ぬら)” の例文
そそけがみの頭をあげて、母は幾日か夢に描きつづけた一男の顔を、じっと眺めた。涙が一滴ひとしずく、やつれた頬をつたって、枕のきれぬらした。
秋空晴れて (新字新仮名) / 吉田甲子太郎(著)
それでいてあがるものはというと、牛乳ミルクを少しと、鶏卵ばかり。熱が酷うござんすから舌が乾くッて、とおし、水でぬらしているんですよ。
誓之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
岩魚釣りの架けた丸木橋が要所要所にあったので足をぬらすにも及ばなかったが、徒渉としょうするにしても膝より上を越す気遣いのない所許りだ。
奥秩父の山旅日記 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
ヘレン・バーンズはこゝにゐなかつたし、何も私を支へてくれるものはなかつた。たつた一人になつて、私は落膽がつかりしたのだ。涙は床板ゆかいたぬらした。
幾度となく河床を変え、三日月なりの水溜みずたまりを置き去りにした。それでも水は多すぎたし、勾配こうばいは緩やかすぎた。岸からはみだして附近の土地をぬらした。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
その縁結びは、いつも鼠啼きをして、ちょいと口でぬらしてする習慣になっているらしく、私はその桜紙に口紅の烈しい匂いをよく嗅ぎ分けることができた。
性に眼覚める頃 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
今時狐などに化されてたまるものかと力みながらも、一般の風習に従って慌てて眉毛を唾でぬらさぬ者はなかった。
ゼーロン (新字新仮名) / 牧野信一(著)
その手紙は、ぞんざいに切った黄色い紙片に、字の上をこすったりぬらしたりすると紫インクで書いたように色が浮きでて消えない化学鉛筆で書いてあった。
道標 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
水勢はげしく、ついに地下室を破壊して、汚水おすい花壜録音器かびんろくおんきぬらしたるため、機能停止したるものと思われる。
諜報中継局 (新字新仮名) / 海野十三(著)
それにヂリヂリと上から照り附けられるとまの中も暑かつた。盲目めくらの婆さんは、襦袢じゆばん一つになつて、ぬらしてしぼつて貰つた手拭を、しわの深い胸の処に当てゝ居た。
(新字旧仮名) / 田山花袋(著)
月は、もう可なり高くのぼっていた。水のように澄んだ光は、山や水や森や樹木を、しっとりぬらしていた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
また泣入なきいって倒れてしまう様に愁傷しゅうしょう致すのも養生に害があると申しますが、入湯にゅうとう致しましても鳩尾みぞおちまで這入って肩はぬらしてならぬ、物を喰ってから入湯してはならぬ
敵討札所の霊験 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
そのお二人がおぬらしになつた靴足袋くつたびを乾かしてお返しする時におつやさんのなすつた丁寧な挨拶を書斎に居て聞きながら、私はやまひの本家が自分になつたと思つて苦笑しました。
遺書 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
涼しい雨がやって来て離座敷はなれの縁先をぬらすような日もあった。雨はよく深いひさしの下まで降り込んだ。母屋おもやへ通う廊下のところなぞは上草履うわぞうりでも穿かなければ歩かれなかった。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
あぶつて見たり、水にぬらして見たり、藥を塗つて見たり、いろ/\工夫をしたんだらう。
日がるに従って、信者になる老若男女ろうにゃくなんにょも、追々数を増して参りましたが、そのまた信者になりますには、何でも水でかしらぬらすと云う、灌頂かんちょうめいた式があって、それを一度すまさない中は
邪宗門 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
その人々の中に長吉は偶然にも若い一人の芸者が、口には桃色のハンケチをくわえて、一重羽織ひとえばおり袖口そでぐちぬらすまいためか、真白まっしろな手先をば腕までも見せるように長くさしのばしているのを認めた。
すみだ川 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
彼女の夫は煎茶せんちゃを売りにゆくに河を渡って、あやまって売ものをぬらしてしまうと、山の中にはいって終日、茶をしながら書籍を読みふけっていて、やくにたたなくなった茶がらを背負って
明治美人伝 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
かしつかはしたるが着替きかゆる時に一寸ちよつと見し懷中ふところの金は七八百兩と白眼にらんだ大膳が眼力がんりきはよもたがふまじ明朝みやうてうまで休息きうそくさせ明日は道案内みちあんないに途中まで連出つれだしてわかぎはに只一刀だいまいの金は手をぬらさずと語る聲を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
さきにすゝむ大鮏、もし物にさはりてよこたふるゝ時は、あとにしたがひたる鮏もおなじくたふれてふたゝびおきず、人のとらふるをまつがごとし。はからずして手もぬらさず二三とうのさけをうる事あり。
ぬらしこし妹が袖干そでひの井の水の涌出わきいづるばかりうれしかりける
曙覧の歌 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
鏡台の前に坐らせて、うがい茶碗でぬらした手を、男の顔へこう懸けながら、背後うしろへ廻った、とまあ思わっせえ。
註文帳 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
の人々の中に長吉ちやうきち偶然ぐうぜんにも若い一人の芸者が、口には桃色のハンケチをくはへて、一重羽織ひとへばおり袖口そでぐちぬらすまいめか、真白まつしろ手先てさきをば腕までも見せるやうに長くさしのばしてゐるのを認めた。
すみだ川 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
街全体をぬらしてゐる。
晶子詩篇全集 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
引窓から朝霧の立ちむ中に、しとしとと落ちて、一面に朽ちた板敷をぬらしているのは潮の名残なごり
葛飾砂子 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
そしてその文字は楷書であるが何となく大田南畝おおたなんぽの筆らしく思われたので、かたわらの溜り水にハンケチをぬらし、石の面に選挙候補者の広告や何かの幾枚となく貼ってあるのを洗い落して見ると、案のじょう
葛飾土産 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
「……諏訪すわ——の海——水底みなそこ、照らす、小玉石——手には取れども袖はぬらさじ……おーもーしーろーお神楽かぐららしいんでございますの。お、も、しーろし、かしらも、白し、富士の山、ふもとの霞——峰の白雪。」
貝の穴に河童の居る事 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
あふるるばかりのなさけあらわれ、屠犬児は袖をぬらして
貧民倶楽部 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)