忽然こつぜん)” の例文
すなはち仏前に座定ざじょうして精魂をしずめ、三昧さんまいに入る事十日余り、延宝二年十一月晦日みそかの暁の一点といふに、忽然こつぜんとしてまなこを開きていわ
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
流石さすが忽然こつぜんとして暗夜に一道の光明を見出すがごとく例の天才——乳母車をひっくり返した幸運なてあいのことを思いださずにいなかった。
目の前には忽然こつぜんと巨大な瓦斯ガスタンクが立ちはだかっていた。細い雑木林は、悄々と鳴っていた。月はボロボロと光りのしずくを落していた。
蝕眠譜 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
承託を受けると男は忽然こつぜん欣喜雀躍きんきじゃくやくとして、弱い灯を受けつつ車体をよこたえて客待ちして居る陰気な一台の円タクを指先で呼び寄せました。
陳情書 (新字新仮名) / 西尾正(著)
すると忽然こつぜんとして、女の泣声で眼がめた。聞けばもよと云う下女の声である。この下女は驚いて狼狽うろたえるといつでも泣声を出す。
永日小品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
するときっとこの昔の郷里のゴムの木のにおいを思い出すと同時にある幼時の特別な出来事の記憶が忽然こつぜんとよみがえって来るのである。
試験管 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
忽然こつぜん、かれはその前に驚くべき長大なる自己の影を見た。肩の銃の影は遠い野の草の上にあった。かれは急に深い悲哀に打たれた。
一兵卒 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
これを実見せしものの話に、深夜十二時ごろに、海中より忽然こつぜん、一怪火が現出する。その色白くして、光輝は大星を欺くくらいである。
迷信と宗教 (新字新仮名) / 井上円了(著)
従って今夜、カラフト問題が突発しなかったら、両者は無縁の衆生であったろう。その防備に思いを致したとき彼は忽然こつぜんと思いだした。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
今や忽然こつぜん、彼女の心がことごとく自分に向けられたのを知ると、彼は急に前よりも限りなく不幸になったのを感じ、意識したのである。
と、どこから登つて来たか、爛々らんらんと眼を光らせた虎が一匹、忽然こつぜんと岩の上に躍り上つて、杜子春の姿を睨みながら、一声高くたけりました。
杜子春 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
その悲鳴と同時に、忽然こつぜんと、——まさに忽然とそこへ八百助が現われた。彼は彼でその七十二時間を正味七十二時間に使って帰ったのだ。
ホーキン氏はあたかも狂人きちがいのように、藪を潜り木立ちを分け、無二無三に走ったが、忽然こつぜん何者かに足を掬われドッとばかりに前へ倒れた。
既にして群集ぐんじゆ眸子ぼうしひとしくいぶかしげに小門の方に向へり、「オヤ」「アラ」「マア」篠田長二の筒袖姿忽然こつぜんとして其処に現はれしなり
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
それさえハラハラさせられているところへ、また忽然こつぜんと一方からおどり立って女ふたりを取り囲んだ者がある。お十夜孫兵衛と三位卿だ。
鳴門秘帖:06 鳴門の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
だれもその仮面をしか見たことがないので、果たして顔を持ってるかさえもわからなかった。幻のように彼は忽然こつぜんと姿を消した。
フランスへ行ったからといって、忽然こつぜんとして生れかわるわけではない位なことは自分といえども万々承知はしているつもりである。
え゛りと・え゛りたす (新字新仮名) / 辻潤(著)
忽然こつぜんとして現われ出でたのは、身のたけ数十ひろ(一尋は六尺)もあろうかと思われる怪物で、手に一つのふくべをたずさえて庭先に突っ立った。
忽然こつぜんソロドフニコフには或る事実が分かつた。あれは理論ではなかつた。或る恐るべき、暗黒な、人の霊を圧する事件である。
あるいは修業のほか余事なく学窓に兀坐ごつざする青年の書生もその机上に微睡を催すときには、忽然こつぜんとしてわが邦の将来を夢みることもあらん。
将来の日本:04 将来の日本 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
物の音を耳には聴いたが、なんにも考えることは出来なくなったんだ。それでもその時忽然こつぜんとして、万事が会得せられたのだね。
(慌ててマッチを付けていだす。)どうぞ堪忍して下さい。(忽然こつぜん何物をか認め得たる如く。)ヘレエネと呼べというのですね。
と、義竜の姿が忽然こつぜんと消えて、怪しい白刃はくじんへやの中に電光のようにきらきらとひらめくと共に、長井と篠山がばたばたとたおれた。
赤い土の壺 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
亜細亜新聞記者東山一雄という俺の人格はすっかり消えてなくなって、仮面強盗という、正体のない、別個の人格が忽然こつぜんと生まれてくるのだ。
探偵戯曲 仮面の男 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
時は忽然こつぜんとして過ぎた、七年は夢のごとくに経過した。そして半熟先生ここに茫然ぼうぜんとして半ば夢からさめたような寝ぼけまなこをまたたいている。
小春 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
忽然こつぜん薄靄うすもやを排して一大銀輪のヌッとずるを望むが如く、また千山万岳の重畳たる中に光明赫灼たる弥陀みだの山越を迎うる如き感を抱かしめた。
なんでも自分に千万無量の奇蹟や、意外の出来事が発見せられるやうに思つて、其間に何の疑をもさしはさまなかつた。己は忽然こつぜん強烈な欲望を感じた。
復讐 (新字旧仮名) / アンリ・ド・レニエ(著)
秋冬のこう、深夜夢の中に疎雨斑々はんぱんとして窓をつ音を聞き、忽然こつぜん目をさまして燈火の消えた部屋の中を見廻す時の心持は
西瓜 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
そもそもまた文三のひがみから出た蜃楼海市しんろうかいしか、忽然こつぜんとして生じて思わずしてきたり、恍々惚々こうこうこつこつとしてその来所らいしょを知るにしなしといえど、何にもせよ
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
あたかも種板を現像するようにだんだん見え出して、ついには全く大理石のヴィナスの像にも似たものが、心のやみの底に忽然こつぜんと姿を現わすのです。
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
今と同じような薄暗さ、うすら冷たさ、埃っぽいにおいの中で、前世の己は、忽然こつぜんと、前々世の己の生活を思出す……
木乃伊 (新字新仮名) / 中島敦(著)
この好文亭は水戸烈公が一夜忽然こつぜんとして薨去こうきょされたところで、その薨去が余り急激であったため、一時は井伊掃部頭いいかもんのかみの刺客の業だと噂されたという事だ。
本州横断 癇癪徒歩旅行 (新字新仮名) / 押川春浪(著)
母は忽然こつぜん襖をあけて、煎餅せんべいでもやらうか、といふ。これは平生夜仕事の時に何か食ふが例となり居ればかくいふなり。
明治卅三年十月十五日記事 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
その不意打ふいうちの行為が僕の父の矜尚の過程に著しいさまたげを加へたから父は忽然こつぜんとして攻勢にでたのではなかつたらうか。
念珠集 (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
その時のプラトンの心持は、忽然こつぜん羽が生えて、空中を飛んでゐるやうであつた。熱した体に、涼しい風が当つて、好い工合に寐入られるやうであつた。
板ばさみ (新字旧仮名) / オイゲン・チリコフ(著)
そのためにせっかく事実の観測を足場とする自然科学が、ここに来ると忽然こつぜんとして「先生の仰せある通り」という昔風の賢人崇拝に陥る懸念があった。
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
そのとき空のかなたから忽然こつぜんとして現われたのは、見覚みおぼえのあるヘリコプター、しかも進路は万国堂の方向である。
少年探偵長 (新字新仮名) / 海野十三(著)
それは忽然こつぜんとして、おどろく工匠の眼前にブラフマ神のすべての創造物中の最もうるわしいものとしてひろがった。
と言い終ると、竹青の姿はもとより、楼舎も庭園も忽然こつぜんと消えて、魚容は川の中の孤洲に呆然と独り立っている。
竹青 (新字新仮名) / 太宰治(著)
峠へ来て初めて谷をぬけるので、忽然こつぜんとして海洋美の大観に接する。普賢へは上らなくとも仁田峠は見落とすなといわれているほどその風景は美くしい。
雲仙岳 (新字新仮名) / 菊池幽芳(著)
人気女優江川蘭子は忽然こつぜんとしてこの世から消えうせ、そこの鏡台の前に立っているのは、安銘仙やすめいせん縞物しまものにメリンスの帯をしめ、髪は櫛巻くしまき同然の田舎洋髪
人間豹 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
林野を女が歩いていると、行く手に忽然こつぜんとして地中からキノコようのものが現われて、ホタリホタリ(11)している。その時すこしもあわてず前をまくって
えぞおばけ列伝 (新字新仮名) / 作者不詳(著)
が、忽然こつぜんとして青天、急にその膝へ抱き上げられたように感じた。ただし不意をくらったから、どぎまぎして
式部小路 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
あでやかな変怪の姿のなかから忽然こつぜん、おとうさんが男姿で抜け出したやうな不思議な感じがいたしました。
秋の夜がたり (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
これはまるで夢のような——いや、夢にしたところで、このような運命の忽然こつぜんとひらけることはあるまい。
本所松坂町 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
吾人ごじんはその天上より落下する隕石の如く、独り忽然こつぜんとしてこの地上に現出したものではない。吾人の前にも無限の連絡あれば、吾人の後ろにも無限の連絡がある。
現代の婦人に告ぐ (新字新仮名) / 大隈重信(著)
「それなら、僕もそうおもうね。渦巻く海面から、忽然こつぜんと消えて無くなるなンか、やっぱり幽霊船だった」そのまに、飛行機は、もう可成かなり遠くまで飛んでいた。
怪奇人造島 (新字新仮名) / 寺島柾史(著)
鹿毛かげなる駒の二歳位なるが、ひとり忽然こつぜんとして現はれ、我も驚き、彼も驚く風情なかなかに興多く候。
大菩薩峠:32 弁信の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
五六枚の衣を売り、一行李こうりの書を典し、我を愛する人二三にのみわかれをつげて忽然こつぜん出発す。時まさに明治二十年八月二十五日午前九時なり。桃内ももないを過ぐるころ、馬上にて
突貫紀行 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
予はこの景色を打眺うちながめて何となく心をどりけるが、この刹那せつな忽然こつぜんとして、吾れは天地の神とともに、同時に、この森然たる眼前の景を観たりてふ一種の意識に打たれたり。
予が見神の実験 (新字旧仮名) / 綱島梁川(著)