苛立いらだ)” の例文
誰もが感ずるであろうような、皮肉じみた笑いが片頬かたほほふるえたが——、鷺太郎は、何とはなく、不安に似た苛立いらだたしさを覚えたのだ。
鱗粉 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
そんな言葉の一つ/\に、深い/\意味でも籠るやうな、思はせ振りな調子は、色つぽくはあるにしても、相手をひどく苛立いらだたせます。
均平自身も理由もなしに神経が苛立いらだたしくなったりすると、いきなりステッキを手にして、ふらりと子供の方へ帰って行くのだったが
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
彼が苛立いらだって乱暴な返辞をすると、もう彼女はなんとも言わなかった。しかしその眼にはやはり心痛の色があるのを、彼は読みとった。
ひょっとしたら舞い込むのかもしれない幸運の期待で、自分の心を苛立いらだたせらすのは、何とまあわくわくして面白いんだろう!
富籤 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
僕は苛立いらだたしさよりも苦しさを感じ、何度もベルの鈕を押した。やっと運命の僕に教えた「オオル・ライト」と云う言葉を了解しながら。
歯車 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
葛木は、これさえあれば、何事もない、と自覚したのに、実際無いのを口惜くちおしそうに、も一度名刺入を出して、中を苛立いらだって掻廻かきまわしたが
日本橋 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
手もなくその策略にひっかかった松浦の気は苛立いらだち、太刀先たちさきは乱れる。その虚に乗じた吉本は、十二分の腕をふるって、見事なお胴を一本。
大菩薩峠:24 流転の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
ただ追われるような不安と苛立いらだたしさ、息苦しいほどの激しく強い動悸どうきだけが、今そこに自分の在ることを示しているような気持だった。
柳橋物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
れったいというか、苛立いらだたしいというか、我々の方でも少しき込んだ傾きはあったが、どうにもらちがあかないのであった。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
貧乏世帶びんばふじよたい後妻ごさいにでもならうといふものには實際じつさいろくものいといふのが一ぱん斷案だんあんであつた。他人ひとたゞかれこゝろ苛立いらだたせた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
無意味な、憂鬱な捜査が暫く続いて、やがて自動車くるまは、胸壁のない猛烈なS字型のカーブに差しかかった。警部補は苛立いらだたしげに舌打ちする。
白妖 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
振った女だと思うと、無性にかっとしちゃって、おじさまに会わせてやるものかという、気が苛立いらだって来ていたんですもの。
蜜のあわれ (新字新仮名) / 室生犀星(著)
ただ速記者が雇えたらと、時々思うことがある。異常な苛立いらだたしさやもどかしさの中で悪魔の呪文じゅもんの如くにそれを念願することがあるのである。
文字と速力と文学 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
常に心を苛立いらだたせて、神経過敏になっているその役にも立たなくなった焦噪の証拠を、何か別の事物へなすりつけようとするひがみ根性であろうか。
あめんちあ (新字新仮名) / 富ノ沢麟太郎(著)
何ういっていいのか——苛立いらだたしさと悲しさとが、いいたいと思うことを、突きのけて、胸いっぱいにこみ上げてきた。
南国太平記 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
併し、風の日は風の日で、又その特別な天候からくる苛立いらだたしい不安な心持が、彼を胸騒ぎさせたほどびくびくさせた。
それだから神経を苛立いらだたせる原因になるようなこと、例えば、空腹とか睡眠不足とかいうことが避けられねばならぬ。
人生論ノート (新字新仮名) / 三木清(著)
確かに、私は苛立いらだっている。連日の睡眠不足のせいもあった。が、それだけではなかった。一言で言えば、私は、私の宿命が信じ切れなかったのだ。
桜島 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
いよいよ神経を苛立いらだたせるばかりだと思ったので、さらに小石川の方へ転宿して、その翌年に第二回の試験を受けると、これも同じ結果に終りました。
白髪鬼 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
そして道端の青草を見出すと、乗手の存在も忘れて草をみ、どんなに私が苛立いらだっても素知らぬ風を示すに至った。
ゼーロン (新字新仮名) / 牧野信一(著)
彼は焦燥しながらつるにわとり山蟹やまがにの卵を食べ続けるかたわら、その苛立いらだつ感情の制御しきれぬ時になると、必要なき偵察兵を矢継早やつぎばやに耶馬台やまとへ向けた。
日輪 (新字新仮名) / 横光利一(著)
彼女を苛立いらだたせる原因であるらしく、苛立てば苛立つほどなお寝られなくなって、夜中に荒々しく廊下をけて来て、両親の寝室のふすまをばたッと開けて
細雪:01 上巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
居士はもう自分の生命は二、三年ほかないものと覚悟した一つのあせりがもとになってじりじりと苛立いらだっていた。
子規居士と余 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
そのためには、余沫よまつをうけて書かでもがなの人のことや秘事までが出されたりして、余計にその事件に関係をもった当事者たちを苛立いらだたせ迷惑をかけもした。
芳川鎌子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
その間に渠の頭腦は、表面だけ益々苛立いらだつて來て、底の底の方が段々空虚になつて來る樣な氣分になつた。
病院の窓 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
崖の崩れたましい痕があらわになり渓流の中にも危岩がそびえ立って奔流を苛立いらだたせている処もある。
雨の上高地 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
裕佐は苛立いらだつて来た。彼は出来上つた許りの自分の作をもつと自分の傍においてゆつくり眺め度かつた。
九時近くになると、彼は苛立いらだった顔付をやわらげ、そして、自分の本性にかぶせられる限りの恥しからぬきちんとした外見をよそおいながら、その日の業務に出て行った。
苛立いらだたしさが、湧き返って来たように、綺麗な眉や眸を、高い鼻の上へ、きゅっと寄せてしまった。
貞操問答 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
その倦怠と不快な壓迫を遁れようとして盛に働いたみんなの惡戲性は、やがて疲れて來た。先生をからかつて苛立いらだたせて得られる意地惡な面白味は、漸く薄れて行つた。
猫又先生 (旧字旧仮名) / 南部修太郎(著)
老人はたびかさなる邪魔立てにすっかり苛立いらだって、経費削減とか改革とかと、一くち口にしただけで、老人と、この居酒屋の賢人とのあいだに大喧嘩がおこる合図になる。
彼もまた、沸騰するような心臓の動悸のために苛立いらだっていて、判断力を失っているのだった。
恐怖城 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
貫一の声音こわねやうや苛立いらだちぬ。彼の得言はぬを怪しと思へばなり。宮は驚きて不覚そぞろ言出いひいだせり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
するとにわかに頭上の葉がざわざわ揺れて、さきほどまで静まっていた空気のなかにどす黒いかげりが差すと、の光が苛立いらだって見えた。それはまた天気の崩れはじめるきざしだった。
死のなかの風景 (新字新仮名) / 原民喜(著)
声は少しさびのある高調子で、なまりのない東京弁だった。かなり、辛辣しんらつな取調べに対して、色は蒼白あおざめながらも、割合に冷静に、平気らしく答弁するのが、また、署長を苛立いらだたせた。
越後獅子 (新字新仮名) / 羽志主水(著)
だからお母はんはいやや、すぐそうばかりとる、とTちゃんが苛立いらだたしそうにおこる。あっちへかえってからもこの母子の感情の急所はこういうところにあることがわかります。
美佐子の返事は曖昧あいまいで、不満足なものだった。曖昧さはうまく言えないところから来ていた。うまく言えないで苛立いらだち、苛立つと余計うまく言えなくなるのだったが意味はわかった。
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
初音町の家を出るまで、苛立いらだつようであった純一の心が、いよいよこれで汽車にさえ乗れば、箱根にかれるのだと思うと同時に、差していたしおの引くように、ずうと静まって来た。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
いかに彼が心中あえ苛立いらだって捜し求めているか、十分想像に難くないのであった。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
唐突に、かんなくずのような幕が切っておとされて、野蛮な四重奏が苛立いらだたしく鳴りだした。最初、私にあたえられた令嬢社交界のような音律の苦痛が、しだいにエクスタシイに私を誘った。
大阪万華鏡 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
四時過ぎに役所から帰つて来て洋服の儘に机の前に坐つて居たが、妙に心気が苛立いらだつのでいつのまにか倒れてしまつた。妻は姉が来て芝居へつれだしたとかで小女こをんなが独り留守をして居た。
公判 (新字旧仮名) / 平出修(著)
欝々うつうつと頭を押しつけて、ただもう蒸し暑く、電気を含んだ空は、かさにかかっておどかしつけるようで、感情ばかり苛立いらだつ、そうして存外に近い山までが、濃厚な藍靛らんてん色や、紺色に染まって
谷より峰へ峰より谷へ (新字新仮名) / 小島烏水(著)
アイツは僕が先生の注射のお蔭でグーグー眠っているのを見ると、妙に苛立いらだたしくなって、しゃくさわって来るのです。そうしてしまいには殺してしまいたいくらい憎らしくなって来るんです。
狂人は笑う (新字新仮名) / 夢野久作(著)
あの疼痛とうつうに似たせつない空腹感、やがてききってそれが痛みかどうかさえわからなくなり、ただ、どこにも力の入れようのない苛立いらだたしさがからだ全体に漂いだし、遠くのものがかすみ
煙突 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
疳高くりんとした声だった。っとしとねを蹴って立ち上ると苛立いらだたしげに言った。
十万石の怪談 (新字新仮名) / 佐々木味津三(著)
重い息苦しい空気のただよっている玄関の、うす暗い灯のなかに突っ立って、私は異常の怖ろしさと苛立いらだたしさに胸をとどろかせていると、たちまちに長い鋭いひと声が家のなかでひびいた。
私はただ、苛立いらだたしい心を抱いて立っているよりほかはなかった。と、前の桑畑から、肥桶こやしおけを担いだ一人の百姓男が膝のぬけた股引を穿菅笠すげがさかむってやって来て、家の中に這入ろうとした。
私は旧臘きゅうろうからのゴタゴタで、満足な仕事もせず、世の中から忘れられたとひがんでいたときだけに、その客たちが嬉しく、桂子が二時間経っても、まだ来ない気持の苛立いらだちも紛らすことができた。
野狐 (新字新仮名) / 田中英光(著)
一言一句がハッキリ耳に這入はいって、私の神経はいよいよ苛立いらだって来た。
急行十三時間 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)