痕跡こんせき)” の例文
形の上で意識的に調和を求めたような痕跡こんせきはみられない。胴体のくねりも遊び足もない。それぞれが古樸こぼくに佇立しているだけである。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
なんとなれば全巻を通じて簡単な代数式一つなく、またなんらの簡易な器械を用いていかなる量を測定した痕跡こんせきもないからである。
ルクレチウスと科学 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
ところが、残念にもその痕跡こんせきはいま残っておりません。また現場捜査をした人もおそらくははっきり記憶していないだろうと思います。
すなわち、子どもの遊びには遠い大昔の、まだ人間が一般に子どもらしかった頃に、まじめにしていたことの痕跡こんせきがあるのである。
こども風土記 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
磐梯山破裂ばんだいざんはれつあとにはおほきな蒸氣孔じようきこうのこし、火山作用かざんさよういまもなほさかんであるが、眉山まゆやま場合ばあひにはごう右樣みぎよう痕跡こんせきとゞめなかつたのである。
火山の話 (旧字旧仮名) / 今村明恒(著)
けれども気のせいか、常からあおい頬が一層蒼いように感ぜられた。その蒼い頬の一部と眼のふち先刻さっき泣いた痕跡こんせきがまだ残っていた。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
意志の痕跡こんせきは少しもなかった。何が欲求されてるのかだれにもわからなかった。何がなされてるのかだれにもわからなかった。
今日でもなお、燃やされた古い木の幹などの明らかにそれと認めらるる痕跡こんせきで、叢林そうりんの奥に震えていたあわれな人々の露営の場所が察せらるる。
しかし、この秩序が一度回復されれば、あの出来事のあらゆる痕跡こんせきは消えてなくなり、万事は元どおりになることだろう。
審判 (新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
盗賊の行方ゆくえは一向わからない上に、彼らが忍び出でた痕跡こんせきのある濠端は、ちょうど兵馬が通りかかったと同じ方向でした。
大菩薩峠:10 市中騒動の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
ただ徳田秋声氏や葛西善蔵氏の作品には、官能的にも思想的にも、西洋人にかぶれたと云ふ痕跡こんせきが少い。それけは安全に云ひ得られるかと思ふ。
東西問答 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
「しかし、それなら何か凶行の痕跡こんせきが残っていそうなものなのに、足跡はあるがほかになんにもないじゃないですか?」
五階の窓:03 合作の三 (新字新仮名) / 森下雨村(著)
雑草の中の水溜みずたまりにはとが降りて何かをあさり歩いているのが、いかにものんびりした光景で、此処ここばかりはそんな山津浪やまつなみ痕跡こんせきなどは何処どこにもない。
細雪:02 中巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
みな罪悪である。吾等われらの心象中微塵みじんばかりも善の痕跡こんせきを発見することができない。この世界に行わるる吾等の善なるものは畢竟ひっきょう根のない木である。
ビジテリアン大祭 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
私の死ぬるまで消し難い痕跡こんせきを残すのではあるまいか、と思われる、そのような妙に、やりきれない事件なのである。
親友交歓 (新字新仮名) / 太宰治(著)
すでに学校に心をすれば、門閥もんばつの念も同時に断絶してその痕跡こんせきを見るべからず。市学校は、あたかも門閥の念慮ねんりょ測量そくりょうする試験器というもなり。
旧藩情 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
一番先に調べにやつた停車場では、昨日から今日にかけて、娘が汽車に乗つて行つたやうな痕跡こんせきはないと言つて来た。
ある僧の奇蹟 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
それがおそろしく変形して厚い多肉部が生じ種子はまったく不熟ふじゅくして、ただ果実の中央にやわらかい黒ずんだ痕跡こんせきを存しているのみですんでいる。
植物知識 (新字新仮名) / 牧野富太郎(著)
隠語などしたためたものだろう? 自殺者が自殺をする場合、何かこの世へ痕跡こんせきを残す! それと全く同じ意味で、あれだけの隠語を書いたまでである。
剣侠受難 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
そしてその第一は、今までのような醜い痕跡こんせき残存が完全に跡を絶ったことだ。だから顔面整形手術の如きものが、どんどん行われるようになったのだ。
大脳手術 (新字新仮名) / 海野十三(著)
地球が造られた始めにはそこに痕跡こんせきすら有機物は存在しなかった。そこに、或る時期に至って有機物が現われ出た。
惜みなく愛は奪う (新字新仮名) / 有島武郎(著)
そして永劫えいがふの或期間だけ蓋の形を保續して來た、要するにあつまツた人の力が歳月さいげつたゝかツて來たのだ。雖然戰ツた痕跡こんせきは、都て埃の爲に消されて了ツた。
平民の娘 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
で、彼は何か痕跡こんせきはないかと、急いで自分の全身を頭から足の先まで見回し始めた。服もずっと一通り調べてみた。
「雲の柱が彼方の山岳をかすめて、すさまじく立ち昇ったかと見えた。だが、雲表うんぴょうの神秘、自然の迅速、誰かよく、その痕跡こんせきをとらえて実証できよう」
三国志:05 臣道の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
落ちない迄もこけを痛めさうな、この上もなくデリケートな板庇の上に、幅五寸、長さ三尺ほどの板を載せて、曲者はこれを踏んで、何んの痕跡こんせきも殘さずに
その時になって見ると、過ぐる七年を私はあらしの中にすわりつづけて来たような気もする。私のからだにあるもので、何一つその痕跡こんせきをとどめないものはない。
(新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「シャスタの南東頂上が欠損けっそんしてマック・クラウド谷が吹き飛ばされ、谷の痕跡こんせきが、一筋も残らない」
火と氷のシャスタ山 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
岸の水の浅いところへ死骸を投げこんでおくわけにはゆくまいからね、被害者の背中や肩についている特殊の痕跡こんせきは、ボートの底の肋材ろくざいに触れたことを示している。
かつ鯨の歌の第一句「雲かかる」の五字極めて拙く候。かく言ひては「雨とふらせて」と照応するためにこの蛇足の語を加へたる痕跡こんせき歴々として余り見つともなく候。
人々に答ふ (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
倒れた兵士は、雪におおわれ、暫らくするうちに、背嚢はいのうも、靴も、軍帽も、すべて雪の下にかくれて、彼等が横たわっている痕跡こんせきは、すっかり分らなくなってしまった。
渦巻ける烏の群 (新字新仮名) / 黒島伝治(著)
八の顔は右の外眦めじりに大きな引弔ひつつりがあつて頗る醜い。それに彼のこれ迄に経験して来た、暗い、鈍い生活が顔に消されない痕跡こんせきしるしてゐる。併し少しも陰険な処は無い。
金貨 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
「君子は世をおわるも」云々は『論語』衛霊公えいれいこう篇に君子を規定する他の四章と相並んでいる独立の章であって、『春秋』の述作と関係があるというごとき痕跡こんせきは全然ない。
孔子 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
じっと廊下先の障子を一本一本巨細こさいに見まわしていましたが、と——果然、その痕跡こんせきがあった。
この講和条件の中には、戦争中に歓迎された露西亜ロシヤ流の無併合、無賠償説の影響のないのは勿論、ウィルソンの堂々たる十四カ条の痕跡こんせきさえ留めていないではありませんか。
非人道的な講和条件 (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
その文章には少しも頭脳不調の痕跡こんせきは見られなかつた。一箇月の療養と看護とで平復退院。
智恵子抄 (新字旧仮名) / 高村光太郎(著)
愛の痕跡こんせきも残さず変わってしまうものだと人の言うのはうそでないと、苦しい体験をはじめてするという気もしてこの侮辱にじっと堪えていることはできないことであると思って
源氏物語:40 夕霧二 (新字新仮名) / 紫式部(著)
わたしが発見したとおもったのは衝動だったのかしら、わたしをさまよわせているのは痙攣なのだろうか。まだわたしは原始時代の無数の痕跡こんせきのなかで迷い歩いているようだった。
鎮魂歌 (新字新仮名) / 原民喜(著)
明かに鉄鍋の痕跡こんせきと思えるが、面白い事に三つの足は習慣に過ぎなく、底よりも上についているので用をなさない。だが陶工たちは知ってか知らぬか、元通りに必ず三つ足をつける。
現在の日本民窯 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
時計を持っている手が、かすかに顫えるのと一緒に、夫人の顔も蒼白あおじろく緊張したようだった。ほんのもう、痕跡こんせきしか残っていない血が、夫人の心を可なり、おびやかしたようにも思われた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
穴の蓋は自然に閉まってしまうので、あとにはなんの痕跡こんせきも残らないのですからね
暗黒星 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
それが貝層かひそうの四五しやくしたからである。かつ攪亂かくらんせる痕跡こんせき貝層中かひそうちうからである。
そうした血統上の痕跡こんせきは、何よりも雄弁ゆうべんにツルゲーネフの生活(彼は一生涯いっしょうがい独身で押し通しました)が物語っているのですが、文芸作品の面から言うと、ここに訳出した短編『はつ恋』に
「はつ恋」解説 (新字新仮名) / 神西清(著)
もし或る人物が、留守にどこかの窓を開けて、そこから闖入ちんにゅうして来るとすれば、窓の或るどこかに、コジあけた痕跡こんせきが残っているか、でないとしても、多少の指紋が残っているべきはずである。
ウォーソン夫人の黒猫 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
化石として残るのは、たいてい硬骨部分の一部と、その他の部分のかすかな痕跡こんせきとである。そういう断片的な材料をもとにして、化石学者たちは、原体制の復原という困難な仕事をなしとげる。
女性の特徴たる乳房その他の痕跡こんせき歴然れきぜんたり、教育の参考資料だという口上にきつけられ、ゆがんだ顔で見た。ひそかに抱いていた性的なものへの嫌悪に逆に作用された捨鉢すてばちな好奇心からだった。
(新字新仮名) / 織田作之助(著)
昔結核を患った痕跡こんせきもあるし、それが再発したのだといわれます。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
「野暮はまれて粋となる」というのはこのいいにほかならない。婀娜あだっぽい、かろらかな微笑の裏に、真摯しんしな熱い涙のほのかな痕跡こんせきを見詰めたときに、はじめて「いき」の真相を把握はあくし得たのである。
「いき」の構造 (新字新仮名) / 九鬼周造(著)
苦痛の痕跡こんせきであった
原爆詩集 (新字新仮名) / 峠三吉(著)
知らずらずの間に心持を相続していたような痕跡こんせきがありますが、これから亡びるものは永久に、また根こそげなくなるのです。
彼らは話される対話の痕跡こんせき歌劇オペラから注意深く消し去って、モーツァルトやベートーヴェンやウェーバーらの作品のために、自己流の叙唱レシタチーヴを書いた。