顳顬こめかみ)” の例文
その顳顬こめかみの上や、両眼の下や、両頬の窪みには、濃い紫の死びと色があらわれていた。又その色は彼の長い指にも爪ぎわにもあった。
急に暗い眼つきをして、窓のほうへぼんやりと視線を漂わせていたが、右手の人差し指を曲げて顳顬こめかみにあてがうと、沈み切った声で
キャラコさん:05 鴎 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
私はその日が暮れ落ちて大きな夜が迫つてから、変に乾いた感じのする紙屑のやうな映像が顳顬こめかみにこびりついてしやうがなかつた。
山麓 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
いきなり真向まっこうをなぐられたので、ひたいぎわの左から顳顬こめかみへかけて随分ひどく打ち割られて、顔じゅうが血だらけになってしまったのです。
たぬき真物ほんものになって、ツイ、うとうととした平次、ガバと飛起きて行って見ると、お静は流し元に崩折くずおれて、顳顬こめかみを押えております。
顳顬こめかみと後頭部にほんの僅かばかり残っていた髪の毛はすっかりもつれて、脇や胸や、それにズボンが全体に雪だらけになっていた。
外套 (新字新仮名) / ニコライ・ゴーゴリ(著)
彼女はいきなり自動車から引出された男のそばにかけ寄った。そこにぐったり寝て、顳顬こめかみに血の塊りをつけた男は木島三郎であった。
腐った蜉蝣 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
彼は冷ややかで落ち着いて重々しく、半白の髪をすっかり顳顬こめかみの上になでつけ、いつものようにゆっくり階段を上がってきたのだった。
彼れは夫れを見ると鋭利なメスを頭蓋骨に達するまで刺透して、右の顳顬こめかみから左の顳顬にぐつと引きまはしたい衝動に襲はれた。
実験室 (旧字旧仮名) / 有島武郎(著)
背が高く、強壮で、頭がすっかり禿げ、金縁眼鏡で顳顬こめかみをはさみつけ、かなりの容貌ようぼうだった。彼はみずから病気だと思っていた。
顳顬こめかみ即効紙そっこうしをはって、夜更よふけまで賃仕事にいそしむ母親のごとを聞くと、いかなる犠牲もえなければならぬといつも思う。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
そこで私は、私の頭腦あたまに、その返答を速く探せ、と命令した。頭腦づなうは、次第にはやく働き出した。私は、頭にも顳顬こめかみにも脈打つのを感じた。
顛倒上下テンダウジヤウゲ。……迭相顧戀テチソウコレン窮日卒歳グニチソチサイ……愚惑所覆グワクシヨブ」——暫らくすると、圭一郎は被衾よぎの襟に顏を埋め兩方の拳を顳顬こめかみにあて
崖の下 (旧字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
プリニウス言う、ハジ(アフリカの帽蛇)の眼は頭の前になくて顳顬こめかみにあれば前を見る事ならず、視覚より足音を聴いて動作する事多しと。
と不意を喰らった雨龍太郎は、すぐ大刀を抜き合せたが志摩の鋭い切尖に、顳顬こめかみから頬をかすられてあけに染まって横倒れになる。
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ピストルは右の顳顬こめかみから約五センチメートルほど離れたところから発射され、死の時間は昼食後一時間乃至二時間後であることをたしかめた。
闘争 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
で、単にはてしれぬ哀愁と倦怠のほか何の理由もなく、彼はそのピストルを顳顬こめかみへもっていって、押しつけて、引金をひいた。
孤独 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
コルク張りの床に俯伏せに倒れて、硬直した右手にピストルを握り、血の流れている右の顳顬こめかみには煙硝の吹いた跡がある。
遺書に就て (新字新仮名) / 渡辺温(著)
そして両の顳顬こめかみのあたりに、結核性とも見えるような、かすかな赤みがさし、目玉は昨日よりも更にどんよりとしていた。
イベットは両手で小田島の腕を握り、毛織物を通して感じられる日本人独特の筋肉が円く盛上った上膊に顳顬こめかみあてがった。
ドーヴィル物語 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
暗色の髪は短く刈りこんで、顳顬こめかみのところだけちょっと前へき出してあった。彼は軍隊式に活発な大またで歩いて来た。
この間やはりここへ散歩の足を運んだ時には、この道を上り下りするだけで胸が高鳴り、呼吸が亂れ、顳顬こめかみのあたりがづきづきして顏がほてつた。
生活の探求 (旧字旧仮名) / 島木健作(著)
そんな大言壮語したあとではきつと、頭が痛いと苦しがつて両手で顳顬こめかみを揉むのが例になつてゐる。莫迦ばかなことである。
現代詩 (新字旧仮名) / 武田麟太郎(著)
そのうちにタッタ今のこと、すきを窺ったロスコー氏は哀れにもポケットからピストルを取出し、自分の頭の顳顬こめかみ上部を射撃して自殺してしまった。
S岬西洋婦人絞殺事件 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
嫌な奴だな、と思いながら、顳顬こめかみへ当てた手の指の間から、三次、それとなしに見守りだした。のっぺりした好い男で、何となくそわそわしている。
焦点ピントが……焦点が……その焦点がはずれてるぞ! といわんばっかりに、未亡人の顳顬こめかみがピクピクするから、ひとまず問答もこれで打ち切らざるを得ぬ。
グリュックスブルグ王室異聞 (新字新仮名) / 橘外男(著)
くちびるも時時ひきるらしい。その上ほのかに静脈じやうみやくの浮いた、華奢きやしや顳顬こめかみのあたりには薄い汗さへも光つてゐる。……
わが散文詩 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
しかし、そう云いながら、里虹はぜいぜいと息を切らし、顳顬こめかみの脈管が、蛇のように膨れ上っているのが見えた。
人魚謎お岩殺し (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
あはれ姥桜、残んのいろ香艶に婉なる三十女お藤がかぐはしき体臭よ。癇癪持らしい色白面長のその顳顬こめかみには頭痛膏の江戸桜が小さく切つて貼られてゐよう。
山の手歳事記 (新字旧仮名) / 正岡容(著)
どうかした拍子に顳顬こめかみに浮かぶギラリとしたものが、やはり、複雑な過去を潜めており、そう単純に親切ではあり得ないことを暗示しているようでもある。
曲者 (新字新仮名) / 原民喜(著)
いかにやつれたことであろう! 高い鼻は尖ってとげのようになり顳顬こめかみは槌で叩かれたかのように、痩せてくぼんでへっこんで、広がった額がせばまって見える。
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
帆村はうずく顳顬こめかみをおさえつつ、このノートに見入った。ここで急速に答を出さなければならない。六桁の被除数は、まだ第一数字しかわかっていないのだ。
暗号数字 (新字新仮名) / 海野十三(著)
博士は顳顬こめかみ拇指おやゆびで押へたまゝじつと考へ込んでゐると、都合よく道真みちざね公の歌がひよつくりと滑り出して来た。
やわらかい金色こんじきな髪をまん中で二つに分け、それが金の波を打つ二つの河になって両方の顳顬こめかみに流れているところは、王冠をいただく女王のように見えました。
と清は顳顬こめかみに両方の人差し指を当てた。頭痛膏の意味だ。御機嫌の悪い時に貼るから、清には低気圧の信号になっている。尚おお隣りの女中は清の学校友達だ。
求婚三銃士 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
其毛それを下にらして吊鬚つりひげのような具合に見せて居るのです。しかしそれをきびしい僧官に見付けられますとその顳顬こめかみに生えて居るところの毛を引抜ひきぬかれてしまう。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
桃子の柔かい巻毛のこぼれている顳顬こめかみのところへ心からな親愛の接吻を与える心持をこめて、順助は
夜の若葉 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
私は池へ行つてそれを洗つた。私の不注意からできた顳顬こめかみの上の疵を、さつきの鶴嘴の手応へを私は後悔してゐた。部屋に帰つて、私はそれをベッドの下に置いた。
測量船 (新字旧仮名) / 三好達治(著)
顫える指先で盛んに顳顬こめかみのあたりをトントンと軽く叩きながら、塑像のように立竦たちすくんでしまった。
石塀幽霊 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
蜘蛛の巣よりも柔かく細い髪の毛。それらの特徴は、顳顬こめかみのあたりの上部が異常にひろがっていることとともに、まったくたやすくは忘れられぬ容貌を形づくっている。
紫縮緬むらさきちりめん錏頭巾しころずきんをかぶり、右の顳顬こめかみにあたる所に小きじょうを附け、紫縮緬に大いなるからす数羽飛びちがひたる模様ある綿入に、黒手八丈くろではちじょうの下着、白博多の帯、梅華皮かいらぎざめの一本差
両座の「山門」評 (新字旧仮名) / 三木竹二(著)
殊に午後になると、顳顬こめかみに動悸を打って痛んで来る。或は「よくない行為」のせいではないか、とも疑う。私は更に不愉快になる。とにかく、その頃の私は感情が変り易い。
澪標 (新字新仮名) / 外村繁(著)
その顳顬こめかみの筋肉が、ピク/\動いたかと思ふと、彼は顫へる手で箸を降しながら、それでも声けは、平静な声を出さうと努めたらしかつたが、変に上ずツてしまつてゐた。
真珠夫人 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
五人の従同胞いとこの中の唯一人の男児は、名を巡吉といつて、私より年少としした顳顬こめかみに火傷の痕の大きい禿のある児であつたが、村の駐在所にゐた木下といふ巡査の種だとかいふので
刑余の叔父 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
さう云ひながら三枝は自分の蒲團からすこし身體をのり出して、私のづきづきする顳顬こめかみの上に彼の冷たい手をあてがつた。私は息をつめてゐた。それから彼は私の手頸を握つた。
燃ゆる頬 (旧字旧仮名) / 堀辰雄(著)
それから身体からだが生れ代ったように丈夫になって、中音ちゅうおん音声のどに意気なさびが出来た。時々頭が痛むといっては顳顬こめかみ即功紙そっこうしを張っているものの今では滅多に風邪かぜを引くこともない。
妾宅 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
薄い頭髪、然うとは見えぬやうにきように櫛卷くしまきにして、兩方りやうほう顳顬こめかみ即効紙そくかうしを張ツてゐた。白粉燒おしろいやけ何方どつちかといふと色は淺黒あさぐろい方だが、鼻でも口でも尋常じんじやうにきりツと締ツてゐる。
平民の娘 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
現在は小説書きという特殊な職業をやっているものの、根が労働者であるせいか頑固な身体からだつきで、それがひどくシンが疲れているとみえて、顳顬こめかみあたりには白髪がめだっていた。
冬枯れ (新字新仮名) / 徳永直(著)
どうしたらそれを手に入れられるだろうか? それが(顳顬こめかみを両手で押しつけながら)
顳顬こめかみほおから、くびへ滑り落ちようとした、男の指をまだ肌が感じている。女は門口へ出た。そこにはたれもいない。家主いえぬしの女は夕食の品物を買いに出たはずだという事を思い出した。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)