師走しわす)” の例文
師走しわすの風が銀座通りを行き交う人々の足もとから路面の薄埃うすぼこりを吹き上げて来て、思わず、あっ! と眼や鼻をおおわせる夜であった。
越年 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
敬太郎は婦人の着る着物の色や縞柄しまがらについて、何をいう権利もたない男だが、若い女ならこの陰鬱いんうつ師走しわすの空気をね返すように
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
師走しわすちかい雪の街は、にぎわっていた。彼はせわしげに街を往き来するひとびとへいちいち軽い会釈をして歩かねばならなかった。
猿面冠者 (新字新仮名) / 太宰治(著)
但東京の屋敷にたのまれて餅を搗く家や、小使取りに餅舂もちつきに東京に出る若者はあっても、村其ものには何処どこ師走しわすせわしさも無い。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
師走しわすの風の寒い一夜を死人のふところに抱かれていた赤児は、もう泣きれて声も出なかったが、これはまだ幸いに生きていた。
半七捕物帳:17 三河万歳 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
平次は外へ出ると、真っ暗な師走しわすの空を仰いで、大きく息をしました。見えざる敵のしたたかさを改めて犇々ひしひしと感じた様子です。
それらの人影も、師走しわすらしく、たちまち蝟集いしゅうして、たちまち散った。あとには、路傍の枯れ柳と、大岡市十郎だけが残っていた。
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
師走しわすも十日過ぎに成って岸本は小旅行を思立った。彼は節子の一人でれている写真なぞを自分の眼に触れないところへしまってしまった。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
頃は元禄十四年師走しわす半ばの十四日に宝井其角きかくが着ていたような妙ちきりんな十徳じっとくみたいなものを引っ掛けて私にネラわれているとも知らず
ナリン殿下への回想 (新字新仮名) / 橘外男(著)
師走しわすにはいると昼のうちでも流し元の凍っていることが多く、うっかり野菜などしまい忘れると、ひと晩でばりばりに凍ることが度たびだった。
柳橋物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
老中若年寄りを初めとしはやし大学頭だいがくのかみなど列座の上、下見の相談の催おされたのは年も押し詰まった師走しわすのことであったが
北斎と幽霊 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
泉鏡花氏の書いたものによると、「正月はどうこまで、からから山のしいたまで……」という童謡を「故郷のらは皆師走しわすに入って、なかば頃からぎんずる」
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
「うん、もう、じきに師走しわすだものなあ——こんなことなら、燗ざけの二、三本も、注ぎ込んで来るんだっけ」
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
場所は大川筋もずっと繁華の両国、冬ざれの師走しわす近い川風が、冷たく吹き渡っている宵五ツ頃のことです。
さて、翌年が慶応元年のうし、私の十四の時ですが、押し迫った師走しわすの……あれは幾日のことであったか……浅草に大火があって、それは実に大変でありました。
しかも、家禄を失った彼らの面前で、米は空前の高値である石十円を呼び、召しあげられた領地は他藩のものの占有に移っていた。明治二年師走しわすのことである。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
師走しわすの二日には、深川八幡前の一旗亭きていに、頼母子講たのもしこうの取立てと称して、一同集合することになっていた。
四十八人目 (新字新仮名) / 森田草平(著)
芭蕉の名句「何にこの師走しわすの町へ行くからす」には遠く及ばず、同じ蕪村の句「麦秋むぎあきや何に驚く屋根のとり
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
又、小野宮左大臣実頼の女子で、彼が「みくしげ殿の別当」と呼んでいる人を、久しく恋いわたりながらなか/\逢うことが出来ないので、或る年の師走しわす晦日つごもり
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
語り終った三右衛門はいまさらのようにかしらを垂れた。ひたいには師走しわすの寒さと云うのに汗さえかすかに光っている。いつか機嫌きげんを直した治修はるなが大様おおように何度もうなずいて見せた。
三右衛門の罪 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
その来宮様は、某日あるひ例によってしたたか酒を飲んで帰って来た。その時は師走しわすの寒い日であったが、酒で体が温まってほかほかしているので、寒さなどは覚えなかった。
火傷した神様 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
冬を師走しわすの月をもって終わるものとして、年が改まれば第一の月の三十日間を種籾たねもみよりも農具よりも、はるかに肝要なる精神的の準備に、ささげようとしたのであって
雪国の春 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
粉雪まじりの師走しわすの風が電線にうなっていた、町はもう寝しずまって、風呂屋から流れてくる下水の湯気がどぶ板のすきまから、もやもやといてついた地面をはっていた。
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
時政が六代御前を連れて都を出発したのは、師走しわすも押し迫った十二月の十六日であった。斎藤五も六も、馬にも乗らず、六代の輿に寄り添うようにして歩いてゆくのである。
筒井は師走しわすの日をせめてもの心だよりとして男の便りを待ったが、例に依ってそれはむなしい彼女の心だのみに過ぎず、あと二日寝れば正月というのに、何のたよりもなかった。
津の国人 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
この師走しわすの初め頃、今出川殿討滅御祈祷きとう勅命ちょくめいが興福寺に下りました折ふしは、いやにぎやかなことでございましたな。さてもこの世の嵐はいつ収まることやら目当てもつきませぬ。
雪の宿り (新字新仮名) / 神西清(著)
空風からかぜちまた黄塵こうじんを巻いて走り、残り少なくなった師走しわすの日と人とを追い廻していた。
乗合自動車 (新字新仮名) / 川田功(著)
昨年師走しわすの上旬、風光るニースに至る一〇〇八粁にひゃくごじゅうりを縦走旅行するため不可思議なる自動車に乗じて巴黎パリを出発したコン吉氏ならびにタヌキ嬢は、途中予期せざる事件勃発したるにより
何を申しましても私が生れましたのが阿古屋の琴責めの人形が出来ました年のしん師走しわすも押し詰まった日で御座いましたのに、それから一箇月半ほど経った新の二月の中旬を過ぎますと
押絵の奇蹟 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
……その年は、この月から一月おくれ師走しわすの末に、名古屋へ用があって来た。
歌行灯 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
蚊を取ります袋の付きました竹の棒がある「本所に蚊が無くなれば師走しわすかな」と云う川柳の通り、長柄ながえに袋を付けて蚊を取りますが、仲間衆ちゅうげんしゅうが忘れでもしたか、そこに置いてありましたから
業平文治漂流奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
師走しわすの風がついすぐそこまで吹いてまいりました。お体くれぐれも御大切になさって下さいませ。わたしはこれをお読みになる御両親の御姿を思い浮かべながら、毎日御返事を待っております。
それは師走しわすに入って間もない日の或る寒い朝のこと、まだあたりはほの明るくなったばかりの午前六時というに、商家の表戸はガラガラとくり開かれ、しもた家では天窓がゴソリと引き開けられた。
蠅男 (新字新仮名) / 海野十三(著)
しかしこれには特異性がある。少女の日にすでにこんなに愛している源氏であるから将来もたのもしいわけであると見えた。母方の祖母の喪は三か月であったから、師走しわすの三十日に喪服を替えさせた。
源氏物語:07 紅葉賀 (新字新仮名) / 紫式部(著)
「は。何といっても、師走しわすですからな、もう。」
口笛を吹く武士 (新字新仮名) / 林不忘(著)
エレベーターどかと降りたる町師走しわす
六百五十句 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
鶯の鳴くや師走しわすの羅生門 同
俳句上の京と江戸 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
「あたしよくそういわれるのよ。あたし異人と会うおかげであの方のことはくわしいから。今日は師走しわすの、八日だわね。ていうと、さん・じゅわん・えわんぜりした様のご命日だわ。おおもうじき降誕祭が来るわね。それからお正月——あああ。——」
その年の師走しわすの十三日、おせきのうち煤掃すすはきをしてゐると、神明前の親類の店から小僧がけて来て、おばあさんが急病で倒れたとしらせた。
師走しわす二十九日、うるしのような闇の中に、その光が水を渡って走ると、どこからともなく河岸に集まった人数がざっと二十人ばかり。
もっと師走しわすに想像をたくましくしてはならぬと申し渡された次第でないから、節季せっきに正月らしい振をして何か書いて置けば、年内にもちいといて
元日 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
東京の街には夕霧ゆうぎりけむりのように白く充満して、その霧の中を黒衣の人々がいそがしそうに往来し、もう既にまったく師走しわすちまたの気分であった。
メリイクリスマス (新字新仮名) / 太宰治(著)
けれど鎌倉の相模入道からの可否はおそく、やっとそれの下状が届いたのは、年も余すところ少ない師走しわすの二十四日だった。
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
師走しわす十九日にしては暖かい日のれがたで、風のない空には、橙色だいだいいろに染まった大きな雲があり、街はその反映で、きみの悪いほど明るく夕焼けていたが
五瓣の椿 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
師走しわすも十日過ぎのこと、浪士らの所持する武器はすべて加州侯へお預けということになった時、副将田丸稲右衛門や参謀山国兵部ひょうぶらは武田耕雲斎をいさ
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「飛び込んで来た冬の蠅さな。くたばったのは自業自得だ。押し詰まった師走しわす二十日に二十両たア有難え」
三甚内 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
彼のひつぎをのせた葬用馬車は一りょうの馬車を従えたまま、日の光も落ちない師走しわすの町を或火葬場へ走って行った。薄汚い後の馬車に乗っているのは重吉や彼の従弟いとこだった。
玄鶴山房 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
こういう行事のあった時代は、それだけ正月のにぎやかさを添えたことと思うが、師走しわす餅搗もちつきの音でさえ、動力機械に圧倒された今日、そういうことを望む方が無理であろう。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
この師走しわすの初め頃、今出川殿討滅御祈祷きとう勅命ちょくめいが興福寺に下りました折ふしは、いやにぎやかなことでございましたな。さてもこの世の嵐はいつ収まることやら目当てもつきませぬ。
雪の宿り (新字旧仮名) / 神西清(著)
都でははれの春着もとうに箪笥の中に入って、歌留多会の手疵てきずあとになり、お座敷ざしきつゞきのあとに大妓だいぎ小妓のぐったりとして欠伸あくびむ一月末が、村の師走しわす煤掃すすはき、つゞいて餅搗もちつきだ。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)