悄然しょうぜん)” の例文
軽くねじあげてふたりをなわにしたところへ、歯ぎしりかみながら悄然しょうぜんと現われた顔がうしろに見えました。あば敬とその一党です。
右門捕物帖:30 闇男 (新字新仮名) / 佐々木味津三(著)
遠くで稲妻いなずまのする空の下を、修理の屋敷へ帰りながら、宇左衛門は悄然しょうぜんと腕を組んで、こんな事を何度となく胸の中で繰り返えした。
忠義 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
植込みを隔てて、そのくろぐろした小さい影のある姿が、まだ光を出さぬ電燈の下に、すそすぼがりの悄然しょうぜんとした陰影を曳いていた。
後の日の童子 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
「だから僕は引越し車を引いてやって来たんだ」と野呂は悄然しょうぜんと頭を垂れました。「一体僕はどうなるんだろう。だまされたのかしら」
ボロ家の春秋 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
田舎の女学校では、ピタゴラスの定理をならい、椿姫つばきひめの歌をうたい、弓張月を読んだむすめが、いまはこんな姿で、悄然しょうぜんと生きている。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
かねて東京に着く日取もわざと知らせなかった留守宅の人達が、そんな時に岸本の独りで悄然しょうぜんと帰って来たことを知ろう筈もなかった。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
悄然しょうぜんとして項垂うなだれていた小野さんは、この時居ずまいをただした。顔を上げて宗近君を真向まむきに見る。ひとみは例になく確乎しっかと坐っていた。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
その人にえると思った場所では、逢えないで、悄然しょうぜんと帰って来る電車の中で、ヒョックリ乗り合わす。何と云う不思議な偶然だろう。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
わが声に、思わず四辺あたりる。降らぬ雨にからかさを開き、身を恥じてかくすがごとくにして、悄然しょうぜんと、画家と同じ道、おなじ樹立に姿を消す。
山吹 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
村から選抜されて吉良邸に仕えていた百姓の娘や青年たちが悄然しょうぜんとして帰ってくるにつれて村の空気は次第に険悪になってきた。
本所松坂町 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
婦女子のこびを売るものにいて見るも、また団結を以て安全となすものと、孤影悄然しょうぜんとして猶且つ悲しまざるが如きものもある。
濹東綺譚 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
帰って家近くなると、天狗犬はデカを恐れて、最早もういて来なかった。ピンの主人を見送って、悄然しょうぜんくぬぎの下のこみちに立て居った。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
然し、あなたが初め仰有おっしゃったように、全部駄目でした。私は悄然しょうぜんとして家に帰りました。あなたはどこにお出になったのか、お留守でした。
罠に掛った人 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
大勢の同僚の影が、たちまち、お松の死骸を囲んで、真っ黒な輪の中におおい隠してしまうと、旗岡巡査は、悄然しょうぜんとその部屋から出て行った。
旗岡巡査 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と熊のつむりを撫でて暫く有難涙ありがたなみだにくれて居りますると、熊も聞分けてか、悄然しょうぜんしおれ返って居りまする。お町は涙を払いながら
後の業平文治 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
私がN署の刑事部屋に這入ると、そこには頭髪を切った無表情な少女のかたわらに、悄然しょうぜんと老衰した彼女の父が坐っていた。
大阪万華鏡 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
下役人も今更ながら、わが身のおろかさに気づいたが、灰となった紅葉の前で悄然しょうぜんとうなだれていた。そこへ主上がお出でになったのである。
しかるにかかわらずいずれもたちまち一場の夢と化しおわって無念にも悄然しょうぜんたらざるを得ないのはなんとしたことであろう。
御前へ出た八郎兵衛は、宗利の表情がかつて見たことのない、烈しい忿いかりにふるえているのを認めた、彼は悄然しょうぜんと頭を垂れた。
松風の門 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
その時はひとり悄然しょうぜんとして離れて、その炎の燃えて、燃えて、燃え尽きる時を待つの態度に出づるほかはありませんでした。
大菩薩峠:26 めいろの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
今しもそこに悄然しょうぜんと涙を呑んで黙祷もくとうしていたらしい一団は私がとびらをはいると同時に涙の筋をひいた顔を挙げて目礼したが
ナリン殿下への回想 (新字新仮名) / 橘外男(著)
以前の論客司馬遷は、一切口を開かずなった。笑うことも怒ることもない。しかし、けっして悄然しょうぜんたる姿ではなかった。
李陵 (新字新仮名) / 中島敦(著)
博士のことばは悲壮ひそうであった。ところが、たのみに思う山形警部の機械人間は、悄然しょうぜんとして、エレベーターからふたたび姿をあらわしたのである。
超人間X号 (新字新仮名) / 海野十三(著)
悄然しょうぜんとして数馬も首垂うなだれる。殺されたのに疑いなさそうである。生血が未だ乾かないのを見ると殺人の兇行の行われたのはほんの最近いましがたに相違ない。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
悄然しょうぜんとして八丁堀から帰って来ると、これも真剣に心配しているには相違ありませんが、物に遠慮のないガラッ八が
悄然しょうぜんとして呟く紺背広こんせびろの技師の一歩前で、これはまた溌剌はつらつとした栖方の坂路を降りていく鰐足わにあしが、ゆるんだ小田原提灯おだわらぢょうちんの巻ゲートル姿でうかんで来る。
微笑 (新字新仮名) / 横光利一(著)
今日は私を訪ねるという約束が一日二日延びても無理はないと、また思い直して、悄然しょうぜんとして宿の方に戻ってきた。
狂乱 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
吉報を待ってチビリチビリやっていた仁三郎は、門口から悄然しょうぜんと何か提げて這入って来た水野を見てビックリした。
近世快人伝 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
斎王の美に御心みこころを打たれながら、別れの御櫛みぐしを髪にしてお与えになる時、みかどは悲しみに堪えがたくおなりになったふうで悄然しょうぜんとしておしまいになった。
源氏物語:10 榊 (新字新仮名) / 紫式部(著)
『天然の美』のジンタに送られて、少年は悄然しょうぜんとして父に手を引かれて、劇場のそとへ出た。陶酔のあとに、なにか肌ざむい秋の雨が降りしきつてゐた。
少年 (新字旧仮名) / 神西清(著)
四人は牢固ろうこたる決意にもかかわらず、一同の悄然しょうぜんとした顔を見ると、さすがに、心のうちしおるるのをおぼえた。だが、しいてさあらぬさまをつくった。
少年連盟 (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
彼らはさながら嵐の後に、ただ二人荒涼たる岸へ打上げられた人のように、わびしげに悄然しょうぜんと並んで腰かけていた。彼はソーニャをじっとみつめていた。
庄造の言葉が終ると狸は悄然しょうぜんとして出て往った。其の夜、庄造は親切な村人達にとられて息を引きとった。それは安永あんえい七年六月二十五日のことであった。
狸と俳人 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
神々の黄昏たそがれが来て、ただ無信仰の眼に好奇的にさらされるであろう悄然しょうぜんたる古寺の姿を僕は想像するのである。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
三十分ほどたつと、彼は手ぶらで、悄然しょうぜんと反対の方から丘を登り、それから、兵営へ丘を下って帰って来た。
渦巻ける烏の群 (新字新仮名) / 黒島伝治(著)
善吉はしばらく待ッていたが、吉里が急に出て来る様子もないから、われ一人悄然しょうぜんとして顔を洗いに行ッた。
今戸心中 (新字新仮名) / 広津柳浪(著)
今も今母親の写真を見て文三は日頃喰付たべつけの感情をおこし覚えずも悄然しょうぜんと萎れ返ッたが、又悪々にくにくしい叔母の者面しゃっつらを憶出して又熱気やっきとなり、こぶしを握り歯を喰切くいしば
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
その時刻が一度過ぎ去ると、また悄然しょうぜんとしてしまった。もう仕事もしなければ、散歩もしなかった。生存の唯一の目的は、次の郵便配達夫を待つことであった。
その言葉に、黙り込んで悄然しょうぜんとしていたジャン・ヴァルジャンは、あっけにとられた様子で頭をあげた。
やがて、一面が幕のようになり、咽喉のどの奥までじいんと知覚が失せてくる。みると、橇犬どもは悄然しょうぜんと身をすくめ、寒さに嗅覚がにぶったのか、進もうとはしない。
人外魔境:08 遊魂境 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
悄然しょうぜんと、こちらへ歩いてくる。すると、これにならって、他の人々も銃を棄て、みなそのあとに続いた。
怪奇人造島 (新字新仮名) / 寺島柾史(著)
二人が少しも隔意なき得心上の相談であったのだけれど、僕の方から言い出したばかりに、民子は妙にふさぎ込んで、まるで元気がなくなり、悄然しょうぜんとしているのである。
野菊の墓 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
「この鶴も、病んではかない運命の岸を辿たどるか。」こんな感傷に葉子は引き入れられて悄然しょうぜんとした。
鶴は病みき (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
悄然しょうぜんとして庭の片隅にたゝずみながらこっそり吟誦していることもあり、人を遠ざけて独りで酒杯を挙げながら、感極まった声を放って泣いてうたっていることもあったが
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
悄然しょうぜんとゆるんだ歩を、そこから折れて瓦町のとある露地へ運び入れた……市のにぎわいをうしろに。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
正一は、まだ誰か、その辺に残って居りはせぬかと、彼方、此方見廻しているうちに、誰か一人、十五六歩も隔って、白い靄の中に悄然しょうぜんとしてたたずんでいるものがあった。
過ぎた春の記憶 (新字新仮名) / 小川未明(著)
朝日の照り返しに目がチラチラとしみるような石だたみの道を、裕佐はおのずと滅入めいり込んで行く胸の暗さを抱いて悄然しょうぜんと自分の家の方へ歩いていた。おれは芸術家だ。
阿園は言うべき語を知らず手拭てぬぐいを顔にあて俯向うつむいてただよよと泣くのみ、勇蔵もうちしおれて悄然しょうぜんとして面を伏したり、身を投げてよりすがる阿園がほおより落つる熱き涙は
空家 (新字新仮名) / 宮崎湖処子(著)
黙って一語を発せぬ胸の内には言うに言われぬくるしみがあるらしい。男も悄然しょうぜんとして居る。人知れず力を入れて手を握った。直に艀舟はしけに乗った。女は身動きもせず立って居た。
句合の月 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
この知識と、この愛と、この腕とで、ただそれだけで生命を救わねばならぬのである。私は悄然しょうぜんと階段を登り、再び玄関前の広場に突っ立って、全般の指揮をとることにした。
長崎の鐘 (新字新仮名) / 永井隆(著)