臙脂えんじ)” の例文
臙脂えんじ色の小沓こぐつをはいた片足は、無心に通路の中ほどへ投げだしてあつた。葡萄ぶどうかごは半ば空つぽになつて、洗面台の上にのせてある。
夜の鳥 (新字旧仮名) / 神西清(著)
庭の桔梗ききょうの紫うごき、雁来紅けいとうの葉の紅そよぎ、撫子なでしこの淡紅なびき、向日葵ひまわりの黄うなずき、夏萩の臙脂えんじ乱れ、蝉の声、虫のも風につれてふるえた。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
教えられた臙脂えんじの風呂敷と非常に背が高くてスマートだという目印でそれと分り、何がS女学校第一の美人だ、笑わせよると思ったが
(新字新仮名) / 織田作之助(著)
これは紅紫かと思われる濃い色の小袿こうちぎに薄臙脂えんじの細長を重ねたすそに余ってゆるやかにたまった髪がみごとで、大きさもいい加減な姿で
源氏物語:35 若菜(下) (新字新仮名) / 紫式部(著)
その背景の地色の前に黄がかった二輪の薔薇は、鮮かに美しく見えた。艶ある濃い臙脂えんじほそい枝の線、夜の霧に蝕まれはじめた葉の色。
伸子 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
けれど彼は少しもうれしくない。その臙脂えんじや、香りや、太い腕や、貪食どんしょくやで、いやになっている。今ではたいへん嫌いになっている。
まばたき一つ出来ず、唾液一つ呑み込み得ないままに、その臙脂えんじ色の薄ぼけた頬から、青光りする珊瑚さんご色の唇のあたりを凝視していたのであった。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
お湯浴みなども、久々であり、湯殿をめぐる湯けむりのうちに、妃たちの溶く化粧のものの香や臙脂えんじなまめきが漂うなども、めずらしかった。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その日の夕べ、西の方に夕焼雲が赤くさして、郭の塔々は金字に輝き、枝川の水も空の色を映して臙脂えんじの色に流れています。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
赤と白の渦巻や、シトロン色や、臙脂えんじの水玉や、緑と空色の張り交ぜや、さまざまな海岸日傘ビーチ・パラソルが、きのこのようにニョキニョキと頭をそろえている。
キャラコさん:07 海の刷画 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
殊に今日まで褪色たいしょくもしないでいる紺青臙脂えんじの美は比類がない。アニリン剤の青竹や洋紅に毒された世界近代の画人は此の前に愧死きしするに値する。
美の日本的源泉 (新字新仮名) / 高村光太郎(著)
赤い色としては違わないけれども、以前は猩血のようなのが、今は緋縮緬ひぢりめんのように、臙脂えんじのように、目のさめるほどあざやかな色をしていました。
大菩薩峠:32 弁信の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
山牛蒡やまごぼうの葉と茎とその実との霜に染められた臙脂えんじの色のうつくしさは、去年の秋わたくしの初めて見たものであった。
葛飾土産 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
臙脂えんじ色の千鶴子の姿が尾根の上に全貌を現したときは、来た峰の上に折れまがった長いその影を取り包んで、七色の彩光が氷の面面に放射していた。
旅愁 (新字新仮名) / 横光利一(著)
桃色となり、オレンジとなり、草色となり、紫となり、青となり、赤となり、あるいは半面は緑、半面は臙脂えんじの異様な色彩となり、にじの五色に変化した。
影男 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
電気のれ消えた真ッ暗な部屋の中に、さっき「青蘭」の女達の見たときのままの、派手な臙脂えんじの井桁模様の着物を着て、裾を乱して仰向きにぶっ倒れていた。
銀座幽霊 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
そこへ彼が口説いてみようかと思っている近所の娘さんが臙脂えんじ色のワンピースを着て遊びにやってくる。
軍用鼠 (新字新仮名) / 海野十三(著)
ゆふぐれを背負つて、その坂のうへから自転車に跨つた、臙脂えんじいろのワン・ピイス・ドレスのをんなひとり、身をひるがへすやうにおりてくる。——おりてくる自転車。
(新字旧仮名) / 高祖保(著)
花園には七葉樹の若葉が、眼がさめるよう、紫にからんだパリサイドの藤の蔭には、石楠木が臙脂えんじのように燃えて、牡丹や木蓮が咲き乱れた、コモの春は今が盛りであろう。
スウィス日記 (新字新仮名) / 辻村伊助(著)
胸のおもいは火となって、上手が書いた金銀ぢらしの錦絵にしきえを、炎にかざして見るような、おもてかっと、胡粉ごふんに注いだ臙脂えんじ目許めもとに、くれないの涙を落すを見れば、またこの恋も棄てられず。
草迷宮 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
彼女の臙脂えんじ色の満唇フル・リプスと黒いヴェネツィア笹絹の夜礼服とが、いつかラトヴィヤのホテルで前菜オウドゥブルに食べた、私の大好きな二種の露西亜塩筋子ロシアキャヴィアの附け合せと同じ効果を出していたからだ。
踊る地平線:09 Mrs.7 and Mr.23 (新字新仮名) / 谷譲次(著)
私にはに落ちなかった。窓硝子越しに見える雨は、風があったのだろう、少しく斜に降っていたから。ある式日に、兄は洋服を着て行ったが、私は臙脂えんじ色の女物のはかまをはいて行った。
生い立ちの記 (新字新仮名) / 小山清(著)
オレンジ色に縁どった空色の上着、青い格子縞こうしじまの入った臙脂えんじのスカート、素足に靴をはいた少女が、恐怖に青ざめた顔で、眼を大きく見ひらき、ふるえながら息を殺しているのだった。
秘境の日輪旗 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
泰平たいへいの時代にふさはしい、優美なきらめき烏帽子ゑぼしの下には、しもぶくれの顔がこちらを見てゐる。そのふつくりと肥つた頬に、鮮かな赤みがさしてゐるのは、何も臙脂えんじをぼかしたのではない。
好色 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
はだが淡褐色でかわのようだったあたりに、ほんのりぬられて、あわい臙脂えんじがめざめるのを、今の今まで血のけのなかったくちびるが、いちごいろにもりあがるのを、頬と口のふかいしわが
臙脂えんじの厚い幕の向うのざわめきが遠くなって、照明が幕にまるく当った。一心に彼は荻村をみつめていた。荻村はピアノに向ったまま、右の靴尖で床をたたく。コツ、コツ、コツコツ、コツコツ。
その一年 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
男体の秋それに似ぬ臙脂えんじ虎と云ふものありや無しや知らねど
晶子鑑賞 (新字旧仮名) / 平野万里(著)
その葉陰の所々に、臙脂えんじや藤紫の斑が点綴てんてつされていた。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
臙脂えんじむらさきあかあかと、華奢くわしやのきはみの繪模樣に
海潮音 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
臙脂えんじほどよくさし給へ
枯草 (新字旧仮名) / 野口雨情(著)
黒の上着の下から臙脂えんじ、紅紫の下襲したがさねそでをにわかに出し、それからまた下のあこめの赤いたもとの見えるそれらの人の姿を通り雨が少しぬらした時には
源氏物語:35 若菜(下) (新字新仮名) / 紫式部(著)
臙脂えんじにおぶくろの強いかおりが、新九郎の若い血を嵐のように騒がせた。っとした熱い顔を伏し眼にして、彼はうつつな目を絵具皿に吸わせていた。
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
かく扮装ふんそうして市場に立ち現われると、若い女や年取った男どもが、それを非常に喜んだ。屍体したいと後宮の臙脂えんじとの匂いが、そこから発散していた。
すなわち巻頭の第一番に現われて私を驚かした絵は、死んでから間もないらしい雪白せっぱくの肌で、頬や耳には臙脂えんじの色がなまめかしく浮かんでいる。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
臙脂えんじの入った滝縞のお召に古金襴の丸帯をしめ、大きなガーネットの首飾をしているというでたらめさで、絵を見ているわずかな間に酒の支度が出来
予言 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
ずっと先に、白い毛糸の長靴下、しゃれた白い毛織の短ズボン、白の上衣、臙脂えんじ色のネクタイをつけ、一目して相当な地位の「南方関係」の男がいた。
播州平野 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
いつも紫がかつた着物をきて、明るい臙脂えんじ色の袴をはいた瀬川安子の大柄な姿は、遠くなつたり近くなつたりしながら、絶えず少年の視野の一隅にあつた。
少年 (新字旧仮名) / 神西清(著)
吾にえった彼の眼の前に、両手りょうてにつまんで立った鶴子のしろ胸掛むねかけから、花の臙脂えんじがこぼれそうになって居る。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
そして、少なくともその海水靴の側面は、美しい臙脂えんじ色に違いない——。何故って、ほら、これを御覧
花束の虫 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
初代は見立てのいい柄の、仕立卸したておろしの黒っぽい単衣物ひとえものを着ていた。帯はやっぱり黒地に少し銀糸をぜた織物であった。臙脂えんじ色の鼻緒はなお草履ぞうりも卸したばかりだった。
孤島の鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
部屋に並べてある種子箱で、小豆が臙脂えんじ色のなまめかしい光沢を放っている。
鼠色のオーバーの下から臙脂えんじのドレスの短いスカートをちらと覗かせて、すんなりした脚を組んでいる乙女は、膝の上のハンドバグを明け、開封した一通の鼠色の封筒に入った手紙を出して
千早館の迷路 (新字新仮名) / 海野十三(著)
今戸橋の橋梁の下を通して「隅田川十大橋」中の二つ三つが下流に臙脂えんじ色に霞んで見える。鐘が鳴ったが、その浅草寺の五重塔は、今戸側北岸の桜や家並に隠れて彼女の水上の位置からは見えない。
(新字新仮名) / 岡本かの子(著)
臙脂えんじむらさきあかあかと、華奢かしやのきはみの絵模様に
海潮音 (新字旧仮名) / 上田敏(著)
また、えり元から胸の守りというものを掛けて、それをふところに抱いていた。他には、金釵きんさい銀簪ぎんしんのかざりもないし、濃い臙脂えんじ粉黛ふんたいもこらしていなかった。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
命婦は真赤まっかになっていた。臙脂えんじの我慢のできないようないやな色に出た直衣のうしで、裏も野暮やぼに濃い、思いきり下品なその端々が外から見えているのである。
源氏物語:06 末摘花 (新字新仮名) / 紫式部(著)
彼女は遠くから華やかな臙脂えんじの模様を見ているうち、田舎の家では、夜具の肩当も座蒲団も、何もかも茶と黒ずくめの色彩なのを思い起したのであった。
伸子 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
臙脂えんじを顔に塗っていない音楽にたいしては少しも聴衆がなかった……。そこで彼らはただ自分のために歌っていたが、その落胆した声もついには消えていった。
夢の中の景色けしきは、映画と同じに、全く色彩を伴わぬものであるのに、あのおりの汽車の中の景色けは、それもあの毒々しい押絵の画面が中心になって、紫と臙脂えんじかった色彩で
押絵と旅する男 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
眼のふちが、臙脂えんじをさしたやうに紅く、そのせゐか上眼を使ふと、視線が一瞬エメラルド色の光を放つ。まぶしいので、少年はまともに彼女の顔を見たことはない。盗み見の印象である。
地獄 (新字旧仮名) / 神西清(著)