自棄やけ)” の例文
暗に嫁のお冬と言はないばかり、無事な右手に握つた煙管で、自棄やけに灰吹を叩きます。成程福島浪人と言ふのは嘘でなかつたでせう。
一方の男ふたりは無事で、友之助は自棄やけ酒を飲みながら、相変らず役所へ勤めていた。吉之助はとどこおりなく学校にかよっていた。
有喜世新聞の話 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
「いんにゃ、駄目です! 幾らになっても売るもんですか!」と、コワリョーフ少佐は自棄やけに呶鳴った。「腐っても譲りませんよ!」
(新字新仮名) / ニコライ・ゴーゴリ(著)
私は、半分自棄やけでリオへ来て、話に聴いたナイトクラブとはどんなところだろうと、なんだかのぞくような気持で『恋鳩』へゆきました
人外魔境:05 水棲人 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
大砲おおづつで権現堂の堰を壊してお江戸を水浸しにしてしまうともいいますし……聞いていて私、何だか自棄やけになりそうで困ってしまった」
小説 円朝 (新字新仮名) / 正岡容(著)
あれほど、気性の激しい父も、不快な執拗しつような圧迫のために、自棄やけになったのではないかと思うと、その事が一番彼女には心苦しかった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
だがのいづれの相乘あひのりにも、ひとしくわたしくわんせざることふまでもない。とにかく、色氣いろけいさゝ自棄やけで、おだやかならぬものであつた。
麻を刈る (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
どっかの工業学校へ入った年に病気で落第したら頑固な父さんがあんまり怒るもんで自棄やけになって家を出て仕舞ったんですって。
お久美さんと其の周囲 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
「私たちを送って来た従兄は、一週間も小樽に遊んでいましたの。自棄やけになって毎日芸者を呼んで酒浸しになっていましたの。」
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
そういう発見が子供の魂を永久に毀損きそんしたのだ、もしくは生長さしたのだ。多くのものは自棄やけになってしまった。彼らはみずから言った。
『それぢや、はなしにならないわ』とあいちやんは自棄やけになつて、『なんて、愚物ばかなんだらう!』とひながら、けたなか這入はいりました。
愛ちやんの夢物語 (旧字旧仮名) / ルイス・キャロル(著)
百姓ひやくしやうすべてはかれこゝろ推測すゐそくするほど鋭敏えいびんつてなかつた。かれ自棄やけわざ繃帶ほうたいいて數日間すうじつかんぶら/\とあそんでた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
パラ/\と自棄やけに頁をる音がする。と、やつぱり相手を求める私の力でないやうな力にあやつられて、私はつと後を追つて行く。
脱殻 (新字旧仮名) / 水野仙子(著)
お銀様は頭を自棄やけに振って、銀のかんざしを机の上へ振り落しました。振り落したその簪をグイと掴んで、呪いの息を写真のおもてに吹きかけました。
大菩薩峠:13 如法闇夜の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
自棄やけ気分になって、なるべくノロノロとやるようにと命じ、その代りこの時間をウツラウツラと居睡りに提供することとした。
深夜の市長 (新字新仮名) / 海野十三(著)
「太夫さん、後生ですからそんな自棄やけをおこさないで。一座の者が懸命になれば、またいい芽を吹く時節もありましょうから」
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
変に自棄やけにでもなって、何処かで酔いつぶれでもしてるのじゃないかと、そりゃあ心配したんですよ。……でも、宿酔のようでもないようね。
野ざらし (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
緊張のなかに、へんに自棄やけっぱちな気持がこじれたままふくれ上り、冗談を言い合う声が奇妙にうわずって来るらしかった。
桜島 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
運命が私を不公平に扱つた時、私には冷靜にしてゐるやうな智慧がなかつたのです。私は自棄やけつぱちになつて、やがて墮落してしまひました。
救いのない気持で人はそわそわ歩いている。それなのに、練兵場の方では、いま自棄やけ嚠喨りゅうりょうとして喇叭らっぱが吹奏されていた。
夏の花 (新字新仮名) / 原民喜(著)
「俺はしばらく退屈してゐたんだぞ!」そしてひとりで自棄やけにふざけて、麓の村に石を投げる、氣流に灰を撒き散らす。
(旧字旧仮名) / 三好達治(著)
もううずうずしている別の一人が、自棄やけに茶ばかり飲んでいる傍で、参右衛門は、煙管を炉縁へ叩きつけてばかりいる。
人なき裏路を自棄やけに急ぎながら、信吾は淺猿しき自嘲の念を制することが出來なかつた。少し下向いた其顏は不愉快に堪へぬと言つた樣に曇つた。
鳥影 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
彼は石の上へ箱をっ付けた。が、壊われなかったので、此の世の中でも踏みつぶす気になって、自棄やけに踏みつけた。
セメント樽の中の手紙 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
この小さな食い違いが正吉の運命を捻曲ねじまげる因であった、そしてすっかり自棄やけになっているところへお紋が現われた。
お美津簪 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
権九郎は自棄やけに怒鳴りながら横へれる犬を引き締めた。「雪の降ってる冬の夜中だ。道草食うにも草はあるめえ、トットットットッ。走れ走れ!」
八ヶ嶽の魔神 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
逡巡しゅんじゅんしたが、しかしもうどうしようもない、半ば自棄やけ気味で覚悟を定めると、彼は裸になり、湯ぶねの蓋を取った。
いのちの初夜 (新字新仮名) / 北条民雄(著)
かくて彼は思い切って自己に対する自棄やけな反逆から、奉行に身を売り、切支丹さがしの犬となり、踏み絵の法を案出して、奉行の歓心を得ようとした。
数寄屋橋の近所がいまのやうにまだ開けてゐず——僅の間にこのごろは自棄やけにあの辺、賑やかになりましたが……
井上正夫におくる手紙 (新字旧仮名) / 久保田万太郎(著)
清次郎は自棄やけに唾を吐き散らした。そして見物人達の笑い声を背後うしろに浴びながら幹部休憩所の方へやって行った。
或る部落の五つの話 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
彼は忌々いま/\しさに舌打ちし、自棄やけくそな捨鉢の氣持で空嘯そらうそぶくやうにわざと口笛で拍子を合はせ、足で音頭をとつてゐた。が、何時しか眼をつぶつてしまつた。
崖の下 (旧字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
ただあんたに言っておきたいのはね、こうして牛小屋なんぞへ送られて来ても、決して自棄やけなんか起してはいけないよ。送られて来た方が結句ましなのさ。
と、自棄やけくそみたいに喋りまくるのを、万五はにやりにやり聞いてゐるうちに、ふと、この粕谷といふ男が小峯喬を説得できないわけがどこにあるかを考へた。
(新字旧仮名) / 岸田国士(著)
「それでおめえ、自棄やけ酒くらってよっぱらってれば、その苦しさから脱けて出られっとでもいうのか。」
鰊漁場 (新字新仮名) / 島木健作(著)
「それぢや屠所に曳かれて行くかな。まさに斷頭臺へ上る思ひだね。」佐々木は自棄やけの快活さで應じた。
受験生の手記 (旧字旧仮名) / 久米正雄(著)
しかるに叔父さんもその希望のぞみが全くなくなったがために、ほとんど自棄やけを起こして酒も飲めば遊猟にもふける、どことなく自分までが狂気きちがいじみたふうになられた。
鹿狩り (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
彼は箒を握りしめて自棄やけに落葉を掃きながら、時々とつぜん首をあげて老堂守に罵りの激しい言葉を報ひやうとしかけるのだが、思ふやうに言葉が喉を通らぬとみえ
郵便局の横町にある理髪店に飛び込んで髭をあたって貰う。南を向いた店先には一ぱい日がさし込んでいる上に、ストオヴを自棄やけいているので、苦しいくらい熱い。
雉子日記 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
そこで、それとなく様子を聞いてみると、蟹口運転手は、それ以来スッカリ自棄やけ気味となり、大酒を飲み習い、誰、彼の見境みさかいなく喧嘩を吹っかけるようになっている。
衝突心理 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
それ以来自棄やけ半分になっているのではないかと思われるところもあったが、然し祝儀の多寡によって手の裏返して世辞をいうような賤しいところは少しもなかったので
申訳 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
運転台にいる吉川が自棄やけにハンドルをきり、無茶苦茶にスピードを出すので、車体は烈しく動揺し、危険だったので、乱暴な真似は止せ、そんな運転のしかたがあるか。
青い風呂敷包 (新字新仮名) / 大倉燁子(著)
一郎も澤も、乙子と養子の無慙むざんな死に対し、又あんまり無雑作むぞうさに人間が圧倒された自然現象に対して、腹立たしい自棄やけの心持から、死んでもおしくないような気持だった。
九月一日 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
そんなところからでも仕入れて来て、自棄やけ酒をあおっているのだろう——皆そう言い合った。
生きている戦死者 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
寂寥さびしさに堪えず、ひるから酒を飲むと言出した。細君の支度の為ようが遅いのでぶつぶつ言っていたが、膳にせられたさかながまずいので、遂に癇癪かんしゃくを起して、自棄やけに酒を飲んだ。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
私の心にもなき驕慢きょうまん擬態ぎたいもまた、射手への便宜を思っての振舞いであろう。(一行あき。)自棄やけの心からではない。私を葬り去ることは、すなわち、建設への一歩である。
虚構の春 (新字新仮名) / 太宰治(著)
自棄やけくそに、干からびた馬車馬の背なかを、ひっぱたくのが眼に映るが、スウィスのディリジャンスは、もっとも整頓した交通機関の一つであって、逞ましい馬の四頭立て
スウィス日記 (新字新仮名) / 辻村伊助(著)
それはそうと……彼はベッドから跳上はねあがると、五六歩進んでテーブルの前にき、緑罫の原稿用紙を一枚取ると、ぶっつけに、やや自棄やけ気味にもなって、次のような題を書いた。
幸福な家庭 (新字新仮名) / 魯迅(著)
終には自棄やけになって、石油をかけて火をつける、随分危険な乱暴な事をしたものです。
職業の苦痛 (新字新仮名) / 若杉鳥子(著)
不安らしいですね。私がそういう道を骨を折って歩いて行くと彼女らは僕を疑ったり、あるいは焦れて自棄やけを起して仕舞います。一人の娘などはそのために自殺するとまでいいました。
唇草 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
彼は悪意でそんなことをしているのか、単に自棄やけでそんなことをしているのか、自分にも分からなかった。蜘蛛はその脚を苦しそうに痙攣させた後、窓の先に死んでぶら下がった。