おお)” の例文
そは戦敗の黒幕におおわれ、手向たむけの花束にかざられたストラスブルグの石像あるがために、一層いっそう偉大に、一層幽婉ゆうえんになったではないか。
曇天 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
夕日は物の影をすべて長くくようになった。高粱の高い影は二間幅の広い路をおおって、さらに向こう側の高粱の上に蔽い重なった。
一兵卒 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
そうして彼の顔の上には、ペンキのように青い空が二ツ三ツ白い雲のキレを溶かし込みながらピカピカと光っておおいかぶさっていた。
童貞 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
竹藪があり、麦畑があり、長い橋があり、冬には雪がその道をおおうのであった。私たちはゲートルを穿いて、雪道を踏んで通学した。
光り合ういのち (新字新仮名) / 倉田百三(著)
見る時、ほおおおへる髪のさきに、ゆら/\と波立なみだつたが、そよりともせぬ、裸蝋燭はだかろうそくあおい光を放つのを、左手ゆんでに取つてする/\と。
処方秘箋 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
立派な革椅子に、チーク材の卓子など、すこぶる上等な家具が並んでいて、床をおお絨氈じゅうたんは地が緋色ひいろで、黒い線で模様がついていた。
鞄らしくない鞄 (新字新仮名) / 海野十三(著)
唐紙からかみへ手をかけると、建付けの悪いに似ず、心持よく滑って少し荒らした古畳の六畳が、おおうところなく一と目に見られるのでした。
それはくだってまた昇るのであるが、暫くは密林帯で、数町の間樹木におおわれて、日の目も漏らぬトンネルのような幽邃ゆうすいな谷がつづく。
雲仙岳 (新字新仮名) / 菊池幽芳(著)
初め山道は麓の村落でおどかされた程急ではないが、漸く樵夫きこりの通う位の細道で、両側から身長みのたけよりも高き雑草でおおわれている処もある。
本州横断 癇癪徒歩旅行 (新字新仮名) / 押川春浪(著)
この時崩れかかる人浪はたちまち二人の間をさえぎって、鉢金をおおう白毛の靡きさえ、しばらくの間に、めぐる渦の中に捲き込まれて見えなくなる。
幻影の盾 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
そして知らない文字に攻められるのが恐ろしさに、内部をば開けてみないで、手馴れている自分の書物でおおうて机の片隅へ押遣った。
入江のほとり (新字新仮名) / 正宗白鳥(著)
テープの貼られた所だけに型が残るのならよいが、剥がす拍子に周囲に疵がひろがるので、誰かが開けたことはおおい隠しようもない。
(新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
故郷の山も、春は若葉におおわれるのだが、海があり、白砂があり、砂丘や牧場があって、その若葉はさしてめだたなかったのである。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
荷駄の背には荒菰あらごもおおいかけてある。そしてがんじがらみにした男の体を鞍の上にくくしつけ、両側から柴の薪束まきたばを抱き合せてある。
宮本武蔵:08 円明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彼女の魂はまったく夫の魂となりおうせて、マリユスの考えの中で影におおわれてるものは皆、彼女の考えの中でも暗くなるのであった。
氏に接するとき私はいつも、雪におおわれて剣のように尖っている信州の連山を思い起す。同じ雪の山でも富士山のように平凡ではない。
国枝史郎氏の人物と作品 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
兎も角も、家の屋根の如き、天日を強く受ける所や、その他の燃える恐れの有る物件は、燃えぬ品物を以ておおう用意をするがかろう。
暗黒星 (新字新仮名) / シモン・ニューコム(著)
その一瞬間、眼の前が霧にでもおおわれたように、突然ぼうとなり、宿の者の姿がかすんで、無限に小さく、遠のいてゆくように思えた。
烈しい口調で言ったかと思うと、悲しみにゆがんでくる顔を、ハッと両手でおおい隠し、そのまま肩を震わせて泣き入るのであった。
暗黒星 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
いつもより余程手を抜いてはいるが、化粧の秘密をりて、きずおおい美をよそおうと云う弱点も無いので、別に見られていて困ることは無い。
(新字新仮名) / 森鴎外(著)
この名の児童遊戯は浜辺で一人を顔をおおうてうつむき伏させ、その上からうんと砂をかけておいて、下界のことを尋ね問う遊びだという。
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
やっと見出した工夫は、商品を包んだ風呂敷で頭をおおい、着物のたくし揚げをおろして、ちぢこまって、足をくるんで寝ることであった。
どもりながらそう云って、彼は両掌りょうてで、顔をおおった。感きわまって子供のように泣きだした。おさえていたものを抑えきれなくなったのだ。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
もはやおおわんとしておおいがたき事態の急激なる悪化は、支配階級及びその代弁者どもをして今さらのように国難来を叫ばしむるにいたった。
「恐ろしい! 恐ろしい!」と呻きながら、精も根も尽き果たした彼は、扉の一つへ体を持たせかけて遂々両手で顔をおおった。
人間製造 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
その蓋から一方へ向けてそれでおおい切れない部分が二三尺はみ出しているようであった。だが、どうもハッキリ分らなかった。
淫売婦 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
ともの方を見ると、実に驚くべき速さでむくむくと湧き上がる、奇妙な銅色をした雲が、水平線をすっかりおおっているのに気がついたのです。
更に進むと、一面に塩におおわれた侵蝕高原地帯に入る。それも支那書では「白竜堆はくりょうたい」という名で残っているものだそうである。
『西遊記』の夢 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
暫らく二人は窓の下にたたずんでいた。丘の上の、雪におおわれた家々には、灯がきらきら光っていた。武石は、そこにも女がいることを思った。
渦巻ける烏の群 (新字新仮名) / 黒島伝治(著)
しかしこれ一部を以て全部をおおうものである。一度旧約聖書をさって新約に入らんか、この種の陰影はごうも認めがたいのである。
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
太平洋の島々の中で最も神秘的なイースター島(其処では、今は絶滅した先住民族の残した怪異巨大な偶像が無数に、全島をおおうている。)
光と風と夢 (新字新仮名) / 中島敦(著)
見上げると朝の空を今までおおうていた綿のような初秋の雲は所々ほころびて、洗いすました青空がまばゆく切れ目切れ目に輝き出していた。
或る女:1(前編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
やがて御釈迦様はその池のふちに御佇おたたずみになって、水のおもておおっている蓮の葉の間から、ふと下の容子ようすを御覧になりました。
蜘蛛の糸 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
古い城下の、しいえのきやタモの大木のある裏町には、星ぞらがともすればおおわれがちで、おけらがぶるぶると、溝汁どぶじるの暗い片かげに啼いていた。
(新字新仮名) / 室生犀星(著)
「しっ、しっ。そんなに大きな声をお出しになってはいけません」と、リザベッタはその手で、彼の口をおおいながら言った。
山桜の花は幾重もかさなりて、木のもとのこけの青さも見えぬほどである。水に散っては水をおおって、こぎゆく舟のあとをくっきりきわ立てる。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
奔馬のもんのついた真白い着物を着た、想像よりはずっと痩形やせがただが、長身の方で、そうして髪は月代さかやきおおわれているが、かおの色はあおいほど白い。
大菩薩峠:40 山科の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
そして机の前へ来て煙草たばこをふかしていた。と、いきなり葉子がころがるように入って来たと思うと、たもとで顔をおおって畳に突っ伏して泣き出した。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
丘陵の上にあるハコネ(駅)から見おろすと、視界はことごとく雪と氷でおおわれていて、どこまでが陸で、どこからが海か、見当がつかない。
いやな感じ (新字新仮名) / 高見順(著)
……長いこと、鬱陶うっとうしくおおいかぶさっていたこの梅雨雲つゆぐもが今日こそは晴れるのではないかと思ってな。……待っているのだ。
なよたけ (新字新仮名) / 加藤道夫(著)
同じ雪におおわれながらも、この鳥形のみは粗き山の膚(元より白色)の中に、滑らかに平に浮び出で居候が、認められ候。
雪の白峰 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
飼うには重曹とか舎利塩などのような広口の瓶のいたのを利用して、口は紙でおおうてそれに針で沢山の穴をあけて置く。
三筋町界隈 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
彼女はその発作が鎮まっても、いつまでも苦しそうに身体をねじらせたまま、両手で顔をおおいながら、ただうなずいて見せた。
風立ちぬ (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
故人の瑜瑕ゆか並びおおわざる全的生活は他日再び伝うる機会があるかも知れないが、今日はマダその時機でない。かつおのずから別に伝うる人があろう。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
我々は経済学の経験的性質でこの合理的性質をおおいかくしていたことが久しいが、何人もこれを批難し得ないであろう。
その全体をおおうもの、もしくはその主潮となっているものは、いうまでもなく後者であり、それがなくては日本の民族生活は全く失われてしまう。
日本精神について (新字新仮名) / 津田左右吉(著)
長門ながとは山陽の西陬せいすう僻在へきざいす、しこうして萩城連山のきたおおい、渤海ぼっかいしょうに当る。その地海にそむき山に面す、卑湿ひしつ隠暗。城の東郊は則ち吾が松下村なり。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
夜目にも、もの凄い横波が、ひさしのようにおおいかぶさったかと思うと、次の瞬間にはボートはひとたまりもなくひっくりかえってしまったのだった。
秘境の日輪旗 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
往々疑問の雲におおわれていると同じく、ガーイウスの事跡の如きもまた同じ運命を免れることが出来ないのは、史上の奇現象というべきであろうか。
法窓夜話:02 法窓夜話 (新字新仮名) / 穂積陳重(著)
彼女の頭に映っていたかつての彼の男々おおしく美しかったあの顔は、今は拡まったくぼみの底に眼を沈ませ、ひげは突起したおとがいおおって縮まり、そうして
日輪 (新字新仮名) / 横光利一(著)