こう)” の例文
ここに一言して置く。わたくしはこの拙著中人物の生死を記するに大抵没あるいは終の語を以てし縉紳しんしん公侯の死にもこうといい卒という語を
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
○さて太宰府に謫居てききよし給ふ事三年みとせにして延喜三年正月の頃より 御心れいならず、二月廿五日太宰府にこうじ玉へり、御年五十九。
公のこうぜられた後は誰れ一人責任を負ふて能楽界を保護する人もないので、遂に今日の如く四分五裂してしまつたのである。
病牀六尺 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
(楊儀、姜維の徒が、丞相こうぜられるや、たちまち、兵権を横奪おうだつして、乱を企てておるので、自分は彼らを討つ所存である)
三国志:11 五丈原の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
すこぶる人望のある御人であつたが大阪の行營ぎやうえいこうぜられたので、そこで慶喜公が其後そのゝちを繼いで將軍となられたのである。
兵馬倥偬の人 (旧字旧仮名) / 塚原渋柿園塚原蓼洲(著)
今やまた元帥キッチナーのこうずるや、職工の親方といわれていた彼は、文官の出身をもってこの大戦に際し陸軍大臣の要職につくに至ったのである。
貧乏物語 (新字新仮名) / 河上肇(著)
三年の後、皇太子も亦こうじ、その子珂瑠かる皇子は極めて幼少であつたから、皇太后が即位した。持統天皇であつた。
道鏡 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
しかし秀吉は、その後間もなく慶長三年にこうじたので、折角の対呂宋ルソン強硬外交も、実利的の実は結ばなかった。
後に豊後府内から同国津守つのかみに移されて、台所料として幕府から一万石を給され、晩年をこともなく過し、慶安けいあん三年九月十日にこうじた。享年五十六歳であった。
忠直卿行状記 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
普賢寺関白近衛基通もとみちが『俊成卿九十賀記』を書いた。翌元久元年十一月三十日に九十一歳でこうじた。ちょうど『新古今集』の竟宴きょうえんが行われる前の年であった。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
五百は鼎斎を師とした外に、近衛予楽院このえよらくいん橘千蔭たちばなのちかげとの筆跡を臨模りんもしたことがあるそうである。予楽院家煕いえひろ元文げんぶん元年にこうじた。五百の生れる前八十年である。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
武士はやうやく実力がありながら官位低く、屈して伸び得ず、藤原氏以外の者はたまたま菅公が暫時栄進された事はあつても遂に左遷を免れないで筑紫つくしこうぜられた。
平将門 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
(前略)とし辛巳かのとみ十二月廿一日癸酉みづのととりの日、穴穂部間人あなほべはしひとの母后崩じ、明年二月廿二日甲戌きのえいぬの夜半に太子こうず。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
伏見の城にこうじ、つづいて秀頼も大阪夏冬の両陣に破れて自害したことを聞くと、さめざめと涙を流して泣き、それ以来、さまざまな拷問ごうもんや、牢屋の責苦にったが
秘境の日輪旗 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
この歌は、川島かわしま皇子がこうぜられた時、柿本人麿が泊瀬部はつせべ皇女と忍坂部おさかべ皇子とにたてまつった歌である。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
保明親王の薨去後に皇太子に立ったが、これも延長三年六月十八日に、わずか五歳を以てこうじた。
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
寛政七年元旦慨然として歌ふて曰く少小欲天下器、誤将文字人知、春秋回首二十七、正是臥竜始起時。此年家治こうじ家斉十五歳の少年を以て将軍職をげり。
頼襄を論ず (新字旧仮名) / 山路愛山(著)
その玄宗皇帝の御代みよも終りに近い、天宝十四年に、安禄山あんろくさんという奴が謀反むほんを起したんだが、その翌年の正月に安禄山は僭号せんごうをして、六月、賊、かんる、みかど出奔しゅっぽんして馬嵬ばかいこうず。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
続いて天明六年に将軍家治こうじ、異薬を勧めたという名で田沼主殿頭は退けられ、翌七年には遠州相良さがら五万七千石の所領を召上めしあげられて閉居、八年には田沼の頽勢も一瞬にして壊滅
『弓馬秘伝聞書』に祝言しゅうげんの供に猿皮の空穂うつぼを忌む。『閑窓自語』に、元文二年春、出処不明の大猿出でて、仙洞せんとう、二条、近衛諸公の邸を徘徊せしに、中御門なかみかど院崩じ諸公もこうじたとあり。
十日が岩佐氏の葬送で、その日には大臣は帰京されたのですが、その後はだんだんと御様子が悪く、熱があるとか、舌根がれたとか聞きましたが、四月二日についにこうぜられました。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
天保十二年辛丑しんちゅう 前将軍家斉こうず〔文恭公〕。水野越前守幕政の改革に着手す。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
しかも我々はこの中宮が、十六歳にして中宮となり、二十五歳にして皇后として産褥さんじょくこうぜられたことを知っている。そうしてこの年若さにふさわしい描写もこの草子の内に欠けてはない。
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
翌日、将軍は休息の部屋へやこうじた。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
○さて太宰府に謫居てききよし給ふ事三年みとせにして延喜三年正月の頃より 御心れいならず、二月廿五日太宰府にこうじ玉へり、御年五十九。
いま魏王こうぜられ、太子御柩みひつぎのかたわらに在り、たとえ勅命おそくとも、直ちに太子をのぼせて王位へけ奉るに、誰かこれに従わぬ者があろうや。
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
三年の後、皇太子も亦こうじ、その子珂瑠皇子は極めて幼少であったから、皇太后が即位した。持統天皇であった。
道鏡 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
七月二十二日に将軍家慶いえよしこうじた。年六十一である。その第三子家定いえさだが将軍の職を襲いだ。年三十二である。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
水戸家の初代威公頼房ゐこうよりふさは慶長十四年に水戸城を賜はつて、寛文元年にこうじた。二代義公光圀ぎこうみつくには元祿三年に致仕し、十三年に薨じた。三代肅公綱條しゆくこうつなえだは享保三年に薨じた。
寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
ついで六年後柏原天皇が宝算ほうさん六十三を以て崩御になり、最後に天文六年実隆が八十三を以てこうじた。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
太閤こうじ、紹巴没し、豊臣氏いで滅び、徳川氏まつりごとを江戸に執るに及びて、連歌は僅にその形骸けいがいを保つに止まり、しかして松永貞徳の俳諧一派はようやく世に拡まらんとす。
古池の句の弁 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
病身がちであった将軍家光は既にこうじているが、未だ喪を発しないのだとか、この冬には両肥の国に兵革疫病が起って、ただ天主を信ずる者だけが身を全うし得るであろうとか
島原の乱 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
懿文いぶん太子のこうずるや、身をぬきんでゝ、皇孫は世嫡せいちゃくなり、大統をけたまわんこと、礼なり、と云いて、内外の疑懼ぎくを定め、太孫を立てゝ儲君ちょくんとなせし者は、実に此の劉三吾たりしなり。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
菅公が筑紫の配所でこうじたのは延喜三年二月二十五日であるが、同六年の七月二日には、時平と共に菅公讒奏ざんそうの謀議に加わった右大将大納言定国が四十一歳を以てしゅっし、同八年十月七日には
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
大物主神おおものぬしのかみ顔を隠して夜のみ倭迹々姫命やまとととびめのみことに通い、命その本形を示せと請うと小蛇となり、姫驚き叫びしを不快で人形にかえり、愛想かしを述べて御諸山みもろやまに登り去り、姫悔いてはしほといてこう
こうずるやおくりなして章善院しょうぜんいん、流風永く今日に伝わり、市民今に仰いでいる。卿や資性豪放濶達、一面芸術家にして一面武人、政治の才に至っては、岡山の藩主新太郎少将と、優に比すべきものがある。
任侠二刀流 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
菅家くわんけ筑紫つくしにてこうじ玉ひたるは延喜えんぎ三年二月廿五日なり、今を去る事(百樹曰、こゝに今といひしは牧之老人が此したがきしたる文政三年をいふなり)
しかし、家康がこうじてのちは、この禁令も何時しか忘却されて、勅許を奉じて出世する者がすくなくなかった。
随筆 宮本武蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
枳園きえんはこの年十二月五日に徳川家茂いえもちに謁した。寿蔵碑には「安政五年戊午ぼご十二月五日、初謁見将軍徳川家定公」と書してあるが、この年月日ねんげつじつは家定がこうじてから四月しげつのちである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
父の秀康卿ひでやすきょうが慶長十二年閏四月にこうぜられた時、わずか十三歳で、六十七万石の大封を継がれて以来、今までこの世の中に、自分の意志よりも、もっと強力な意志が存在していることを
忠直卿行状記 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
菅家くわんけ筑紫つくしにてこうじ玉ひたるは延喜えんぎ三年二月廿五日なり、今を去る事(百樹曰、こゝに今といひしは牧之老人が此したがきしたる文政三年をいふなり)
「今夕参ったのは、ほかでもない、昨夜ついにわが丞相はこうぜられました。そのご報告に来たわけです」
三国志:11 五丈原の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
四月十日宇品にて乗船せさせ給ひ、十四日柳樹屯りうじゆとんにて上陸せさせ給ふ。五月二十二日旅順りよじゆんを発せさせ給ひ、三十日台湾三貂角さんてうかくにて上陸せさせ給ふ。十月二十八日台南にこうぜさせ給ふ。
能久親王年譜 (新字旧仮名) / 森鴎外森林太郎(著)
けれど、嵐山も大堰川おおいがわもとうに花は散ったあとだし、めくらに新緑をずる風流気はなかろうし、だいいち、征夷大将軍尊氏がこうじてから今日はまだ八日目なのである。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
又一男八条の大将保忠やすたゞ、その弟中納言敦忠あつたゞおよび時平のむすめ、(延喜帝の女御なり)孫の東宮までも相つゞきてこうぜらる。又時平の讒毒ざんどく荷担かたんしたる菅根すがねの朝臣は延喜八年十月死す。
将軍徳川家茂こうず。
能久親王年譜 (新字旧仮名) / 森鴎外森林太郎(著)
又一男八条の大将保忠やすたゞ、その弟中納言敦忠あつたゞおよび時平のむすめ、(延喜帝の女御なり)孫の東宮までも相つゞきてこうぜらる。又時平の讒毒ざんどく荷担かたんしたる菅根すがねの朝臣は延喜八年十月死す。
諸人が近づいてみると、息絶えて、まったくこうじていたというのである。
三国志:11 五丈原の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
敵の流れ矢にあたってこうぜられてしまわれた。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)