新発田、亀田、新津、田上、加茂、白根、三条、見附、浦村、片貝、千手、六日町、塩沢、小出、小千谷、長岡、大面、寺泊、地蔵堂、新町、加納、野田、柏崎) 丹波国(亀岡、福知山) 丹後国(舞鶴、宮津、峰山) 但馬たじま国(出石、豊岡) 因幡いなば国(鳥取) 伯耆国(長瀬、倉吉、米子) 出雲国(松江、平田、今市、杵築) 石見いわみ国(波根、太田、大森、大国、宅野、大河内、温泉津、郷田、浜田、益田、津和野) 播磨はりま国(龍野) 備前びぜん国(閑谷) 備後びんご国(尾道) 安芸国(広島、呉) 周防すおう国(山口、西岐波、宮市、徳山、花岡、下松、室積、岩国) 長門ながと国(馬関、豊浦、田辺、吉田、王喜、生田、舟木、厚東、萩、秋吉、太田、正明市、黄波戸、人丸峠、川尻、川棚) 紀伊国(高野山、和歌山) 淡路国(市村、須本、志筑) 阿波国(徳島、川島、脇町、池田、撫養) 讃岐さぬき国(丸亀、高松、長尾) 伊予国(松山、宇和島、今治) 土佐国(高知、国分寺、安芸、田野、山田、須崎) 筑前国(福岡、若松) 筑後国(久留米、吉井) 豊前ぶぜん国(小倉、中津、椎田) 豊後ぶんご国(日田) 肥前ひぜん国(長崎、佐賀) 肥後ひご国(熊本) 渡島おしま国(函館、森) 後志しりべし国(江差、寿都、歌棄、磯谷、岩内、余市、古平、美国、小樽、手宮) 石狩国(札幌、岩見沢) 天塩てしお国(増毛) 胆振いぶり国(室蘭)
妖怪学講義:02 緒言 (新字新仮名) / 井上円了(著)
自分は松山で茂庭周防すおうどのから、およその事情を聞いている。貴方が一ノ関の帷幄いあくにはいって、内部からその非謀を破却する。
世の是々非々、あらゆる嘲罵ちょうばにも、まるで耳のないような人——山中鹿之介は、その妻子や一族郎党と共に、周防すおうの任地へ導かれて行った。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
他にその習癖のない長門ながと阿武あぶ郡・周防すおう熊毛くまげ郡、東では三河・伊豆などの一部にも、ユルイまたはユリーという発音の耳にせられることである。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
コスタと山本デオニソは中国に潜伏布教、一六三三年周防すおうで捕はれて、コスタは長崎で穴つるし、山本は小倉で火あぶり。バルレトは一六二〇年江戸附近で衰弱の極行き倒れた。
周防すおう長門ながとの国では焼物のことをお話せねばなりません。ここは山口県であります。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
義経のひきいる源氏勢は、参河守範頼のひきいる一軍と、周防すおうで落ち合い合流した。平家が長門国引島ながとのくにひくしまに着くと同時に、源氏が同じく長門の追津おいつに着いたのは、天の配剤であったろうか。
この上は兵力を以て京都へ推参して手詰てづめの歎願をするほかはないと、久坂玄瑞くさかげんずい、来島又兵衛、入江九一の面々が巨魁きょかいで、国老の福原越後を押立てて、およそ四百人の総勢で周防すおうの三田尻から
大菩薩峠:13 如法闇夜の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
「ですが、御牒ごちょうによって、長門ながと厚東こうとうノ入道、周防すおうの大内義弘よしひろ、そのほか大島義政なんども、みな、人数にんずをあげてお出迎えに出ておりますが」
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
周防すおうの来たのは十時すぎであった。おくみの狭い寝間に屏風びょうぶをまわし、灯をくらくして、火桶ひおけを中に二人は坐った。
肥後の人吉ひとよし辺でガゴーもしくはカゴ、日向の椎葉山でガンゴ、佐賀とその周囲でガンゴウ、周防すおうの山口でゴンゴ
おばけの声 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
播磨はりま美作みまさか備前びぜん備中びっちゅう備後びんご安藝あき周防すおう長門ながとの八ヵ国を山陽道さんようどうと呼びます。県にすれば兵庫県の一部分、岡山県、広島県、山口県となります。ざっと明石あかしから下関までであります。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
周防すおう錦帯橋きんたいばし、木曾の桟橋かけはし、それにこの甲斐の猿橋」
周防すおう岩国の産です。——で私は、帰国した後も、毎日、練磨を怠らずに、錦帯橋のほとりへ出て、燕を斬り、柳を斬り、独りで工夫をやっていました。
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
実際周防すおう・長門には、片はら牟田・かた牟田・大無田などのムダとともに、また何のウダという地名も多く、『風土記』には「湿地をウダという」とある。
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
「国目付が着くまでには、周防すおうも帰ると思いますが、そうでなければ、帰るまで仙台で待つつもりでいます」
「どうも、やり損ないました。直義は討死のほかございません。残念ながら兄上はもいちど周防すおう長門ながとの遠くへ落ちて、ご再挙をはかってください」
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
九州はその北端の一区域から、対岸の長門ながと周防すおうにかけて、トシャクまたはトウシャクという名が、分布しているが、是は疑いなく稲積の音読であった。
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
涌谷さまと、周防すおうと私とで、相談した、その結果、私は一ノ関のふところへはいって、かれらの企図をつぶさに探り、これを涌谷さまと周防に知らせたうえ、事を
たとえ、織田の軍勢が、どれほど来ようと、毛利の勢力は、安芸あき周防すおうをはじめ、山陰山陽の十二ヵ国にわたっている。
黒田如水 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
周防すおう・長門の境附近では、多分まだ普通名詞としても使ってはいないかと思うほど、何々小野の地名が多い。
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
一ノ関どの、涌谷わくやどの、弾正だんじょうどの、周防すおう、大条、片倉どの、おのれとも七人。立花侯、奥山大学は不参。
これが着いた先は、周防すおう釜戸かまどノ関(現・上ノ関)で、尊氏はここから安芸あきの厳島神社へ代参の使い舟を派し
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
周防すおう長門ながととの境などに行ってみると他地方で沢と呼び谷というものが皆小野になっている。それから近畿地方、ことに山城の京の周囲にも小野は幾つかある。
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
「隠宅のことについては周防すおう(茂庭)から聞いている、そこがどのように使われているかは、周防から聞いてよくわかった、しかし、そう聞くまではおのれと思っていたぞ」
さらに安芸あきには、桃井、小早川一族を差し置く。周防すおうには大島義政、大内豊前守。長門には守護の厚東こうとう一族を。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
たとえば安芸あきの国、それに周防すおうなど、今でも船材を多く出しているし、中世においては建築木材を出しており、奈良の大きな寺院の建立などには常に用材を供給していた。
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
彼は伊達安芸あきと茂庭周防すおう、原田甲斐との極秘の盟約について語った。
お忘れのはずはない。あなたは、私が周防すおうの錦帯橋のほとりで、飛燕を斬って大太刀の修練をしたといったら、それを笑って、然らば、この船を頻りとかすめ飛んでいる海鳥うみどり
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
伊予いよの黒島の異変は、後に似た話と一括していうつもり、周防すおうの大島辺でも、鼠のむれが荒れまわって、農作を妨げた話は毎度あったようで、片山島からだいぶ東の方に離れた端島はしまという小島なども
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
仙台の屋敷は大町一丁目西ノ南側で、広瀬川を前にした断崖だんがいの上にあった。——左に飯坂出雲いずも、右に奥山大学の屋敷があり、奥山家の次が古内源太郎(のちの志摩)その次に茂庭周防すおうの屋敷があった。