行李こうり)” の例文
とうとう六年目に、Hとわかれた。私には、蒲団と、机と、電気スタンドと、行李こうり一つだけが残った。多額の負債も不気味に残った。
でも、良吉が傍で洗濯物や乾魚を小さい行李こうりに収めて明日の出立の用意をしかけると、辰男も書物をいてしばしばその方をかえりみた。
入江のほとり (新字新仮名) / 正宗白鳥(著)
そこへ二人の若者が、棒で一つの行李こうりを担って、あわただしく空地へかけ込みながら「火を消して、火を消して」とただならぬ声で叫んだ。
地異印象記 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
古箪笥ふるだんす行李こうりなどのあるそばで狭い猫の額のような庭に対して、なまりぶしの堅い煮付けでかれらは酒を飲んだり飯を食ったりした。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
卒業式の日、私は黴臭かびくさくなった古い冬服を行李こうりの中から出して着た。式場にならぶと、どれもこれもみな暑そうな顔ばかりであった。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
二人は道具を入れた小さい行李こうりの様なものを楓の枝ごみの葉かげに置いたり散らばったわらを足で押えてしごきながらひろって居る。
通り雨 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
結婚といっても、行李こうり一個と共に久美子の身柄が、『すみれ』から蟹江の家に移動しただけの話です。しごくお手軽なものでした。
Sの背中 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
調べると、この間から主人が盗まれたと言っていた五十両の小判が、泥のついたまま、ボロきれに包んで、行李こうりの底に隠してあったんです
二畳の部屋には、土釜どがまや茶碗や、ボール箱の米櫃こめびつ行李こうりや、そうして小さい机が、まるで一生の私の負債のようにがんばっている。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
ハテナ、押入れの中に秘密の部屋でもあるのかしらと思って見ると、そうではない、やっぱり普通の押入れで、行李こうりなどが入れてある。
猟奇の果 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
お前は言った、「戦争をやるならやれ。おれは、そんなことは知らん。おれの行李こうりはちゃんとできている。長靴は磨いてある」と。
しこうして彼らを送りし船は、すでに去りて浩蕩こうとうの濤にとりこにせられ水烟渺漫びょうまんうちに在り、腰刀、行李こうりまたその中に在りて行く所を知らず。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
行李こうりのふたをあけ、文庫をぶちまけ、果ては、長火鉢から針箱の抽斗ひきだしまで引っかき廻して反古ほごらしいものを片っ端からあらためはじめた。
鳴門秘帖:04 船路の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そこで、油壺を取り上げて、戸棚へ仕舞い込んでおこうとする途端に、行李こうりの中で、パッと自分の眼を射るものを見つけました。
大菩薩峠:23 他生の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
夜具蒲団に大きな行李こうり、それに風呂敷包ふろしきづつみも二つ三つという荷で、それを下した時は、「お嫁入のようだね」といったことでした。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
山寺の一室に行李こうりいた宣揚は、遠く本堂の方かられて来る勤行ごんぎょうの声に心を澄まし、松吹く風に耳をあろうて読書三昧ざんまいに入ろうとしたが
悪僧 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
祖母ばあさんは、あかりのした針箱はりばこをおき、お仕事しごとをなさっていました。そのうち、れから行李こうりし、なにか、おさがしになりました。
つづれさせ (新字新仮名) / 小川未明(著)
支那風の扉をつけた文求堂の裏口で車を停めると、中から店の人が、がんじがらめにした行李こうりを一つ車の中へ運んでくれた。
斗南先生 (新字新仮名) / 中島敦(著)
石田は西の詰の間に這入って、床の間の前に往って、帽をそこに据えてある将校行李こうりの上に置く。軍刀を床の間に横に置く。
(新字新仮名) / 森鴎外(著)
この混雑の中で、着物やら行李こうりやら座敷中一ぱいにごちゃごちゃ置いてある中で、捨吉は持って帰った卒業証書を小父さんに見て貰った程で。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
新聞が来ると何よりもさきに職業案内のところを見たり、英語や数学の学校の生徒募集の広告を切り抜いては行李こうりの中にしまい込んだりもした。
あっちこっち行李こうりを持ち廻って旅している間、笹村の充血したような目に強く映ったのは、若い妻などを連れて船へ入り込んで来る男であった。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
杜が江西地方からかえって韶州しょうしゅうに来て、旅宿に行李こうりをおろすと、その宿には先客として貴公子然たる青年が泊まっていた。
夜具と行李こうりとトランクが土間に放り出されると、彼はとにかく往来へ出て行った。たちまち揺れ返る空間が大きくなっていた。
火の唇 (新字新仮名) / 原民喜(著)
砲兵の弾薬車と行李こうり車とは、焼けつつある軒並みの間を通ることができなくて、鎮火するまで待たなければならなかった。
えたような心を我れから引き立てて行李こうりをしばったり書籍ほんをかたづけたりしながらそこらを見まわすと、何かにつけて先立つものは無念の涙だ。
うつり香 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
N氏の所から、震災では九谷焼も勿論駄目だったろうねといって、鳥窠禅のふくをくれたが、とこのない下宿の四畳半では、空しく行李こうりの中でねている。
九谷焼 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
「でも、そいつあ困るなあ。僕は海員手帳が預けてあるし行李こうりもあるし、そいつあ弱るよ」小倉は全く困るのだった。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
「人形を入れた不思議な行李こうり」というような記事が隅ッこの方に小さく出ていたのを、読まれた方もあるであろう。
そのあとで近処の本家や親戚の人達がわたしを訪ねて来たので、わたしはそれに応酬しながら暇をぬすんで行李こうりをまとめ、こんなことで三四日も過した。
故郷 (新字新仮名) / 魯迅(著)
行李こうりそこそこかの地を旅立ち、一昨日おとといこの地に着きましたが、暑気あつさあたりて昨日一日、旅店に病みて枕もあがらず。
活人形 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
その男への執着でなく、霊の恋の記念のものだけが焼きすてかねて、再び見まい、手にも触れまいと、一包にくくって、行李こうりの底に押籠おしこんでしまった。
遠藤(岩野)清子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
行李こうりを車へ積んで主人にいとまをつげ車へ上って上を見ると、二階に雪ちゃんが立っていてボンヤリ空を眺めていた。
雪ちゃん (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
僅かな行李こうりの移動でも直ぐに発見されて、その方向に集中弾が飛んで来るので、輸送がナカナカ手間取っている。
戦場 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
かねてから猫の産月うみづきが近づいたので、書斎の戸棚とだな行李こうり準備よういし、小さい座蒲団を敷いて産所にてていたところ
二葉亭余談 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
いねは夜半に仕事場の裏の若衆部屋で何かちがった気配がするのでのぞいてみると、壁に提灯ちょうちんをひっかけて千吉が自分の持ち物を行李こうりの中へまとめている。
(新字新仮名) / 壺井栄(著)
はじめ細ごました物の紛失するうちはよかつたが、やがて母の愛用してゐる裁物鋏が見えなくなるに及んで、母の探索の手はつひに彼女の行李こうりにまで伸びた。
少年 (新字旧仮名) / 神西清(著)
何分下が平でないから、置物のすわりがよろしくない。アルコールの火で毛布が黒焦になったり、行李こうりの蓋が蛇目形に焦げたりして、これはこれはとお笑になる。
寛文かんぶん十年陰暦いんれき十月の末、喜三郎は独り蘭袋に辞して、故郷熊本へ帰る旅程にのぼった。彼の振分ふりわけの行李こうりの中には、求馬もとめ左近さこん甚太夫じんだゆうの三人の遺髪がはいっていた。
或敵打の話 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
多くの人が行李こうりを抱いて一度郷里に帰り去って後も我らはなお暫く留まって京洛の天地に逍遥さまようていた。
子規居士と余 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
「あっ、そのこと。何でも、おかみさんの物がなくなって、あたいの行李こうりから出てきたとかいうんだよ」
巷説享保図絵 (新字新仮名) / 林不忘(著)
五六枚の衣を売り、一行李こうりの書を典し、我を愛する人二三にのみわかれをつげて忽然こつぜん出発す。時まさに明治二十年八月二十五日午前九時なり。桃内ももないを過ぐるころ、馬上にて
突貫紀行 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
行李こうりを受取りてだめを押す工合隙なく「何と理窟ぢやあございませんか」と突つ込むところえぐし。
町を歩いて眼についたものに座蒲団入ざぶとんいれの四角い行李こうりがありました。竹編たけあみでこれに渋紙を貼り定紋じょうもんを大きくつけます。見てもなかなか立派で使えば重宝ちょうほうでありましょう。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
一度なんぞは、自分で立って行って書類を一山つくえ抽斗ひきだしから出して、それを行李こうりへ入れさせた。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
店内は日本の品物をもってうずまり、ござ・雨傘・浮世絵・屏風・茶碗・塗物・呉服・小箱・提灯ちょうちん・人形・骨董・帯地・着物・行李こうり・火鉢・煙草盆——一口に言えば何でもある。
踊る地平線:05 白夜幻想曲 (新字新仮名) / 谷譲次(著)
「進物箱が十行李こうりもあって、十人の家来がエッチラオッチラ、大汗流してかついでおりやす」
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
現場不在証明アリバイ……そんなことは出来ませんでした、何でも蕗子が殺された時間には、私はまだ空家になった私の家でただ一人、行李こうりもたれかかって黙想に耽っていたのでしたから。
流転 (新字新仮名) / 山下利三郎(著)
彼女が行李こうりなどを持ち込むと、すぐに家の中の拭き掃除にかかり、食事の用意をした。
水晶の栓 (新字新仮名) / モーリス・ルブラン(著)
俺はどうもその出方が怪しいと思ったので、君らが出かけた後で、そっとその行李こうりを調べてみると、いつ持ちだしたものやら、何一つ残っていないではないか。それにはあきれたね。
四十八人目 (新字新仮名) / 森田草平(著)