懸崖けんがい)” の例文
廬山ろざんのみなみ、懸崖けんがい千尺の下は大江に臨んでいる。その崖の半途に藤蔓ふじづるのまとった古木があって、その上に四つの蜂の巣がある。
自分はそばにいる人から浄瑠璃じょうるりにあるさがまつというのを教えて貰った。その松はなるほど懸崖けんがいを伝うようにさかに枝をしていた。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
平次は鼠の尻尾ほどの懸崖けんがいの菊を、眼を細くして眺めて居りました。丁子屋の菊籬きくがきの豪勢さに比べて、それは何んといふ情けない道樂でせう。
次の間から勘弁勘次が柄になくつうめたい口をきいた。縁に立って、軒に下げたあおい懸崖けんがいをぼんやり眺めていた釘抜藤吉。
でさするようにあたりの地形をながめまわしていた彼らの眼は、期せずして向う岸のそういう懸崖けんがいに吸いついた。地の底を割ってみせたのである。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
『玉勝間』の記事は石見の人の書信または談話をろくしたものらしいが、島の大きさは周五里、岸は皆懸崖けんがいなり、浜田より五里といえど遠しとある。
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
あなすさまじ、と貫一は身毛みのけ弥竪よだちて、すがれる枝を放ちかねつつ、看れば、くさむらの底に秋蛇しゆうだの行くに似たるこみち有りて、ほとほと逆落さかおとし懸崖けんがいくだるべし。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
船はタンジョンパガールの埠頭ふとうに横づけになる。右舷に見える懸崖けんがいがまっかな紅殻色べんがらいろをしていて、それが強い緑の樹木と対照してあざやかに美しい。
旅日記から (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
そこは最も高床たかゆか懸崖けんがいだった。投げられた任原はクシャッと一塊の肉と血飛沫ちしぶきになったきりで動きもしない。仰天したのは万余の見物だけではない。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
征掠せいりゃく、野荒し等に定法あり、規律至って正しく用心極めて深し、その住居は多く懸崖けんがいひらけたる間にあり、牝牡老若の猴の一部族かかる山村より下るに
そこでしな岩というのが眼界にそびえて来る。文字どおりのかくの巨岩が相対し重積じゅうせきして、懸崖けんがいの頂きにあるのだ。ただ私にはそうした奇趣に興味を持たぬ。
木曾川 (新字新仮名) / 北原白秋(著)
川岸の壁は、切り立ち、入り組み、霧にぼかされ、たちまちに隠れて、無窮なるものの懸崖けんがいのようだった。
一たび懸崖けんがいに手をさっして絶後に蘇った者でなければこれを知ることはできぬ、即ち深く愚禿の愚禿たる所以ゆえんを味い得たもののみこれを知ることができるのである。
愚禿親鸞 (新字新仮名) / 西田幾多郎(著)
大輪とか変り咲きとか懸崖けんがいなどの、人工の加わったものは少ない、ごくありきたりの種類をごく怠慢にそだてたふうである。その方面に眼のない者は多少失望した。
寒橋 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
その向うにささやかな築山つきやまがあって、白い細かい花をつけた小手毬こでまりが、岩組の間から懸崖けんがいになって水のない池に垂れかかり、右の方のみぎわには桜とライラックが咲いていた。
細雪:01 上巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
さのみ大きな滝とは見えないが、懸崖けんがいを直下に落ちて、見上ぐるばかりに真紅しんくの色をしたもみじい重なって、その一ひら二ひらが、ちらちらと笠の上に降りかかって来ました。
大菩薩峠:19 小名路の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
鍵手に曲った土間の片がわに自慢の千輪咲きやら懸崖けんがいやらをズラリとおきならべ、そのそばで手打の蕎麦を喰わせる。土間には打ち水をして、菊の香が清々すがすがしい。それが、自慢。
顎十郎捕物帳:22 小鰭の鮨 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
彼もその行者の一人となって白竜山のふもとへ往ったが、山の四方が懸崖けんがい絶壁になっていて、その中へは一歩も足を入れることができなかった。彼は木の実をい草の実を拾ってその麓を巡礼した。
仙術修業 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
濡れそぼるままに懸崖けんがいに寄り添って、身のまわりを立籠める灰色の霧を見詰めていると、何かしら無限の彼方に吸込まれるような無気味な感がする。しかしそれも段々と快い放心に変って行く。
一ノ倉沢正面の登攀 (新字新仮名) / 小川登喜男(著)
雨中を冒して、将軍と吾輩勇を鼓して五郎平茶屋より一丁あまり、懸崖けんがいみちなき所を下りて、滝壺探検と出かけた。雨水を含んでいる岩角はウッカリすると墜落して手も足もかけることが出来ぬ。
生と死の間の懸崖けんがいに、彼女の細き命は一縷いちるの糸にって懸っていた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
小児はその小さなこぶしに、巨人クリストフの額の縮れ毛を一ふさつかんで、「進め!」と繰り返している。——彼は背をかがめ、眼を前方の薄暗い岸に定めて、進んでゆく。向こう岸の懸崖けんがいは白み始める。
遷喬楼在懸崖上 〔遷喬楼せんきょうろう懸崖けんがいうえ
礫川徜徉記 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
その翌る日、平次のところへ顏を出した八五郎は、相變らず貧弱な懸崖けんがいに恍惚として居る平次に繪解きをせがみました。
咄嗟とっさには、打身のいたみを忘れていた。懸崖けんがいのかげで風当りは弱かった。彼は暗黒に包まれて目ばたきをした。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
思いがけない懸崖けんがいや深淵が路を遮る事の可能性などに心を騒がすようなことなしに夜の宿駅へ急いで行く。
厄年と etc. (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
日本ラインの奇岩怪石は多く相迫って河中聳立しょうりつするが恵那峡の岩石美はむしろ山上にあり千仞せんじん懸崖けんがいにある。
木曾川 (新字新仮名) / 北原白秋(著)
飛び石が二つ、松一本のほかには何もない、平庭ひらにわの向うは、すぐ懸崖けんがいと見えて、眼の下に朧夜おぼろよの海がたちまちに開ける。急に気が大きくなったような心持である。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
全山ぜんざん城地じょうちと見なし、十七ちょう外郭そとぐるわとし、龍眼りゅうがんの地に本丸ほんまるをきずき、虎口ここうに八門、懸崖けんがい雁木坂がんぎざか、五ぎょうはしら樹林じゅりんにてつつみ、城望じょうぼうのやぐらは黒渋くろしぶにてりかくし
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
口のかけた土瓶どびんに植えた豆菊の懸崖けんがいが、枯れかかったまま宙乗りしている。そんなような部屋なのだ。あるじ若松屋のごとく、すべてが簡素である。悪くいえばさびしい。
巷説享保図絵 (新字新仮名) / 林不忘(著)
献身と善意とまたこんどは任侠にんきょうな目的のためにめぐらされる古い田舎者いなかものの多少の知恵とのほか、何らの梯子はしごも持たずに、修道院の難関と聖ベネディクトの規則の荒い懸崖けんがいとを
加賀江沼郡の橋立村なども、百二三十年前までは黒崎から西北に、海中へ二百間ばかりも突き出した懸崖けんがいの石崎であったゆえに、それが崩壊して後までも地名となって残っている。
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
上と下とて遥かに呼び合っていたが、何を云うにも屏風びょうぶのような峭立きったて懸崖けんがい幾丈いくじょう、下では徒爾いたずら瞰上みあげるばかりで、攀登よじのぼるべき足代あししろも無いには困った。其中そのうちに、上では気がいたらしい。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
鉢植はちうえのつるばらがはやると見えて至るところの花屋の店に出ている。それが、どれもこれも申し合わせたようにいわゆる「懸崖けんがいづくり」に仕立てたものばかりである。
錯覚数題 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
平次は椽側の日向ひなたで、鼠の尻尾のやうな、世にも情けない、懸崖けんがいの菊の鉢の世話をしてをりました。
銭形平次捕物控:239 群盗 (旧字旧仮名) / 野村胡堂(著)
這裡しゃりの消息を知ろうと思えばやはり懸崖けんがいに手をさっして、絶後ぜつごに再びよみがえるてい気魄きはくがなければ駄目だ
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
そして、風を防いでくれるこの懸崖けんがいをイシカリ川の岸壁と思いこんでいた。従って彼らの目的地は、この川筋の先方に在るわけだと思った。凍結した氷上はむしろ歩き易いであろう。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
三度口を開いた恐ろしい懸崖けんがいからジャン・ヴァルジャンはわずか十数分をへだてているのみだった。そしてこんどの徒刑場は単なる徒刑場のみではなく、コゼットをも永久に失うことであった。
彼はむしろ懸崖けんがいの中途が陥落して草原の上に伏しかかったような容貌ようぼうであった。細君は上出来の辣韮らっきょうのように見受けらるる。今余の案内をしている婆さんはあんぱんのごとくるい。
カーライル博物館 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
だんだん山が険しくなって、峰ははげた岩ばかりになり、谷間のもみやレルヘンの木もまばらになり、懸崖けんがいのそこかしこには不滅の雪が小氷河になって凍った滝のようにたれ下がっていた。
旅日記から (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
登山の途中雪崩ゆきなだれにされて、がた知れずになったものの骨が、四十年後に氷河の先へ引懸って出た話や、四人の冒険者が懸崖けんがいの半腹にある、真直に立った大きな平岩を越すとき
それから (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
それにしてもほんとうによい美しいすぐれた花なら、少なくもそういう花を捜して歩いている人の目にいつかは触れないものだろうか。危険を冒して懸崖けんがいにエーデルワイスを捜す人もある。
神田を散歩して (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
懸崖けんがいづくりのつるばら」のようなものであるという例証にはなるかと思う。
錯覚数題 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
懸崖けんがいからは水が垂れる。ひらりとカンテラをひるがえすと、がけおもてかすめて弓形にじいと、消えかかって、手の運動の止まる所へ落ちついた時に、また真直に油煙を立てる。またひるがえす。は斜めに動く。
坑夫 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
アフリカのほうにははるかにごつとした岩山の懸崖けんがいが見え、そのはずれのほうはミラージュで浮き上がって見えた。苦海ビッターシーでは思いのほか涼しい風が吹いたが、再び運河に入るとまた暑くなった。
旅日記から (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)