むしば)” の例文
その一ときのうれしさは云いようもないが、日がたつに従い、足の裏はセメントにむしばまれ、どうにも跛行を引かずにいられなくなった。
其処にある花は花片はなびらも花も、不運にも皆むしばんで居る。完全なものは一つもなかつた。それが少ししづまりかかつた彼の心を掻き乱した。
瞬く間に峯巒ほうらんむしばみ、巌を蝕み、松を蝕み、忽ちもう対岸の高い巌壁をも絵心に蝕んで、好い景色を見せて呉れるのは好かつたが
観画談 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
頭もくずれて来たし、だるい体も次第にむしばまれて行くようであった。酒、女、莨、放肆ほうしな生活、それらのせいとばかりも思えなかった。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
平凡な、緊張のない生活が、かえって俺の肉体をむしばんだかのようだ。身体を張って生きて来た俺には、だらけた生活がきっと毒なのだ。
いやな感じ (新字新仮名) / 高見順(著)
「あたしはそんな女じゃありませんわ。学園の園芸係は、あたしのことを、むしばまれたつぼみの女、わくら葉の新緑のような娘だと言ってたわ」
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
ところが、そのボネーベ式の拱貫きょうかんが低く垂れ、暗く圧し迫るような建物が、たちまち破瓜期の脆弱ぜいじゃくな神経をむしばんでいったのだ。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
生活がまだむしばまれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。赤や黄のオードコロンやオードキニン。
檸檬 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
しかもその夢はいつしかむしばまれていた。危機に襲われて、これまで隠していた弱所が一時に暴露したことを、かれは不思議とは思っていない。
眼のふちには黒い隈さえ縁取られて傷ましい「死」の影にむしばまれた圓朝は、名声と地位とを克ち得てからなんの苦労もなく
円朝花火 (新字新仮名) / 正岡容(著)
午後になったと思うまもなく、どんどん暮れかかる北海道の冬を知らないものには、日がいち早くむしばまれるこの気味悪いさびしさは想像がつくまい。
生まれいずる悩み (新字新仮名) / 有島武郎(著)
半歳の病気にむしばまれて、少しむくんだ、鉛色の顔などを見ると、卒中性のいびきを聞かなくても、人など殺せる容体ではないことは余りにも明らかです。
庭の酸漿ほおずきが赤く色づき、葉がむしばまれたまま、すがれてゆく頃、私は旅に出て、山の宿でさびしい鳥の啼声を聴いた。
忘れがたみ (新字新仮名) / 原民喜(著)
文字の精は、また、彼の脊骨せぼねをもむしばみ、彼は、へそに顎のくっつきそうな傴僂せむしである。しかし、彼は、おそらく自分が傴僂であることを知らないであろう。
文字禍 (新字新仮名) / 中島敦(著)
びたりといえども蓬莱豆、むしばめりといえどもビスケットが、くまなく行き渡りうるはずはないのである。
雪国の春 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
すさんだ、苦々しい氣持で——失望にむしばまれ、すべての男に對して、特にすべての女といふものに對して
KK電気器具製作所、ロボット部主任技師、夏見俊太郎は病にむしばまれ、それと悪闘し、そして、それに疲労してしまった顔と、声とで、その夫人に、低く話かけた。
ロボットとベッドの重量 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
翌日の新聞は、稲川先生のことを大きな見出しで「純真なるたましいむしばむ赤い教師」と報じていた。それは田舎いなかの人びとの頭を玄翁げんのうでどやしたほどのおどろきであった。
二十四の瞳 (新字新仮名) / 壺井栄(著)
私は徴用になって配達をやめてしまってから、しばらく振りで妹に逢ったことがあるが、病いはこの子をもむしばんでいた。花のかおゆがめられていた。痛々しい気がした。
安い頭 (新字新仮名) / 小山清(著)
呼吸器を日に日にむしばまれながら、剣は超人的に伸びて行ったが、この翌年、その肺病のために、この男のみが畳の上で死ぬようなことになるとは、一層の悲惨である。
大菩薩峠:37 恐山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
上の前歯は二本は完全に根まで抜けて了つて、他の二本も殆どむしばまれて辛うじて存在をとどめてゐる。下の門歯も内側からがらん洞が出来て、いつまでつか分らない。
大凶の籤 (新字旧仮名) / 武田麟太郎(著)
昔はさこそと思われる書院造りの屋台ではあるが、風雨年月にむしばまれ見る影もなく荒れている。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
それからのわたくしはただ一たましいけたきたむくろ……丁度ちょうどむしばまれたはなつぼみのしぼむように、次第しだい元気げんきうしなって、二十五のはるに、さびしくポタリと地面じべたちてしまったのです。
だって婆あの方は有害だからね。あれは他人の生命をむしばむやつだ。この間も腹だちまぎれにリザヴェータの指に食いついて、すんでのことにかみ切ってしまうところだったぜ!
何故と云へば、彼等は異口同音に彼を嘲笑あざわらひ、似てゐるどころか、非常によく似てゐると云つたからである。それから、悲哀は彼の霊魂をむしばみ、彼は物を喰ふ気もしなくなつた。
翻訳小品 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
ダシコフの上着についた血のにじみが、みるみるうちに大きく広がっていく、蒼白に変っていく大尉の顔を見ていると、深い悔恨が、だんだんイワノウィッチの心をむしばんでいった。
勲章を貰う話 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
……此を高櫓たかやぐらからあり葛籠つづら背負しょつたやうに、小さく真下まっしたのぞいた、係りの役人の吃驚びっくりさよ。おもてむしばんだやうに目がくらんで、折からであつた、つの太鼓を、ドーン、ドーン。
妖魔の辻占 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
また一面において柿丘の病状は第三期に近く右肺の第一葉をすっかりむしばまれ、その下部にある第二葉の半分ばかりを結核菌に喰いあらされているところだったので、しもう一と月
振動魔 (新字新仮名) / 海野十三(著)
が、ここに不思議なことは、権現堂で白鼠の姿を見たものは、きまって病気がなおると云われていたことと、決ってその白鼠がちょろちょろとむしばんだ板の間を這い歩いていることだった。
天狗 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
それが一体何物であるか、何処どこからやって来るかは、非常に曖昧であったけれど、兎に角、目に見えぬ黴菌ばいきんの如きものが、恐ろしい速度で、秒一秒と死体をむしばみつつあることは確かだった。
(新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
しかも私が依然としてこの語を推すのは瑣末な処世の配慮が結局青春をむしばみ、気魄を奪い、しかも物的にも、それらの軽視したよりもなんらよきものをもたらさぬであろうことを知るからである。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
なぜであろう? 業病ごうびようは精神力をこうまでむしばむものであろうか?
光は影を (新字新仮名) / 岸田国士(著)
ひそかに成心を植えつけて、その人の靈魂をむしばみつくす
薄色ねびしみどり石、むしばむ底ぞおほひたる。
海潮音 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
弛んだ倦怠の情に心をむしばまれている、と。
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
絶えて姿を現はさず、欝々心むしばめて
イーリアス:03 イーリアス (旧字旧仮名) / ホーマー(著)
毛虫のように悩みはむしばむ。
傷心 (新字新仮名) / ワシントン・アーヴィング(著)
むしばめる
孔雀船 (旧字旧仮名) / 伊良子清白(著)
又郷土を捨て、都會を捨て、遂には學問をさへ捨て、あらゆる人生の意義を虚無に觀じて、自分で自分をむしばんでしまふ人間もある。
折々の記 (旧字旧仮名) / 吉川英治(著)
さて、秋成自身ふり返つて見るのに、自分の肉体には若いうちから老いがむしばんでゐて、思ひ切つた若さも燃えさからなかつた。
上田秋成の晩年 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
ちょうど天然の変色が、荒れびれたまだらを作りながら石面をむしばんでゆくように、いつとはなく、この館を包みはじめた狭霧さぎりのようなものがあった。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
末娘のお信は、無口ないぢらしい娘で、その可愛らしさも淋しさにむしばまれて、年齡よりはふけて見える小娘でした。
雨や風がむしばんでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土塀どべいが崩れていたり家並が傾きかかっていたり——勢いのいいのは植物だけで
檸檬 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
山をむしばみ、裾野をおほひ、山村を呑みつ吐きつして、前なるは這ふやうに去るかと見れば、後なるは飛ぶ如くに来りなんどするさま、観て飽くといふことを覚えず。
雲のいろ/\ (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
「此の華やかな俊才のむしばまれた肉体は、果して何時迄もつだろうか? 今幸福そうに見える此の父親は、一人息子に先立たれる不幸を見ないで済むだろうか。」
光と風と夢 (新字新仮名) / 中島敦(著)
ふと身体じゅうを内部から軽くすような熱感がきざしてきた。この熱感はいつでも清逸に自分の肉体が病菌によってむしばまれていきつつあるということを思い知らせた。
星座 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
そんな物のなかから、むしばんだ古い錦絵にしきえが出たり、妙な読本よみほんが現われたりした。母親は叔母が嫁入り当時の結納の目録のような汚点しみだらけの紙などを拡げて眺めていた。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
規律正しい武田家の、鉄砲足軽というにも似ず、足並みも揃えず伍も組まず、互いに体をくっ付け合わせ、おどおどしながら歩くのは、恐怖にむしばまれているからであった。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
私の眼にそれが何やら年若い彼をむしばんでいる薄幸の暗示のように映り、胸に病いでも秘めているのではないかと、ふとそんなことを私に想像させるのだったが、そうした口のなかへ
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
さすがに、彼女の意識は疲れてしまった。不快な、重くるしい眠が、彼女のぐた/\になった頭脳をむしばみ始めていた。うつつともなく夢ともないような、いやな半睡半醒はんすいはんせいの状態が、暫らく続いた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)