口惜くや)” の例文
自分が悪口を云われる口惜くやまぎれに他人の悪口を云うように取られては、悪口の功力くりきがないと心得て今日まで謹慎の意を表していた。
田山花袋君に答う (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
と、思う下から、山田美妙斎の小説は、なんとばらしく、女の肉体の豊富さを描きつくしているのだろうと、口惜くやしいほどだった。
田沢稲船 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
力松はさう言つて口惜くやしがるのです。一國らしい中年者で、田園の匂ひが全身にあふれるだけに、此男にうそがあらうとは思はれません。
万一あの中間が口惜くやしまぎれに舌でも食い切ったらどうするか。あるいは自分の部屋へ引っ返して大勢で仕返しに来たらどうするか。
半七捕物帳:23 鬼娘 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
短銃の先はおもむろに、お富の胸のあたりへ向つた。それでも彼女は口惜くやしさうに、新公の顔を見つめたきり、何とも口を開かなかつた。
お富の貞操 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
得たり賢しと、悋気りんき深い手合がつまらんことを言い触して歩きます。私は奥様の御噂さを聞くと、口惜くやしいと思うことばかりでした。
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
私に取ったら忘れられへん口惜くやしい口惜しい思い出あるとこですのんに、まるでこっちの感情も何も踏み付けにした話ですねんけど
(新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
「だって、そりゃお店の経営や、売上げや何かの話だってあるじゃないの。」と、答えたが、新子は口惜くやしさで、涙が出そうだった。
貞操問答 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
鬼火のうばはこわれた戒壇を、口惜くやしそうな眼で睨みながら、その横に気抜けして地面へ坐り、バカのようになっている範覚へ云った。
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
一年生のときは、なめくぢと狸がしじゅう遅刻して罰を食ったために蜘蛛が一番になった。なめくぢと狸とは泣いて口惜くやしがった。
洞熊学校を卒業した三人 (新字旧仮名) / 宮沢賢治(著)
甚兵衛は口惜くやしくてたまりませんでした。それでいろいろ工夫くふうをして、人形を上手じょうずに使おうと考えましたが、どうもうまくゆきません。
人形使い (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
前にも申しましたように人と会っても満足に話が出来ず、後であれを言えばよかった、こうも言えばよかったなどと口惜くやしく思います。
わが半生を語る (新字新仮名) / 太宰治(著)
陰でそう云われるだけでなく、しばしば面と向って「おい蒔田の山猿」などと呼ばれ、口惜くやしさのあまり幾たびか相手にとびかかった。
榎物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
折角せっかく爆弾をおとしてやろうと思ったことも今は無意味です。敵軍の指揮者たちは、無念のなみだをポロポロとおとして、口惜くやしがりました。
太平洋雷撃戦隊 (新字新仮名) / 海野十三(著)
それとともに紀州藩の武士ともあろうものが、天狗てんぐ木精すだまのためにこんな目にわされるとは、何たることだと思って口惜くやしかった。
山寺の怪 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
それを確めますと、私はもう、悲しさ口惜くやしさよりも、いうにいわれぬ不気味さに、思わずゾッとしないではいられませんでした。
人でなしの恋 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
復習さらい直しをしていた老妓は、三味線をすぐ下に置くと、内心口惜くやしさがみなぎりかけるのを気にも見せず、けろりとした顔を養女に向けた。
老妓抄 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
十三年間の道場通いを考えると、口惜くやしいよりは、情けない。しかも昨日は、師から免許皆伝の目録を授けられたばかりの帰りだ。
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
自分と省作との関係を一口に淫奔いたずらといわれるは実に口惜くやしい。さりとて両親の前に恋を語るような蓮葉はすっぱはおとよには死ぬともできない。
春の潮 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
大切だいじの大切の一枚看板を外されては、明日からの人気にさわる。人気よりも、損得よりも、出し抜かれたことがお角としては口惜くやしい。
大菩薩峠:19 小名路の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
何と、その恋人を、しかも自分が、師匠のいいつけであおがせられて、口惜くやしがって泣いた、華族の娘に取られようとは、どうです。
式部小路 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
好加減いいかげんなチャラッポコをに受けて、仙台くんだり迄引張り出されて、独身ひとりでない事が知れた時にゃ、如何様どんな口惜くやしかったでしょう。
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
彼は競技の進行中ずっと、顔のあらゆる変化に注意し、確信や、驚きや、勝利や、口惜くやしさなどの表情の違いから、思惟しいの材料を集める。
レベジャートニコフ氏があれをなぐったとき、家内はなぐられたためというより、口惜くやしさが胸にしみてどっと床についたので。
あたしにだまされたと思うものは、それや馬鹿なの。だって、今頃瞞されたと思って口惜くやしがってる男なんか、日本にだっていやしないわ。
上海 (新字新仮名) / 横光利一(著)
だが何より例の一件をノズドゥリョフに漏らしたことが口惜くやしかった。まるで赤ん坊か馬鹿者のように無分別むふんべつなことをやったものである。
若旦那わかだんな鯱鉾立しゃっちょこだちしてよろこはなしだと、見世みせであんなに、おおきなせりふでいったじゃないか。あたしゃ口惜くやしいけれどいてるんだよ。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
彼は遠い昔の恥かしかった事や、口惜くやしかったことを、フト、なんの連絡もなしに偲い出しては、チェッと舌打するのである。
舌打する (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
何とかいう様な所謂いわゆる口惜くやしみの念ではなく、ただ私に娘がその死を知らしたいがめだったろうと、附加つけくわえていたのであった。
因果 (新字新仮名) / 小山内薫(著)
口惜くやしい奴等だ。憎い奴等だ。口惜しがっても、憎らしがっても、生きたままではどうにもならぬ。わしは死んで取り殺すぞ。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
この遺書かきおきは警察宛てだったので、すぐ開けられたの。あたしは検事さんが読んでいる内にハラハラと熱い口惜くやし涙を流したわ。
ニッケルの文鎮 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
悲しい時には泣き、口惜くやしい時には地団太を踏み、どんな下品なおかしさでもいいから、おかしいと思ったら、大きな口をあいて笑うんだ。
狼疾記 (新字新仮名) / 中島敦(著)
失恋が、失恋のまゝで尾をいてゐるうちは、悲しくても、苦しくても、口惜くやしくつても、心に張りがあるからまだよかつた。
良友悪友 (新字旧仮名) / 久米正雄(著)
口惜くやしい時に遣る彼の癖である。金が欲しい為めでは勿論もちろんない。男の意地で掛った仕事であった。彼は此失敗で思い止まる事は出来なかった。
乗合自動車 (新字新仮名) / 川田功(著)
彼は覚えた軍隊語で、せめて、それだけでも云ってやりたかったがそんな事を云って笑われたらと、それも云えぬ口惜くやしさに泣いたのだった。
雲南守備兵 (新字新仮名) / 木村荘十(著)
手の中に探りあてたものを再び見失ったような口惜くやしさを持ちながら、そのような夜は、明け方までそのまま目ざめて過すのがつねであった。
(新字新仮名) / 島木健作(著)
「おお、長庵さん、お察し下さい。わたしゃ口惜くやしいのだ——あんな、あんな、お尋ね者に、お妙が心を寄せるなんて——」
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
一方からはなかば嘲るやうな眼で見られても自分の氣持ちは一向に平氣なのが不思議な氣がした——イライザが私を口惜くやしがらせることもなく
たゞをとこうらんでのろひ、自分じぶんわらひ、自分じぶんあはれみ、ことひと物笑ものわらひのまととなる自分じぶんおもつては口惜くやしさにへられなかつた。
(旧字旧仮名) / 水野仙子(著)
つらいことも辛いだろうし口惜くやしいことも口惜しいだろうが、先日せんのように逃げ出そうと思ったりなんぞはしちゃあ厭だよ。
雁坂越 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
その言葉の陰は「それでも口惜くやしくないのか。」と云っていた。それは撒ビラのことで、二十九日食ったときの事だった。
工場細胞 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
前に倒れた奴が口惜くやしいから又起上って組附いて来る処を、こぶしを固めて脇腹の三枚目(芝居でいたす当身あてみをくわせるので)
菊模様皿山奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
アアとサアと二人の兄さんは大層口惜くやしがって、今夜リイをウンとイジめてやろうと相談をしましたが、リイはチャンときいて知っておりました。
奇妙な遠眼鏡 (新字新仮名) / 夢野久作香倶土三鳥(著)
お葉は仕事もなく考へもなしに終つた一日を、一人床の中に考へた時、泣く程口惜くやしく思つたのである。その心が餘儀なく明日といふ日を求める。
三十三の死 (旧字旧仮名) / 素木しづ(著)
彼は歯をひしばつて口惜くやしがつた。が、やつぱりどうすることも出来なかつた。覿面てきめんなもので、林檎林はその後、日に増し生気を失つて行つた。
新らしき祖先 (新字旧仮名) / 相馬泰三(著)
なんといふことなしに口惜くやしいのである。それにしても、真相がはつきりした今、安里をほんたうに恨む気になつたのかと云へば、さうでもない。
落葉日記 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
もちろん、貴様が「しみったれの駱駝らくだ野郎」と言う声は、おれの耳にはいる。口惜くやしがってくたばれ。勝った嬉しさで、こっちもくたばりそうだ。
そういう婦人らは、口惜くやしさを隠しおおせるほど巧みではなくて、はたの人々の笑い事となりはしたけれど、はなはだしい悲嘆に沈みはしなかった。
母親は、ひろい胸から乳房を掴み出し、柔らかいぽとぽと音を立てて陶物にれる乳を見ながら、口惜くやしそうに云った。
童子 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
家にかえってから、私は母に得々とくとくとその話しをした。そしたら、三年生の姉が帰ってきて、口惜くやしがりながら云った。
戦争雑記 (新字新仮名) / 徳永直(著)