茫然ぼうぜん)” の例文
私は雪籠ゆきごもりのゆるしを受けようとして、たどたどと近づきましたが、扉のしまった中の様子を、硝子窓越がらすまどごしに、ふと見て茫然ぼうぜんと立ちました。
雪霊続記 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
その朝皇帝万歳を叫んだすべての口は、今はただ茫然ぼうぜんとうち開いてるのみだった。彼らはほとんど皇帝をも見知らないがようだった。
彼の旗さし物には、まだ何のしるしもなかった。無地の赤旗が、幾旒いくりゅうか兵馬のあいだに立って、犬千代の茫然ぼうぜんたる眼の前を流れて行った。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
那美さんは茫然ぼうぜんとして、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「あわれ」が一面に浮いている。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
壺を小腋こわきに道場を出て、ブラブラ帰るみちすがら、あの茫然ぼうぜんと見送っていた萩乃の立ち姿は、左膳のまぶたのうらから消えなかった。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
こう口に出して念ずるばかり、茫然ぼうぜんたたずんだ彼女の肩をハタと叩いたものがある。振り返って見れば思いもよらぬ紋十郎が立っている。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
「ああ、これが、ほんとうの芸術家げいじゅつかというものなのか。」と、いままでの、自分じぶんおろかさをじながら、茫然ぼうぜんつめていました。
しいたげられた天才 (新字新仮名) / 小川未明(著)
僕は茫然ぼうぜんと女史の、あられもない屍体したいの前に立ちつくした。僕はいまだにその妖艶ようえんとも怪奇とも形容に絶する光景を忘れたことがない。
階段 (新字新仮名) / 海野十三(著)
彼らはまったく茫然ぼうぜんとして街路を見ており、一方弁護士のほうは、それに適切な助言を与えるため、机にすがって書類を研究したのだ。
審判 (新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
しかし無論これは、第一階級に属するものどもの催しであって、第二の階級のものはただ茫然ぼうぜんとそれを眺めているといった風であった。
次の日奥の一室ひとまにて幸衛門腕こまぬき、茫然ぼうぜんと考えているところへお絹在所より帰り、ただいまと店にはいればお常はまじめな顔で
置土産 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
茫然ぼうぜんとした虚脱きょだつの状態ですわっていたかと思うと、突然飛上り、傷ついた獣のごとくうめきながら暗く暖かい室の中を歩きまわる。
李陵 (新字新仮名) / 中島敦(著)
こういう瞬間に、君は我れにもなく手を休めて、茫然ぼうぜんと夢でも見るように、君の見ておいた山の景色を思い出している事がある。
生まれいずる悩み (新字新仮名) / 有島武郎(著)
これまで例の湖水のそばで、ひっそりした生活をして来たので、この慣れない賑いに出逢であって、ほとんど茫然ぼうぜんとするようであった。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
あまりに意外だったので、茫然ぼうぜんとしてしまって、管弦楽に調子を合わせることさえ忘れかけた。協奏曲コンセルトの終りまで機械的にひきつづけた。
唯円 (あとを見送り茫然ぼうぜんとする。ため息をつく)私はどうすればいいのだろう。恋はこのようにつらいものとは思わなかった。
出家とその弟子 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
僅かばかり北の方についていた留守居の者たちも、今は何をする気力もなく、唯、これからの不安に茫然ぼうぜんとするばかりである。
汝が名誉を恢復かいふくするもこの時にあるべきぞ。心のみ急がれて用事をのみいいやるとなり。読みおわりて茫然ぼうぜんたる面もちを見て、エリスいう。
舞姫 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
この暗合の不思議さはしばらくのあいだ僕をまったく茫然ぼうぜんとさせたよ。これはこういうような暗合から起る普通の結果なんだ。
黄金虫 (新字新仮名) / エドガー・アラン・ポー(著)
種彦は書きかけた『田舎源氏』続篇の草稿の上に片肱かたひじをついたまま唯茫然ぼうぜんとして天井を仰ぐばかりである。物優しい跫音あしおと梯子段はしごだんに聞えた。
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
まるきり颱風たいふうが一過したに外ならなかった。散乱している餉台ちゃぶだいの上を眺め、彦太郎はしばらく茫然ぼうぜんとして、なんのことやらわからなかった。
糞尿譚 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
そうして私はその野薔薇の前に、ただ茫然ぼうぜんとして、何を考えていたのか後で思い出そうとしても思い出せないようなことばかり考えていた。
美しい村 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
所謂いわゆる「フルーツ・カクテル」なるものと、四つのコップを前にして、茫然ぼうぜんと広場の景気を眺めていなければなりませんでした。
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
おもいがけない出来事できごとに、茫然ぼうぜんとしていた小僧こぞう市松いちまつが、ぺこりとげたあたまうえで、若旦那わかだんなこえはきりぎりすのようにふるえた。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
都もひな押並おしなべて黒きをる斯大なるかなしみの夜に、余等は茫然ぼうぜんと東の方を眺めて立った。生温なまあたたかい夜風がそよぐ。稲のがする。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
近藤夫人の死! 夫は他の何人の死より、現在の譲吉に取っては、痛い打撃であった。譲吉は赤い紙片を凝視したまま、一時茫然ぼうぜんとして居た。
大島が出来る話 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
その考えにふければふけるほど、しぜん仕事が留守になってしまって、あけた障子のそとのあかりを茫然ぼうぜんと上目をしながらながめるのであった。
香爐を盗む (新字新仮名) / 室生犀星(著)
ただ茫然ぼうぜんとして私は、眼前がんぜんの不思議に雨に濡れて突立つったっていた。花の吉野の落花の雨の代りに、大和路で金銀の色の夕立雨ゆうだちあめにぬれたのであった。
菜の花物語 (新字新仮名) / 児玉花外(著)
自己おのれの罪跡を見つけられたと思って、身が地にすくむような気がした。はげしい飢餓をも忘れて、茫然ぼうぜんとして立っていた。
ネギ一束 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
周囲には、大風の吹き去ったあとの街道に立って茫然ぼうぜんとながめたたずむものがある。互いに見舞いを言い合うものがある。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
四十を越した「初ちゃん」の顔は或は芝の実家の二階に茫然ぼうぜんと煙草をふかしていた僕の母の顔に似ているかも知れない。
点鬼簿 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
このころ僕は、街頭で、これらのうらぶれた廃人が、飢えと寒さにこごえて茫然ぼうぜんと虚空をみつめている姿をよく見かける。
二十歳のエチュード (新字新仮名) / 原口統三(著)
彼は、それでも、まだ、茫然ぼうぜんとして列車のあとを見おくっていた。帽子と手拭とをにぎっていた彼の両手は、もう、だらりと柵の上にたれていた。
次郎物語:04 第四部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
私は自分を囲む古代の像に茫然ぼうぜんとしているのみだった。ふいに老僧は、「汝の敵もまた汝の恩人であると申しましてな」
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
そうして遠いロシアの新映画の先頭に立つ豪傑の慧眼けいがんによって掘り出され利用されて行くのを指をくわえて茫然ぼうぜんとしていなければならないのである。
映画雑感(Ⅰ) (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
街道に出ると、彼は木柵をたてにして、グラウンドの灰色の景色をながめた。その時にはもう深谷の姿は見えなかった。彼は茫然ぼうぜんとして立ちつくした。
死屍を食う男 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
先生はじめ有り合う人々興をさまし、口を閉じ互いに顔を見合わせ、なににたとえんかたもなく茫然ぼうぜんたるありさまなり。
迷信と宗教 (新字新仮名) / 井上円了(著)
昨夜大将のお使いで小君こぎみがおいでになりましたか。お家のことなどくわしいお話を伺って茫然ぼうぜんとなり、恐縮しておりますと姫君に申し上げてください。
源氏物語:56 夢の浮橋 (新字新仮名) / 紫式部(著)
誰か二三人とびだして行ったらしかったが、それさえ気にならぬほど茫然ぼうぜんとしてしまったのだ。彼らはそれを取り囲んだまま表情もなく見おろしていた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
暫らくは唯茫然ぼうぜんとしてつまらぬ者でいたが、イヤイヤこれではならぬと心を取直して、その日より事務に取懸とりかくる。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
茫然ぼうぜんとして、姫はすわって居る。人声も、雨音も、荒れ模様に加って来た風の響きも、もう、姫は聞かなかった。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
この時、向うの室の床柱を背負って、さっきから少しも動かずに茫然ぼうぜんと事のなりゆきを見ていた小兵こひょうにして精悍せいかん、しかも左の眼のつぶれた男があったが
こまぬきて茫然ぼうぜんたる夫の顔をさしのぞきて、吐息つくづくお浪は歎じ、親方様は怒らする仕事はつまり手に入らず
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
その趣味、その感情、その嗜欲、その思想の相異なる、自他相見て茫然ぼうぜんたることあらん。知るべし職業の性質はただちにその人の性質に関係を及ぼすことを。
将来の日本:04 将来の日本 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
ただ一人身をもだえているのかと思うと、何をどう考えていいのだか、物思う力も尽きはて、ただ茫然ぼうぜんと、狂気の一歩手前に踏みとどまっているばかりであった。
暗黒星 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
吟味、捕物の御前試合ごぜんじあいなどはまさに前代未聞ぜんだいみもん。さすがに、両奉行もあっけにとられて、茫然ぼうぜんたるばかり。
顎十郎捕物帳:09 丹頂の鶴 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
僕は茫然ぼうぜんと立ちすくんだ。危く白熱光を消さないままで、黒眼鏡をはづしかけたほどである。がその時、病院の中庭で、けたたましい銃声が立てつづけに響いた。
わが心の女 (新字旧仮名) / 神西清(著)
彼は汽車で広島へ通勤していたのだが、あの時は微傷だに受けず、その後も元気で活躍しているという通知があった矢さき、この死亡通知は、私を茫然ぼうぜんとさせた。
廃墟から (新字新仮名) / 原民喜(著)
その後また同じ山中に枕木まくらぎ伐出きりだしのために小屋をかけたる者ありしが、夕方になると人夫の者いずれへか迷い行き、帰りてのち茫然ぼうぜんとしてあることしばしばなり。
遠野物語 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
その音もなく形もないすさまじい戦いを極度に澄明な、静寂な、胸に充満しながらどこまでもひろがってゆくような感慨をもって凝然と、また茫然ぼうぜんと眺めつくしている。
母の死 (新字新仮名) / 中勘助(著)