茫漠ぼうばく)” の例文
老耄ろうもうしていた。日が当ると茫漠ぼうばくとした影がたいら地面じべたに落ちるけれど曇っているので鼠色の幕を垂れたような空に、濃く浮き出ていた。
(新字新仮名) / 小川未明(著)
どこからどこまでも区切のない茫漠ぼうばくたる一面の焼け武蔵野ヶ原であったけれど——この原庭と思われる辺に来て、杜は不図ふと足を停めた。
棺桶の花嫁 (新字新仮名) / 海野十三(著)
膠着こうちゃくした微笑が消え、なにか、うつけたような茫漠ぼうばくとした表情になって、目を遠くの空へ放した。……激昂げっこうが、ぼくをおそった。
煙突 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
ロシア映画のスクリーンのかなたにはいつでも茫漠ぼうばくたるシベリアの野の幻がつきまとっている。さて日本の映画はどうであろう。
映画芸術 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
無論現実的の憂愁ではなく、青空に漂う雲のような、または何かの旅愁のような、遠い眺望への視野を持った、心の茫漠ぼうばくとしたうれいである。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
資料を古くひろく求めてみればみるほど輪廓りんかくは次第に茫漠ぼうばくとなるのは、最初から名称以外にたくさんの一致がなかった結果である。
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
太鼓の音、大砲のとどろき、ラッパの響き、歩兵隊の歩調を取った足音、騎兵の茫漠ぼうばくたる遠い疾駆の音、などが聞こえてくるかと思われた。
それはいまだ茫漠ぼうばくとして明らかな形を成してはいないけれど、たしかに存在している。私はこの力の存在の肯定から出発する。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
人生の全局面をおおう大輪廓を描いて、未来をその中に追い込もうとするよりも、茫漠ぼうばくたる輪廓中の一小片を堅固に把持はじして
イズムの功過 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
はてしもない茫漠ぼうばくたる雪原がただ一面に栄光色に輝いて、そのすえは同じような色の空のなかへ溶けこんでいる。雪の大海原。
後醍醐の愛は、すこぶる茫漠ぼうばくたるもので、お心の内がわは分らないが、表面は三人の妃のたれへも平等にふるまわれていた。
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
あるいしょう観音ともいわれる。すべての飛鳥仏のごとく下ぶくれのゆったりした風貌ふうぼう茫漠ぼうばくとした表情のまま左手につぼをさげて悠然ゆうぜん直立している。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
そして、恋もなく滅んでしまった青春を考えると、たまらない寂しさにとらえられた。薄暗い茫漠ぼうばくたる悲しみだった……。
しかし無論蟹江のこの感じは、その頃はまだ茫漠ぼうばくとしていて、自分でもはっきりととらえがたい程度だったわけです。
Sの背中 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
茫漠ぼうばくたる大河の岸に、ロシアの行政中心の一つとなっている市街がある。街には要塞ようさいがあり、要塞の中に監獄がある。
もの音の杜絶とぜつした夜半、泥海と茫漠ぼうばくたる野づらのはてしなくつづくそこの土地のあやしい空気をすぐ外に感じながら、ひとりでそんなことを考えていると
冬日記 (新字新仮名) / 原民喜(著)
鮮麗な秋の空、目立たぬほどの積雲が、海上二マイルばかりのところに茫漠ぼうばくとしている。今日も終日、海上も無事だし、明日のこともまず心配はない。
大菩薩峠:28 Oceanの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
飛石のようにならんでいるのであるからもう島影を発見しなければならぬが、相変らず茫漠ぼうばくたる水また水である。
怪奇人造島 (新字新仮名) / 寺島柾史(著)
多少俳句に心得ある人、いたずらに大観の趣味を解したるまねしてこの種の句を為す者、往々陳腐に陥りまたは茫漠ぼうばく解すべからざるに至る。かんがみる所あるべし。
俳諧大要 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
その春、私が連れて行かれたその狂院きょういんに咲き満ちてた桜の花のおびただしさ、海か密雲みつうんに対するように始め私は茫漠ぼうばくとして美感にうたれて居るだけでした。
病房にたわむ花 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
どうして己の頭の中には、いつもいつも茫漠ぼうばくとした、取り止めのない空想ばかりが湧き上って来るのだろう。
小僧の夢 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
「そんなこともありませんが、昨今漸く重荷を下しました。かえりみると人生はまあ斯うしたものかと、その何ですな、茫漠ぼうばくながら、要領を得たような心持がします」
嫁取婿取 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
茫漠ぼうばくとして広い青茅あおちの原に突っ立ったつがの老木から老木へ、白い霧が移り渡って、前白根の方へ消えいく。
雪代山女魚 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
そしてその尨大ぼうだいな容積やその藤紫色をした陰翳はなにかしら茫漠ぼうばくとした悲哀をその雲に感じさせた。
蒼穹 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
変に茫漠ぼうばくとした、取りとめのない、そしてそれが何んとなく苦しいような感じさえして来た。
風立ちぬ (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
茫漠ぼうばくたる原野げんやのことなれば、如何に歩調をすすむるも容易やういに之をよこぎるをず、日亦暮れしを以てつゐに側の森林中しんりんちうりて露泊す、此夜途中とちう探集さいしふせし「まひたけ」汁をつく
利根水源探検紀行 (新字旧仮名) / 渡辺千吉郎(著)
時刻はもう二十分くらい経っていたろうか、春の日もそれほど永からぬこの日の夕ぐもりが、しだいに茫漠ぼうばくたる生田川のほとりを幾すじかの筋目を見せながら包んで行った。
姫たちばな (新字新仮名) / 室生犀星(著)
四辺茫漠ぼうばくたる霧の中で、鳴り響く太鼓の洞然たる音はまことに神秘的のものであったが、それに答えて赤帆の船から、法螺貝ほらがいの音の鳴り渡ったのはさらに一層神秘的であった。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
といったばかりではいかにも唐突だしぬけだが、井戸の下に広がっている茫漠ぼうばくたる大広間だ。
つづれ烏羽玉 (新字新仮名) / 林不忘(著)
相変らず白っぽいかすみのかかったような、それでいて、その顔の見えない方の側には、悪狡わるがしこい片眼でも動いていそうな……という、いつも見る茫漠ぼうばくとした薄気味悪さで、またそれには
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
阿賀妻は茫漠ぼうばくとした顔でその話を聞いていた。高机にのせた自分の腕を斜め前のところに置き、両手の指をからませてぴくりぴくりと動かしている。拇指おやゆびが蛇の鎌首かまくびのように突っ立つ。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
それが遠い灰色の雲なぞを背景バックにして立つさまは、何んとなく茫漠ぼうばくとした感じを与える。原にある一筋の細い道の傍には、紫色に咲いた花もあった。T君に聞くと、それは松虫草とか言った。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
雪の場合のように目標が茫漠ぼうばくとしていて、手探りの盲目もうもく飛行の中で、一点の雲の切れ目をとらえて、機を逸せずその方へ突入とつにゅうして行くようなことをくり返して行く仕事では、小出しに満を持しては
実験室の記憶 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
昔の草原の茫漠ぼうばくたる光景をよく知っている者は少ないかも知れない。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
茫漠ぼうばくとした孤独感のみがひたひたと胸をひたした。
糞尿譚 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
八五郎は茫漠ぼうばくとした顔を挙げました。
銭形平次捕物控:245 春宵 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
あの茫漠ぼうばくたるアジア大陸の荒野の上を次第に南に向かって進んでいるという感じがかなりまで強く打ちだされていることは充分に認められる。
映画雑感(Ⅰ) (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
しかし、心の迷いがあるから、茫漠ぼうばくとしたものへあせる気がうごいているから。という自省はその時お千絵にはなかった。
鳴門秘帖:06 鳴門の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彼の結論の茫漠ぼうばくとして、彼の鼻孔から迸出ほうしゅつする朝日の煙のごとく、捕捉ほそくしがたきは、彼の議論における唯一の特色として記憶すべき事実である。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
波が動きをとめたので、湖水みずうみのように茫漠ぼうばくとひろがる月夜の海を、サト子は、のびたり縮んだりしながら、水音もたてずに洞のほうへ泳いで行った。
あなたも私も (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
そればかりか、不用意のうちに現われる彼の希望の茫漠ぼうばくとして支離滅裂なことにむしろ驚かされるくらいであった。
その奥にやさしく茫漠ぼうばくとしたひろがりを感じさせて、すべての人びとをその底に引きずりこまずにはおかぬような、奇妙な深いものをたたえた目なのである。
博士の目 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
泡立あわだつ激流の音は聞こえていたが、川の面は見えなかった。おりおり、目がくらむばかりのその深みの中に、一条の明るみが現われて茫漠ぼうばくたるうねりをなした。
これらを綜合していたもとの姿というものは、よほど茫漠ぼうばくとして把捉しがたいものになってしまうのである。
垣内の話 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
居着いた借家——それは今も彼のんでいる家だったが——は海の見える茫漠ぼうばくとした高台の一隅にあった。彼はその家のなかで傷ついた獣のように呻吟しんぎんしていた。
苦しく美しき夏 (新字新仮名) / 原民喜(著)
また茫漠ぼうばくとして、たがやされていない野原のはらがあるかもしれない。それなのに、衣食住いしょくじゅうきゅうして、ななければならぬ人間にんげんがたくさんいる。それはどうしたことだろうか。
太陽と星の下 (新字新仮名) / 小川未明(著)
彼が独身生活を続けるのも、そこから来るのであったが、情慾は強いかして彼の描く茫漠ぼうばくとした油絵にも、雑多にあつめられる蒐集品しゅうしゅうひんにも何かエロチックのにおいがあった。
食魔 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
どうしても茫漠ぼうばくとして当りがつきませんでしたが、とにかく、これだけのことをお知らせ申しておいて、また出直しを致そうかとこう考えて、大急ぎで飛んで参ったんでございます
大菩薩峠:22 白骨の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
有らゆる用を足す上に、宿題を手伝ったり、試験の山をかけたりしてくれる。要するに内弟子として申分ない。しかし何よりも大切だいじな芸の方は未だ初心しょしんだから、前途ぜんと茫漠ぼうばくとしている。
心のアンテナ (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
揺り覚まされた虻が茫漠ぼうばくとした堯の過去へ飛び去った。そのうららかな臘月ろうげつの午前へ。
冬の日 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)