ひしめ)” の例文
そして人々がひしめき合っているうちに、大決心をもって落ちている緋房をそっと拾って掌に丸めこむと素知らぬ様子で、其場を立去った。
日蔭の街 (新字新仮名) / 松本泰(著)
戸をひしめかして、男は打ちたおれぬ。あけに染みたるわが手を見つつ、重傷いたでうめく声を聞ける白糸は、戸口に立ちすくみて、わなわなとふるいぬ。
義血侠血 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
闇が彼の身のまはりにひしめいて居た。それは赤や緑や、紫やそれらの隙間のない集合で積重ねてあつた、無上むしやうに重苦しい闇であつた。
折から初秋はつあきの日は暮るるになんなんとして流しの上は天井まで一面の湯気が立てめる。かの化物のひしめさまがその間から朦朧もうろうと見える。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
役所の前は水が浅く、足のくるぶしまであるかなしかで、そこには人がひしめいてい、縁側には役人たちと、寄場奉行の姿も見えた。
さぶ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
あかで黒光りした綿入れの上衣を着た苦力たちが、うようよとひしめいて、それがみんな、寒さしのぎみたいに、わあわあ言っていて
いやな感じ (新字新仮名) / 高見順(著)
地震前から持ち越しの永久的大鉄筋の間に、半永久的の上等なバラックがひしめき並んで、見様みようによっては昔の銀座よりも美しくて変化がある。
博士だけは、直立して、柱の蔭に硝子の雨を避けていた。警官連中は入口の扉を開きはしたが近寄れないので、どうしたものかとひしめっていた。
国際殺人団の崩壊 (新字新仮名) / 海野十三(著)
蒲田が一切を引受けて見事にらち開けんといふに励されて、さては一生の怨敵おんてき退散のいはひと、おのおのそぞろすすむ膝をあつめて、長夜ちようやの宴を催さんとぞひしめいたる。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
死者狂いの四五十人が異口同音に、「それたゝめ、殺せ」とひしめいきおいすさまじく、前後左右より文治に打ってかゝりました。
後の業平文治 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
ともすればものう駘蕩たいとうたる春霞の中にあって、十万七千の包囲軍はひしひしとひしめき合って小田原城に迫って居る。
小田原陣 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
夕暮れの通りを、にぎやかな天文館通りへ出て、富岡は、映画館の一つ一つを眺めてまはつた。狭い往来には、混血児的人種が、河水のやうにひしめき流れてゐる。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
みんなどんなに期待に燃えてこの酒場タベルナの郵便棚のまえにひしめくことであろう! すると、来てる来てる! 恋人から妻から娘から老母から! 眼白押めじろおしに立って
参詣の群集が牛を取囲みこれを押しつぶそうとひしめきあい、牛がつぶれると豊年なりとて歓声をあげる。
警部の温顔おんがんにわかいかめしうなりて、この者をも拘引こういんせよとひしめくに、巡査は承りてともかくも警察に来るべし、寒くなきよう支度したくせよなどなお情けらしう注意するなりき。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
夢中で橋を渡ると、饒津にぎつ公園裏の土手を廻り、いつの間にか彼は牛田うした方面へ向う堤まで来ていた。この頃、漸く正三は彼のすぐ周囲をぞろぞろとひしめいている人の群に気づいていた。
壊滅の序曲 (新字新仮名) / 原民喜(著)
生活のひしめきのあるのを感じ、伸子は、今直ぐにでも俥を呼ばせたいようになった。
伸子 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
これだけの異変が地表に起るには、地下によほど恐ろしい力のひしめきがあるにちがいない。しかしそれが噴火となって爆発するか、この程度で落着くかという見透しはなかなか困難である。
天地創造の話 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
駒井は、今の日本の時世が、行詰まって息苦しい時世であり、狭いところに大多数の人間がひしめき合って、おのおの栗鼠りすのような眼をかがやかしている時世であることを、強く感じている。
大菩薩峠:24 流転の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
こえ迯行にげゆきしと見え足跡あしあとの付てあれば追駈おつかけよとひしめき合ふに以前いぜんの旅僧未だ車のかげに居たりしが此騷このさわぎを聞我此所に居るならば盜賊たうぞくうたがかゝりてとらへられんもはかがたし早く此處このところを立去べしと立上りしを
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
川沿いにあった草原や荒地には、すっかり家が建ち並び、川の中央にある小さな妙見島にも工場の建物がひしめいている。
青べか物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
さしも息苦き温気うんきも、むせばさるるけふりの渦も、皆狂して知らざる如く、むしろ喜びてののしわめく声、笑頽わらひくづるる声、捩合ねぢあひ、踏破ふみしだひしめき、一斉に揚ぐる響動どよみなど
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
今にも飛びかかりそうな眼付めつきをしながらドアの蔭にひしめいていたものであるが、兼が「兄貴達も容赦してくれ」と云って頭をグッと下げた会釈ぶりが気に入ったらしく
難船小僧 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
何が何だか悟りのないまゝに、人間は社会と云ふわくのなかで、ひしめきあつては、生死をくり返してゐる。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
今にも戦争いくさが起りそうに見える。焼け出された裸馬はだかうまが、夜昼となく、屋敷の周囲まわりまわると、それを夜昼となく足軽共あしがるどもひしめきながらおっかけているような心持がする。
夢十夜 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
かれひとうなづきつゝ、從容しようようとして立上たちあがり、甲板デツキ欄干てすりりて、ひしめへる乘客等じようかくらかへりみて
旅僧 (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)
こう叫ぶと彼は身体をひるがえして駆け出しました。一同は呀ッと声を合せて叫びましたが、勝見の後を追って戸外の闇の中にひしめきながら、実験室のある方向へ走って行きました。
赤耀館事件の真相 (新字新仮名) / 海野十三(著)
互におのおのの意志を遂げて居る間に、各の枝は重り合ひ、ぶつつかり合ひ、からみ合ひ、ひしめき合つた。自分達ばかりが、太陽の寵遇ちようぐうを得るためには、他の何物をも顧慮しては居られなかつた。
川沿いにあった草原や荒地には、すっかり家が建ち並び、川の中央にある小さな妙見島にも工場の建物がひしめいている。
青べか物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
長い間の戦争に扱使こきつかはれてゐた、栄養のない顔が、ひしめきあつて、ゆき子の周囲を流れてゐる。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
その数は十五、六体もあろうか。互いにひしめきあいながら、そのたびにあの異様なシュウシュウシュウシュウという怪音を立てるのであった。下宿で見た白い怪物と同じものだ。
地球盗難 (新字新仮名) / 海野十三(著)
暗い路はおのずと神経的にきて来た。坂の下まで歩いて、いよいよのぼろうとすると、胸を突くほど急である。その急な傾斜を、人の頭がいっぱいにうずめて、上から下までひしめいている。
永日小品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
さりながら八蔵がなお念のため鉄棒にてなぐつぶさむとひしめくにぞ、その時敵は二人なれば、蹴散らして一度ひとたび退かむか、さしては再び忍び入るにはなはだ便り悪ければ、いたく心を痛めしが
活人形 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
吹来ふききたり、吹去る風は大浪おほなみの寄せては返す如く絶間無くとどろきて、そのはげしきは柱などをひちひちと鳴揺なりゆるがし、物打倒すひしめき、引断ひきちぎる音、圧折へしおる響は此処彼処ここかしこに聞えて、唯居るさへにきもひやされぬ。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
或はこの空間にひしめき合つて居るといふ不可見世界のスピリット達の意志が、自分自身のもの以上に、力強く働きかけるといふことはあり得べき事として、彼はそれを認めざるを得ないやうに思つた。
その飾窓の中には、大勢の怪人が顔をこっちへ向けてひしめっている姿が認められた。
地球発狂事件 (新字新仮名) / 海野十三丘丘十郎(著)
他人様の家は怖い。牛と云う文字が、急に眼の中に寄って来て、ひしめくと云う文字に見えて来る。ああ私には絶好の機会と云うものがない。私は若い、若いから機会をつかみたいのだ。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
それから、始まって、息をつぐ間もなく、爆裂音ばくれつおんが続いた。壕の天井や壁から、ばらばらと土が落ちて、おののひしめきあう避難民衆の頭の上に降った。あっちからもこっちからも、黄色い悲鳴があがる。
彼等の顔のハッキリしないのも道理どうりです。まったくは、顔というものが無いのです。頭のない生物です。頭のない生物が、まるで檻の中にひしめきあう大蜥蜴おおとかげむれのように押し合いへし合いしているのです。
崩れる鬼影 (新字新仮名) / 海野十三(著)