“逸(そ)” の例文
彼女は朝田の話を横道に逸(そ)らし得る自信を持てなかった。失礼な! 失礼な! と心の中で叫びつづけながら、彼女は黙りつづけた。
猟奇の街 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
しかし作者(わたし)はしばらくの間物語の筋を横へ逸(そ)らせ、青木原(あおきがはら)で陶器師と別れた高坂甚太郎の身の上について少しく説明しようと思う。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
俯向きながら汗を拭いている私の顔に探偵は怪訝(けげん)そうな眼を瞠(みは)っていたが、やがて卓上に腕を組みながら気の毒そうに視線を逸(そ)らせた。
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)
訪問をした紳士淑女たちが人道をただ足だよりでさぐり、いつ曲がったのか気がつかずに半マイルも自分たちの道から逸(そ)れたこともある。
その詠歎(えいたん)を終りとして、私達は暗然と項垂れ合い、扨て私は窓の外へ目を逸(そ)らして、今にも空気になろうとする私の身体を感じつづけていた。
母 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
「それは……」といいかけたドレゴは、後の言葉を咽喉(のど)の奥にのみこんだ。そして彼は視線をホーテンスの顔から逸(そ)らせた。
地球発狂事件 (新字新仮名) / 海野十三、丘丘十郎(著)
人はなさけの深みにどうしても蹤(つ)いてゆかねばならないように出来ていて、それを逸(そ)らすことができないようになっているものでございます。
津の国人 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
七本目とつづいて三本は途方もないところへ逸(そ)れ飛んで、八本目にようやく的中、九本目十本目は、弓勢(ゆんぜい)弱ったか、へなへなと地を這いながら
今度は楕円形な翳(かげ)が横合から出て来て、煙の様に動いて、もと来た横へ逸(そ)れて了ふ。ト、淡紅色の襖(からかみ)がスイと開いて、真黒な髭面の菊池君が……
菊池君 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
頭こそ下げないが——手こそつかえないが——信長は正直にいって、はやくその問題から話を逸(そ)らしたいような顔をした。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
禽(とり)は横に逸(そ)れて、截(き)られた羽が、動揺した空気に白く舞った、一行手取りにするつもりで、暫く追いかけて見たが、掌中の物にはならなかった。
白峰山脈縦断記 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
この時、クランチャー君の注意は、さっきの手紙を片手に持ってロリー氏の方へ歩いて行くのが見える門番に逸(そ)らされた。
「……!」ずっと立ったままの美佐子が、私を険(けわ)しく見据えた。私は眼を逸(そ)らせ、「子」の字をパクリと口の中へ入れた。
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
白い球が、固い音を立てて道にはずみ、女の掌(て)と路面とを往復する。ふと、球が横に逸(そ)れた。彼は、それを拾い上げた。
待っている女 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
被造物(つくられしもの)またしば/\この路を離る、そはこれは、かく促(うなが)さるれども、もし最初の刺戟僞りの快樂(けらく)の爲に逸(そ)れて 一三〇—
神曲:03 天堂 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
今若し劔を執つて人と相鬪つて居るとすれば、一念の逸(そ)れると同時に、斬り殺されて仕舞ふべきなのであるでは無いか。
努力論 (旧字旧仮名) / 幸田露伴(著)
話が逸(そ)れるが、いつも男女間の愛とさえ言えば、すぐ劣情とか痴情とか言って暗々の裡(うち)に非難の声と共に葬り去ろうとする習慣を不快に思うと言い
芳川鎌子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
窮乏の真の原因とその徹底した打開策とを大衆の目から逸(そ)らさせようとしていることに立腹を示したものであった。
村からの娘 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
悲しみを逸(そ)らし散らしてくれるものがいくらでもある。若い人たちの悲しみはどうだろう。その精神がどんどん成長して、すぐに傷口をとじてしまう。
部屋の扉が少しではあるがはげしく開かれて、外から一人の小使がせかせかした声で呼んでいるのに、逸(そ)らされた。
「おお」と云つて片隅へ他(た)の女客(をんなきやく)と一緒に避ける間(ま)もなく発射せられた一発は窓硝子(がらす)を裂(さ)いて外(そと)へ逸(そ)れて仕舞(しま)つた。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛、与謝野晶子(著)
カーヴになったところを曲がると、愛一郎とカオルが乗って出た車が、国道から逸(そ)れた袋のような谷の奥の崖に、のしあげるようなかっこうで止っていた。
あなたも私も (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
弾は撃(う)ち人(て)以上に慌てて飛んでもない方角へ逸(そ)れて往つた。すると直ぐ後(うしろ)から江川がずどんと口火をきつた。猪は急所を撃たれてその儘平伏(へたば)つてしまつた。
そこからかすかに覗(うかが)われる井の中の様(よう)な病房の奥に二人三人の人間の着物の袖(そで)か裾(すそ)かが白くちらちらと動いて見えました……私はあわてて目を逸(そ)らしました。
病房にたわむ花 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
位置(ゐち)がさういふ逐(お)ひやられたやうな形(かたち)に成(な)つて居(ゐ)る上(うへ)に、生活(せいくわつ)の状態(じやうたい)から自然(しぜん)に或(ある)程度(ていど)までは注意(ちうい)の目(め)から逸(そ)れて日陰(ひかげ)に居(ゐ)ると等(ひと)しいものがあつたのである。
土 (旧字旧仮名) / 長塚節(著)
また脇道に逸(そ)れたが、男の美味いとするまぐろの刺身(さしみ)の上乗(じょうじょう)なものは、牛肉のヒレ、霜降(しもふ)りに当たるようなもので、一尾の中、そうたくさんあるものではない。
鮪を食う話 (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
鳥羽田 忠太郎とか申す奴、まさか途中で逸(そ)れはしまいな。もし逸れでもすると、折角の三両が水の泡だ。
瞼の母 (新字新仮名) / 長谷川伸(著)
わざと、チンカラカラカラと雀を鳴らして、これで出迎えた女中だちの目を逸(そ)らさせたほどなのであった。
貝の穴に河童の居る事 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
話が逸(そ)れると戻り悪(にく)くなりますから、なるべく本流を伝(つた)って、筋を離れないように進む事にしましょう。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ガラツ八の八五郎は平次の申附けに反き兼ねた樣子で、途中からどこともなく逸(そ)れてしまひました。
猶更(なほさら)小便の音が引立(ひつた)つわけだ。どうしたものかと考へた末、八は一生の智恵を絞り出して、椿の木の幹にしかけた。それでもをりをり逸(そ)れてしゆつと云ふことがある。
金貨 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
たびたび目は本から余所(よそ)へ逸(そ)れて、遠い所を見詰めている。毎日の話しは平凡な事ばかりになった。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
一番困ることは、余り肉体的と同時に精神的に疲れてしまうと、目的が良い場面を撮ることから逸(そ)れて、良い場面を撮るために行動することに変ってしまうことである。
映画を作る話 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
太物の行商を始めてから二十年にもなるが、許生員は滅多に蓬坪の市を逸(そ)らしたことはなかった。
蕎麦の花の頃 (新字新仮名) / 李孝石(著)
それにもかかわらず自己制圧の手の下から逸(そ)れて僅に表面にあらわれて来たのが、例の難渋なあそびである。現実離れのした遊刃(ゆうじん)余りありというようなわけではあるまい。
私は、ある一種の皮肉な気持よりも、たまらない感じに襲はれて、視線を逸(そ)らしたものだ。
大凶の籤 (新字旧仮名) / 武田麟太郎(著)
千々岩は懲りずまにあちこち逸(そ)らす浪子の目を追いつつ「浪子さん、一言(ひとこと)いって置くが、秘密、何事(なに)も秘密に、な、武男君にも、御両親にも。で、なけりゃ——後悔しますぞ」
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
私が一緒にいたら、そして逸(そ)れ弾でもあたったら、と考えると、ヒヤッといたしました。
お蝶夫人 (新字新仮名) / 三浦環(著)
実際的とか、有益とかいう観念からして、もはや厳しい真理から逸(そ)れたものだからだ。
学生と生活:――恋愛―― (新字新仮名) / 倉田百三(著)
その癖只口で唱へるだけで、霊は余所(よそ)に逸(そ)れてゐる。そんな時が一日か二日かあつて、そのうち自然に過ぎ去つてしまふ。その一日か二日がステパンが為めには恐ろしくてならない。
同じ、かたどって作るなら、とつい聯想(れんそう)が逸(そ)れて行く。八年前、越中国から帰った当座の、世の中の豊かな騒ぎが、思い出された。あれからすぐ、大仏開眼供養が行われたのであった。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
しかるに私の期待は逸(そ)れて、平塚さんたちは「治安警察法第五条の修正」と「花柳(かりゅう)病男子の結婚制限」という二種の請願を貴衆両院へ提出することを以て第一著の運動とされるのでした。
新婦人協会の請願運動 (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
こう言って、おしおは相手の気を逸(そ)らすように、ほかの事に話しを移した。
四十八人目 (新字新仮名) / 森田草平(著)
續けさまにロチスター氏の胸から逸(そ)れ、傷もつけず彼の足下に落ちてしまふ矢が、もしもつと確かな手に射られたならば、彼の自負心(じふしん)の強い心を鋭く突きさし——彼のきつい眼に愛を喚(よ)び出し
はらら来て雀逸(そ)れゆく木槿垣(むくげがき)風か立ちたる花のうごくは (九九頁)
文庫版『雀の卵』覚書 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
それを見て李は工合悪そうに目を逸(そ)らした。
光の中に (新字新仮名) / 金史良(著)
と、逸(そ)らしたふうに言った。
万年青 (新字新仮名) / 矢田津世子(著)
一筋も逸(そ)れさせじ。
話題はそれで逸(そ)れた。程なくしてお利代が出てゆくと、智惠子はやをら立つて袴を脱いで、丁寧にそれを疊んでゐたが、何時か其の手が鈍つた。
鳥影 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
「門の外から室の様子を、見られまいための防禦物(ぼうぎょぶつ)だからで、横へ逸(そ)れては目的に合わぬ。ところがこれは逸れている。室の様子がまる見えだ」
名人地獄 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)