嗚咽おえつ)” の例文
時に依って万歳の叫喚で送られたり、手巾ハンカチで名残を惜まれたり、または嗚咽おえつでもって不吉なはなむけを受けるのである。列車番号は一〇三。
列車 (新字新仮名) / 太宰治(著)
だが、ほとばしる嗚咽おえつと共に男の胸に顔を埋めた女——男に謝する女の心、男を恨む女の心。女はいつまでもそのまま嗚咽を続けた。
(新字新仮名) / 岡本かの子(著)
うれし泣きに嗚咽おえつするお珠の顔を、むごいような力でいきなり抱きしめると、安太郎は、彼女の唇に情熱のほとばしるままに甘い窒息ちっそくを与えた。
(新字新仮名) / 吉川英治(著)
ううっ、とこもったような嗚咽おえつが、文吉ののどからもれた。くらい欅横丁けやきよこちょうに道をかえて、老夫婦はしばらく無言で突っ立っていた。
日めくり (新字新仮名) / 壺井栄(著)
拭いても拭いても溢れ出てくる泪、ともすればのどをふさぎそうな嗚咽おえつ、それを姑にさとられずに読もうとするだけで精いっぱいだった。
日本婦道記:不断草 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
もたげた顔に朝日をうけて凝っとそのピアノのメロディを聴いているうちに、サヨの体は小刻みに震えて、忍びやかな嗚咽おえつがこみあげて来た。
朝の風 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
彼はまだ泣いていたので、その声も嗚咽おえつのために時々とぎれるのであったが、彼は言った。あたかも私をとがめるような調子で。
虎狩 (新字新仮名) / 中島敦(著)
その手には白ばらの花束が握られていたが、それは彼女と共に棺の中へ入れてあったものだ。群集のあいだには動揺と叫喚と嗚咽おえつが起こる。
ゆがんだ顔に嗚咽おえつが走って、手を挙げて指さす、少しばかりの空地の隅には、むしろを掛けたままの、竹松の死体が転がっているではありませんか。
くッ、くッ、と、笑いのような、嗚咽おえつのようなものが、胸の奥底からつきあげて来た。二人の姿が、狐と狸のように見えた。
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
畳に身を伏せて、嗚咽おえつしていた真一は、このとき俄かに身体をブルブルと震わせ始めた。それは持病の発作が急に起ってきたものらしかった。
三人の双生児 (新字新仮名) / 海野十三(著)
ふたりは同時に口をきいたが、年下の方の声は嗚咽おえつに妨げられ、年上の方の声は寒さに震える歯の音に妨げられて、言葉は聞き取れなかった。
押えたような嗚咽おえつであった。次第に大きく乱れながらそれは号泣ごうきゅうに変って行った。追われるように宇治は足どりを早めた。
日の果て (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
嗚咽おえつする声が聞こえてきた。地上にうずくまった老人が、膝頭ひざがしらへ額をあてている。枯れ木がたばねて捨ててあるようだ。
剣侠受難 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
彼は、藤原と、波田との手にすがって、何か言いたそうにしていたが、ようやく出た言葉は、はげしい嗚咽おえつのために聞きとることができなかった。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
しばらくげきとして声はなく、ただかやの風になびく音のみがサヤサヤと私の耳についていたが、途端に嗚咽おえつの音が洩れて
逗子物語 (新字新仮名) / 橘外男(著)
そうかといってやたらに生きたいともがく嗚咽おえつに似た心の乱れもなく、——深い諦めに似た心持があるのみであった。
(新字新仮名) / 島木健作(著)
亀谷省軒は「文中悲惻ひそく哀傷等ノ字ヲ著ケズ。シカモ句句嗚咽おえつ篇ヲ終ルニ忍ビズ。コレ文ノ至レル者。」と言っている。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
我空想はかの少女おとめをラインの岸の巌根いわねにをらせて、手に一張ひとはりの琴をらせ、嗚咽おえつの声をいださせむとおもひ定めにき。
うたかたの記 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
玉藻は床に顔をおしつけるばかり身を投げ伏して、嗚咽おえつの声をもらしているのであった。清治も驚いた。しゅうと家来とは顔をみあわせて暫く黙っていた。
玉藻の前 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
定規がさらにひどく振りおろされた。クリストフはもう指の感じをも失った。黙って、嗚咽おえつや涙をすすり込み飲み込みながら、いじらしく泣いていた。
「あは」彼女は感動の余り嗚咽おえつした。「妾の春雄が、ほんとうに……妾をすん配すると……云ったでしょうか……」
光の中に (新字新仮名) / 金史良(著)
譲吉は悔みの挨拶をしようとしたが急に発作的に起った嗚咽おえつの為に彼は、しばらくは何うしても、言葉が出なかった。
大島が出来る話 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
周囲から嗚咽おえつの声がくずれるようにきこえ出した。その声の中を、次郎はお浜に抱かれるようにして部屋を出た。
次郎物語:01 第一部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
やがて、室内に悲しみに耐えぬ嗚咽おえつの声が起った。桜井夫人が、両手に顔を埋めて、声を殺して泣いているのだ。
妖虫 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
宮の首を一目見たこの女房は、袖を顔に押しあてるとそのままうつぶした。肩が大きく波打ち、こらえきれぬ嗚咽おえつがもれる。宮の首は確かめられたのである。
すると私はもう一度その頬を拭いてやり、まだいくらかれている眼玉の上をでてやり、それからその紙で、かすかな嗚咽おえつをつづけている彼女の鼻のあなをおさえ
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
両手を膝に重ねて、粛然しゅくぜんと端坐してお艶に対したまま、弥生は顔中を涙に濡らして嗚咽おえつしているのだ。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
と言って、弁信法師は嗚咽おえつして泣きました。涙がハラハラと雨のように落ちます。たまらなくなったと見えて、杖の上に置いた手の甲に顔をうずめて泣きましたが
大菩薩峠:23 他生の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
群集の中から、うおッ! という嗚咽おえつの声が起こった。男は一斉に帽子を脱いで黙祷し、女たちは抱き合ってすすり泣いた。市役所の屋根の上のサイレンが鳴り出した。
女どもが嗚咽おえつした。だが彼女らの泣き声は、草藪の底を流れるトウベツ川の瀬音にかき消された。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
しかし、嗚咽おえつの声が、よよと泣ききざむお駒のむせび音が、なさけの糸をかき締めたのです。
あまりに急な、しかも尋常でない朋輩ほうばいの死に女たちは嗚咽おえつする者もあった。目を赤くらした信子は波瑠子と特別親しかったので店には出ず、なにかと葬儀の用意をしていた。
宝石の序曲 (新字新仮名) / 松本泰(著)
やがて女の漸っとこらえていたような忍び泣きが急にはげしい嗚咽おえつに変っていった。……
曠野 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
そのうちに嬢次母子おやこは思わず抱き合って嗚咽おえつの声を忍び合った。一同は粛然と首低うなだれた。
暗黒公使 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
女御にょご更衣こうい、その他院内のあらゆる男女は上から下まで嗚咽おえつの声をたてないでいられるものはない、こうした人間の声は聞いていずに、出家をすればすぐに寺へお移りになるはずの
源氏物語:34 若菜(上) (新字新仮名) / 紫式部(著)
そこで法水等は、伸子を引き立ててきたという、もとの室に戻ることになった。ドアを開くと、嗚咽おえつの声が聞える。伸子は、両手で覆うた顔を卓上に伏せて、しきりと肩をふるわせていた。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
音楽の魅力は酩酊めいていであり、陶酔であり、感傷である。それは人の心を感激の高所に導き、熱風のように狂乱させる。あるいは涙もろくなり、情緒におぼれ、哀切耐えがたくなって、嗚咽おえつする。
詩の原理 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
お雪は声を呑んで袂に食着いていたのであるが、優しくされて気もゆるんで、わっと嗚咽おえつして崩折くずおれたのを、慰められ、すかされてか、節も砕けるほど身に染みて、夢中ににじり寄る男のそば
黒百合 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
女は狂気のように私の唇をもとめ、私の愛撫あいぶをもとめた。女は嗚咽おえつし、すがりつき、身をもだえたが、然し、それは激情の亢奮こうふんだけで、肉体の真実の喜びは、そのときもなかったのである。
私は海をだきしめていたい (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
あの嗚咽おえつする琵琶の音が巷の軒から軒へと漂うて勇ましげな売り声や、かしましい鉄砧かなしきの音とざって、別に一どうの清泉が濁波だくはの間をくぐって流れるようなのを聞いていると、うれしそうな
忘れえぬ人々 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
小孩は、抱きしめられた痛さに、顔をしかめながら、嗚咽おえつとともに云った。
雲南守備兵 (新字新仮名) / 木村荘十(著)
私は嗚咽おえつの声を漏らした。階段を上ってくる足音が聞えたので私は急いで涙を拭った。イエかも知れぬと思った。イエはまだ帰らずにいて階下の座敷にいるのを私は見ていた。やはりイエだった。
前途なお (新字新仮名) / 小山清(著)
蝋涙ろうるいが彼の心の影を浮べて、この部屋のたった一つの装飾の、銀製の蝋燭立てを伝って、音もなく流れて行った。彼の空想が唇のように乾いてしまったころ、嗚咽おえつがかすかに彼の咽喉のどにつまってきた。
(新字新仮名) / 池谷信三郎(著)
やや久しゅうして、唇ふるい、嗚咽おえつは食いしばりたる歯を漏れぬ。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
彼はチョッキの前をきむしりなが嗚咽おえつしわめいた。——
水に沈むロメオとユリヤ (新字旧仮名) / 神西清(著)
果ては声音せいおん一斉いっせい軒昂けんこう嗚咽おえつして、加之しかも始終しじゅう斗満川とまむがわ伴奏ばんそう
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
と——だから、久光の、嗚咽おえつに対し反感さえ感じながら
南国太平記 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
涙がとめどなくこみあげてきて、嗚咽おえつしてしまう。
何という旅情だ! それはもう嗚咽おえつに近かった。
過古 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)