困憊こんぱい)” の例文
日中は軽やかに声を立てる者も無い。何所を見ても、擾乱ぜうらん困憊こんぱいしてゐて、その中に、一脈の静寂の気も漂つて居るのが感じられる。
秋の第一日 (新字旧仮名) / 窪田空穂(著)
越前屋の支配人吉三郎は、長途の旅に困憊こんぱいし尽した姿ながら、ほこりだらけの顔にも豊かな微笑を浮べて、皆んなの前に近づくのでした。
翌日壮助は自分の机にもたれながら、困憊こんぱいのうちにうとうとと眠るともなく夢幻の境を辿っている時、突然川部の来訪に驚かされた。
生あらば (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
彼の顔に疲労と、悪天候と、肉体の困憊こんぱいと、ほとんど一昼夜も続いた自分自身との闘争のために、ほとんど醜いくらいになっていた。
自分の困憊こんぱいの状察すべしである。あたかも此時、洋燈ランプ片手に花郷が戸を明けた。彼は極めて怪訝くわいがに堪へぬといつた様な顔をして、盛岡弁で
葬列 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
人々は疲労困憊こんぱいその極に達してしまって、今そこを歩いていたかと思うとただちにバッタリとたおれてその貴い生命を落すと云う事は
現代語訳 方丈記 (新字新仮名) / 鴨長明(著)
一時ひとときあいだ、ここにこうしているのか、それとも一年も前から同じように寝ているのか、彼の困憊こんぱいした心には、それさえ時々はわからない。
偸盗 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
しかし、もしそれにしても、なおこのうえ海港の罷市が持続するなら、このときを頂点として困憊こんぱいするものは支那商人に変っていくのだ。
上海 (新字新仮名) / 横光利一(著)
静子の心は千々に乱れたが、昼よりの疲れに、今は身心ともに困憊こんぱいして、そのまゝ子供の枕許へウト/\と寝崩れてしまった。
支倉事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
自分が困憊こんぱいしてるのを見て彼らは、卑しい怨恨えんこんを含んでるのではないことを証明したがってるのだと、彼は想像した。そしてそれに感動した。
まず汝らの軽兵をさし向けておいて、後、彼の疲労困憊こんぱいを見すましてからいちどに大軍をおしすすめてつ。予も、やがて漢中へ行くであろう
三国志:11 五丈原の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
全然、犯人の嘲笑癖が生んだ産物にすぎないのだ。つまり、この三つのものには、僕等の困憊こんぱい状態が諷刺されているのだよ
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
先祖以来茨城の結城郡ゆうきぐんに居を移した地方の豪族として、多数の小作人を使用する長塚君は、彼等の獣類に近き、恐るべく困憊こんぱいきわめた生活状態を
この困憊こんぱいした体を海ぎわまで持って行って、どうしたはずみでフラフラと死ぬ気にならないものでもないと思うと、きゅうに怖しくなって足がすくんだ。
世間師 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
搾れるだけ搾り取つた最後の殘骸ざんがいから、命がけの力で噛み取ることだけが許されてゐた。だから彼等は搾取するそのことだけに疲勞困憊こんぱいしてゐた。
天国の記録 (旧字旧仮名) / 下村千秋(著)
この重苦しい困憊こんぱいしきつた退屈が、彼の心の奥底に巣喰うて居る以上、その心の持主の目が見るところの世界万物は、何時でも、一切、何処までも
咄嗟とっさに考えた範之丞、これも白鉢巻に白襷、袴の股立ちとり上げた姿、甲斐甲斐しくはあったが疲労と困憊こんぱいとに、クタクタになっている姿を踊らせ
血煙天明陣 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
その初めの日は帰途かえり驟雨しゅううに会い、あとの一日は朝から雨が横さまに降った。かれは授業時間のあいだ々を宿直室に休息せねばならぬほど困憊こんぱいしていた。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
無為な困憊こんぱいのなかにいた時、まるで昨日のことででもあったように、それではひとつ調べて参りましょうと云った高倉利吉を、うん、そうだな——と
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
だが、御安心下さいませ、この疲れは困憊こんぱいの疲れというわけではございません、安息の疲れなのでございます。
大菩薩峠:32 弁信の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
悲境を打開する方法を勤勉に求めずに賭博に求めるような困憊こんぱいした性格においては、渇望するものを手に入れる方法として容易に殺人を思いつくであろう。
黒い手帳 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
困憊こんぱいの彼はこの病床にい上り、少しく安堵あんどを覚えたのではあるまいか。もとよりこれは、私の俗な独断である。
惜別 (新字新仮名) / 太宰治(著)
私の全身は蒼ざめ此処で最早あなたに跨っていられないくらい、困憊こんぱいしきってふらふらになっているのだ。
人が飢えて疲労困憊こんぱいしている時は、これに食物を与えることが神の御心であり、神本位ということである。
しかし、今夜、脚をいため、疲労困憊こんぱいして里へ下っても、それが自分の故郷というわけでもないし、また明日の道中だってどんなことがあるかわからないのだ。
困憊こんぱいした女記者を尻目にかけて、彼女は一枚の名刺を手渡すと、既に通りかかった車にのると、疲労したからだをクッションに埋めて都会の大桟橋を右に折れた。
女百貨店 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
舞台に立って、児島高徳こじまたかのりに投げられた雑兵ぞうひょうが、再び起上って打向ってくるはずなのが、投げられたなりになってしまったほど、彼らは疲労困憊こんぱいの極に達していた。
マダム貞奴 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
汽船に着くや否や、我々は疲労困憊こんぱいの極、寝台にもぐり込んだ。翌日も降雨。正午肥後の岸に着き、海岸から五マイル離れた場所に投錨した。それ程遠浅なのである。
甲斐は太息といきをついた。甲斐は自分がいかにも弱く、無力で、しかも困憊こんぱいしきっているのを感じた。
ジャン・ヴァルジャンは困憊こんぱいして家に帰ってきた。そういう遭遇は彼にとっては大きな打撃であり、そのために心に残された思い出は、彼の全身を震盪しんとうするかと思われた。
私の暮れの仕事は、かうしてはじめから蹉跌さてつして了つた。私は、甚しく疲労困憊こんぱいしてゐるにも拘らず、最も不健康な消費面に沈溺して、その間中、へて他事を顧なかつた。
大凶の籤 (新字旧仮名) / 武田麟太郎(著)
ところへ、五年目に起った大不作は彼等一族を、まったく困憊こんぱいの極まで追いつめてしまった。
禰宜様宮田 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
英国巡洋艦の攻撃を受けて以来八時間……飲まず食わず、一刻の休みもなく働きづくめだった一同の上に、ようやく極度の疲労と困憊こんぱいの色とは影濃く迫りきたったのであった。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
夜中頃、困憊こんぱいしてうとうとしかけた慧鶴の耳に火口から東海面へ二度ほど何やら弾ねる音がして、夜目にも火口の火気は急に衰えた。暁方に見ると煙はすっかり止まっていた。
宝永噴火 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
つかみどころなき焦心、私の今朝の胃のふが、菜っぱ漬けだけのように、私の頭もスカスカとさみしい風が吹いている。極度の疲労困憊こんぱいは、さながら生きているミイラのようだ。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
肉体的の困憊こんぱいのため病的になった想像力が彼の周囲にあらわした怪奇な幻像——それを彼は現実であると信じたのだ——によって孤独感をまぬがれた、という話を聞いたことがある。
弟子達の困憊こんぱい恐惶きょうこうとの間に在って孔子は独り気力少しもおとろえず、平生通り絃歌してまない。従者等の疲憊ひはいを見るに見かねた子路が、いささか色をして、絃歌する孔子のそばに行った。
弟子 (新字新仮名) / 中島敦(著)
その日頃の困憊こんぱいした気持が顔に出ていることは、自分でもよくわかっていた。
早春 (新字新仮名) / 小山清(著)
からりと悪夢からさめたような感じでもあったが、頭脳のそこにこびり着いたかすは容易に取れなかった。そして机の前に坐っていると、不眠つづきの躯のひどく困憊こんぱいしていることも解った。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
お手前らの困憊こんぱいがお耳に達し、なんとかして公儀の手をもって真のこけざるを発見してやりたいものじゃと、わしにお言葉が下がったので、届かぬながらもこの愚楽が、大岡越前守殿と相談のうえ
丹下左膳:03 日光の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
しかるに少しばかりの幸福がくだってきた今、精神的冒険をやめて、いくらか端正な生活へ、普通人的な関係へ踏み入り、職務と栄誉をにない、妻子を獲た今に及んで、自分はもう困憊こんぱいして已むのだ。
然るに群馬栃木の中に、この新奇なる古河市兵衛の輩が跋扈ばつこして、新たに居留地をこしらへ、法律あれども法律を行ふことが出来ない。人民如何に困憊こんぱいに陥るとも、農商務大臣の目には少しも見えない。
政治の破産者・田中正造 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
そうして彼は疲労と困憊こんぱいとの二様にいじめまくられるのであった。
あめんちあ (新字新仮名) / 富ノ沢麟太郎(著)
会計ノ吏申稟しんひんシテいわク。およソ遠国ニ赴任スル者日ニ行クコト十里ニシテソノ地ニ到レバ則三十日以内ニヲ賜フノ例ナリ。コノ行ヤ生路ニシテカツ連雨泥濘ヲ以テ従者困憊こんぱいシ程限ヲ破ルコト二日ナリ。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
かかるをさまり難き困憊こんぱいはとりとめもなくうちなげく。
東京景物詩及其他 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
越前屋の支配人吉三郎は、長途の旅に困憊こんぱいし盡した姿乍ら、ほこりだらけの顏にも豊かな微笑を浮べて、皆んなの前に近づくのでした。
「なに、討ち損じたと……あの赤壁から潰走した敗残困憊こんぱいの兵でありながら、なお羽将軍の強馬精兵をも近づけぬほど、曹操はよく戦ったと申さるるか」
三国志:08 望蜀の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しかしその拘束は彼をひどく困憊こんぱいさした。そのあとで自分自己をまた見出すとたいへんうれしかった。というのは、彼は自分自身を見失ったからである。
懊惱あうなう困憊こんぱいうちかたむいた。障子しやうじうつときかげ次第しだいとほくへ退くにつれて、てら空氣くうきゆかしたからした。かぜあさからえだかなかつた。
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
先輩の弥次郎兵衛、喜多八は、京都で梯子はしごを一梃売りつけられたのでさえも、あの通り困憊こんぱいしきっている。
大菩薩峠:30 畜生谷の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)