美作みまさか)” の例文
……されば九州で危いのはまず黒田と細川(熊本)であろう……と備後びんご殿(栗山)も美作みまさか殿(黒田)も吾儕われらに仰せ聞けられたでのう。
名君忠之 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
西暦一七二六年、美作みまさか津山つやまにおこった八千人の百姓一揆は、「殿様にうらみあり。」という表現をもっておこなわれた騒擾であった。
つまり……毛利方から提示して来た条件というのは、この際、媾和こうわするならば、備中びっちゅう備後びんご美作みまさか因幡いなば伯耆ほうきの五ヵ国を割譲かつじょうしよう。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
わしは早速試みて見た。長江美作みまさかが気の毒にも、らいを病んで命旦夕たんせき、そこで一粒を投じてやった。ところがどうだ。ところがどうだ!」
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
今井君の骨を抱いて、その忘れ形見達と共に、僕が美作みまさか山中の故郷へ帰ったのは、桜花さくらに早い大正六年四月上旬の事であった。
友人一家の死 (新字新仮名) / 松崎天民(著)
野呂勘兵衛が小栗美作みまさかを討つため、日雲閣へりこんだのも、やはり月見の宴の折だったそうな。総じてやかたの討入りには、順法と逆法がある。
鈴木主水 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
すなわち、近江中将入道蓮浄れんじょう佐渡国さどのくに、山城守基兼は伯耆ほうき、式部大輔雅綱は播磨はりま、宗判官信房は阿波あわ、新平判官資行が美作みまさかといったぐあいである。
(ロ)畝方うねかた・谷方 これも土地の高低によって分けたので、その例は美作みまさかにある。久米くめ鶴田たづた村大字角石畝ついしうね及び角石谷。
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
吉備きびくに中山なかやま——美作みまさかにある——よ。それがこしのひきまはしにしてゐる、細谷川ほそたにがはおとんできこえることよ。
歌の話 (旧字旧仮名) / 折口信夫(著)
秀秋は裏切り者として名高くなったが、その功によって徳川家からは疎略にあつかわれず、筑前から更に中国に移封いほうして、備前びぜん美作みまさか五十万石の太守たいしゅとなった。
馬妖記 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
むかし美作みまさかの国に、蔵合ぞうごうという名の大長者があって、広い屋敷には立派なくらが九つも立ち並び、蔵の中の金銀、夜な夜なうめき出して四隣の国々にも隠れなく
新釈諸国噺 (新字新仮名) / 太宰治(著)
寿詞を贈つたものには讚岐の後藤漆谷しつこく美作みまさか茂誥大輔もかうたいほ、徳島の僧玉澗等があつたことが集に見えてゐる。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
ここには七日まえから美作みまさかのくに津山で十八万六千石、森伯耆守ほうきのかみの江戸邸の家臣が十七人泊っている。
若殿女難記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
法然上人は美作みまさかの国、久米くめ南条稲岡庄なんじょういなおかのしょうの人である。父は久米の押領使おうりょうしうるま時国ときくに、母は秦氏はたしである。子の無いことを歎いて夫婦が心を一つにして仏神に祈りをした。
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
武蔵の父は十手の名人で無二斎と称し、主人、新免氏の姓を名乗る事を許されて、新免無二斎とも称していたが、この人夫妻の墓は美作みまさかの国英田郡あいだごおり字宮本と云う所に有る。
巌流島 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
硯のほかに技は置台や箱や急須きゅうすのようなものにまで及びます。歴史に名高い「備中檀紙びっちゅうだんし」はもう昔語りになりましたが、美作みまさか苫田とまた郡の勝田かつた郡では多少の漉場すきばを今も見ます。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
毎年二月半ばから四月五月にかけて但馬たじま美作みまさか、備前、讃岐さぬきあたりから多くの遍路がくる。
海賊と遍路 (新字新仮名) / 黒島伝治(著)
第一は備中びっちゅうかま鳴り、第二は備前の田植え、第三は美作みまさかの夜桜にして、この三者はおのおのその国の一の宮にある奇瑞きずいといわれている。夜桜は、一夜のうちに自然に桜が開くのである。
迷信と宗教 (新字新仮名) / 井上円了(著)
『談海』十二に山神の像を言いて「猿のこうをへたるが狒々ひひという物になりたるが山神になる事といえり」、『松屋筆記』に『今昔物語』の美作みまさかの中参の神は猿とあるを弁じて、参は山の音で
長政の忠臣遠藤喜右衛門、赤尾美作みまさかなどは、信長も昔の信長とは違う、今では畿内五州、美濃、尾張、三河、伊勢等十二ヶ国の領主である。以前の信長のように、そんな不信な事をやるわけはない。
姉川合戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
志我津しがつの子ら」とあるから、志我津しがつ即ち今の大津あたりに住んでいた女で、多分吉備の国(備前備中備後美作みまさか)から来た采女で、現職を離れてから近江の大津辺に住んでいたものと想像せられる。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
美作みまさかに在ける時故郷の酒妓のもとより文おこせければ
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
ここ美作みまさか高原たかはら
泣菫詩抄 (旧字旧仮名) / 薄田泣菫(著)
備前、美作みまさかの二州は、血を見ずに味方へ加わったのである。彼はこのよろこびを、当然、主君の信長へ、一刻もはやく告げたく思った。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それにもかかわらず父の美作みまさかが、どのような目的があるのかは知らぬが、この松吉に目をかけて、時々屋敷へ呼び寄せるのをいい気になって慣れ慣れしくふるまい
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
美作みまさか勝田郡豊国村大字上相かみあい間山はしたやま薬師で、毎年この日痩御前やせごぜと称する像を人が裸になって背に負い、群衆手を叩いて「おかしやヤセゴゼ」とはやして大笑いに笑う中を
年中行事覚書 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
常陸ひたちの土浦の土屋相模守、美作みまさか勝山の三浦志摩守といったような馬鹿殿様が力を入れて、松江流、土屋流、三浦流という三つの流儀をこしらえたが、馬鹿囃子の本音は
大菩薩峠:20 禹門三級の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
播磨はりま美作みまさか備前びぜん備中びっちゅう備後びんご安藝あき周防すおう長門ながとの八ヵ国を山陽道さんようどうと呼びます。県にすれば兵庫県の一部分、岡山県、広島県、山口県となります。ざっと明石あかしから下関までであります。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
發足せしが此六郎兵衞は相州さうしう浦賀うらがに有徳の親類有ばとて案内し伊賀亮又兵衞と三人にて浦賀へ立越たちこえ六郎兵衞のすゝめに因て江戸屋七左衞門叶屋かなふや八右衞門美作みまさか屋權七といふ三人の者より金子八百兩を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
破産 (美作みまさか) 日本永代蔵にっぽんえいたいぐら、四十七歳
新釈諸国噺 (新字新仮名) / 太宰治(著)
……失礼なれど美作みまさか、備前の二ヵ国などは、遅かれ早かれ織田家のもの。それをいま、宇喜多家と和議をむすぶなど、毛頭不必要である。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
作陽志さくようし』には美作みまさか苫田とまだ越畑こしはたの大平山に牛鬼と名づくる怪あり。寛永中に村民の娘年二十ばかりなる者、恍惚こうこつとして一夜男子に逢う。自ら銕山の役人と称していた。
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
伯耆ほうき美作みまさかでは大猿を祭り、河内では河伯かっぱを崇めると云う。これらの迷信は捨てなければならない
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
「これは美作みまさかの国より出家修業の為に叡山に登るものでございます」
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
お杉ばばは、昨年、その小次郎が江戸から小倉へおもむく際、途中まで行を共にして、家事整理と法会ほうえのため、一度、美作みまさかの郷里へ戻った。
宮本武蔵:08 円明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
『和名鈔』の時代には曾比そび、それが『壒嚢抄あいのうしょう』には少微しょうびとなり、近世に入っては少鬢しょうびんともなったが、なお播磨はりまでは将人しょうにん伯耆ほうき出雲いずもでは初人しょにん備前びぜん美作みまさかでは初爾しょにといって
吉川元春は美作みまさかから、また毛利輝元も、備中松山に陣をすすめ、四月近くには、全軍、播磨はりまへ向って、行軍を急にしていた。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
同じ県でも美作みまさかの西部では、正月朝寝をすることを大グロを積むというそうである。やはり春早々の自由な無作法を、めでたく言い直そうという趣意から出ている語かと思う。
年中行事覚書 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
拙者の家は、播州ばんしゅう赤松の支流、平田将監しょうげんの末で、美作みまさか宮本村に住し、宮本無二斎とよぶものの一子、同苗どうみょう武蔵であります。
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この以外にこの国及び備中・美作みまさか等には、また一久保田・一窪田という地名がはなはだ多い。これと一鍬田と二箇の地名はあるいはもと同語ではなかったか。その例を言えば
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
石見いわみ長門ながと播磨はりま美作みまさか、備前、備中にまでわたる諸州の武士の名であった。それがみなお味方を誓って来ていた。中には児島高徳らの名もみえた。
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
自分はまた大唐田だいとうだという地名をも集めてみた。丹後・但馬たじま美作みまさか・備前・備中にかけていくらもある。農夫が稲を選択するのは自由であれば、特定の稲の名を地名に負うはずがない。
「そうか。西国表は、備前びぜん美作みまさか因幡いなばの三ヵ国とも、毛利への万一の備えに、一兵もうごかすなと申しつけたことも、手ちがいなく達しておるか」
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
生まれがお宮参りに着るのをミヤマヰリゴ(美作みまさか)、女がお歯黒はぐろを始めてつける日に着るのがカネツケゴ(北美濃きたみの)、年寄が厄年やくどしの祝に着るのをヤクゴ(讃岐さぬき)というのを見ると
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
因幡いなば美作みまさか但馬たじま播磨はりまあたりの緑色の斑点帯はんてんたいを、のみの卵でも探すようにしてやっと見つかる山国の一部落だ。宮本武蔵が生れたという土地なのである。
随筆 宮本武蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
美作みまさか大井荘の二つ柳の伝説などは、至って近い頃の出来事のように信じられておりました。ある時出雲国いずものくにから一人の巡礼がやって来て、ここの観音堂に参詣をして、路のかたわらで食事をしました。
日本の伝説 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
もしやあなたは、但馬たじま宗彭しゅうほう沢庵どのではありませぬか。美作みまさかの吉野ごうでは七宝寺に長らく逗留しておでた……
宮本武蔵:07 二天の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
『東作誌』を見ると、今の美作みまさか苫田とまた郡加茂村大字黒木字樫原に金屋護神かなやごじんという祠がある。銕山かなやまの守護神だという。同郡上加茂村大字物見にも金鋳護宮かないごのみやという祠が三つ、この地往古銕山ありしとある。
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
「那古屋衆の、謀叛むほんと見ゆるぞ。柴田権六の兵千人。林美作みまさかの人数七百ばかり。——不意をせて来おった!」
新書太閤記:01 第一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ダンジ 美作みまさか英田あいだ