あと)” の例文
葡萄圃の間を過ぎ、古の混堂ゆやあとを圍みたる白き石垣に沿ひて、ひたすら進みゆく程に羅馬の府の外に出でぬ。日はいと烈しかりき。
白根しらね入りをした宇津木兵馬は例の奈良田の湯本まで来て、そこへ泊ってその翌日、奈良王の宮のあとと言われる辻で物凄い物を見ました。
大菩薩峠:10 市中騒動の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
七六 長者屋敷は昔時長者の住みたりしあとなりとて、そのあたりにも糠森ぬかもりといふ山あり。長者の家の糠を捨てたるがなれるなりといふ。
遠野物語 (新字旧仮名) / 柳田国男(著)
私は写真の上で、遠い希臘ギリシャ羅馬ローマの神殿のあとにそそり立つ円柱をみたことがあるが、ああいう石造の感じはどんなものであろうか。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
寧楽朝ならちょうの世の盛りをしのばせる元林院あととか、光明皇后が浴舎を建てて千人のあかを去りたもうた悲田院施薬院せやくいんあとなどもあるが、それも今は
宮本武蔵:03 水の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
雨降りの中では草鞋わらじか靴ででもないと上下じょうげむずかしかろう——其処そこ通抜とおりぬけて、北上川きたかみがわ衣河ころもがわ、名にしおう、高館たかだちあとを望む
七宝の柱 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
かれ等は用水のみなぎつて流れる縁を通つて、この昔のやかたあとの草藪に埋められてある傍をかすめて、そしていつも揃つて野良の方へと出掛けて行つた。
ある僧の奇蹟 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
江戸で徳川家光が亡くなつて、家綱がいだ年の翌年である。利章の墓と大きな碑とが、今陸中國巖手群米内村愛宕あたご山法輪院あとの山腹に殘つてゐる。
栗山大膳 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
要塞ようさい門より」とか、「前の家より」とか、「城のあとより」とか、「阿房宮あぼうきゅうより」とか、「隣り村より」とか
俳句の作りよう (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
島を案内しようというのを断って公学校を退却すると、私は独りで、島民に道を聞きながら、「レロの遺跡」という名で知られている古代城郭のあとを見に行った。
その時に秀吉は中国の入口に然るべき根拠地を見いだそうとして、播州で名高い古城のあとを調べさせた。
小坂部姫 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
彼らにさからはうとするものは何にもなかつた。きのふもなく、あすもなかつた。時は崩れてしまつてゐたので。さうしてその崩れたあとから、二人は花咲いたのだ。
次ぎの日——きのうは、恭仁京くにのみやあとをたずねて、瓶原にいって一日じゅうぶらぶらしていました。
大和路・信濃路 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
急坂を下りて、旅亭のあとあり、側に泉湧く。ガリラヤよりエルサレムに行くユダヤ人の男女、および駱駝ひき、羊かひなど大勢憩ふ。余等も無花果いちじゆくの蔭を求めて、昼食ちうじきす。
はじめ、韮崎にらさきという町に宿を取って、春の来るまで、付近のようすを見てまわった。そこは釜無川かまなしがわの東がわで、川上のほうには、むかし武田勝頼の拠った、新府城のあとがある。
山彦乙女 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
柿本人麿が、近江の宮(天智天皇大津宮)あとの荒れたのを見て作った長歌の反歌である。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
さて、そのやうにして南蛮寺門前を辞した私が、無量の感慨に耽りつつ坂道を下り、橋を渡り、道を左へ取つてなおも散歩をつづけて行くと、やがて日蓮上人辻説法にちれんしょうにんつじぜっぽうあとに差し掛つた。
ハビアン説法 (新字旧仮名) / 神西清(著)
線路あと空地あきちが真直に闇をなした彼方のはずれには、往復する自動車の灯が見えた。
寺じまの記 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
また日高郡丹生川大字大谷に、蚯蚓みみず小屋ちゅうは昔ここの杣小屋へ大蚯蚓一疋現われしを火に投ずると、暫くの間に満室蚯蚓で満たされその建物倒れそう故逃げ帰った、その小屋あとという。
そして、柴田勝家しばたかついえの居城のあとは、市の東南の方角に在って、明治四十年までは石垣なども残っていたが、四十年になって市中を流れている足羽川あすばがわを改修したので、大半は川の底になってしまった。
首のない騎馬武者 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
浜街道の茶店から十丁程上ると、関のあとに来た。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
七六 長者屋敷は昔時長者の住みたりしあとなりとて、そのあたりにも糠森ぬかもりという山あり。長者の家の糠を捨てたるがなれるなりという。
遠野物語 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
が、次には、足なみを早めた騎歩兵五、六千にものぼる汗の顔が、一隊また一隊とつづき、みるみる法成寺あとの森へかくれた。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「ラテラノ」の寺、丈長き尖柱オベリスコス、「コリゼエオ」の大廈たいかあと、トラヤヌスの廣こうぢ、いづれか我舊夢を喚び返すなかだちならざる。
大和国原を右手に眺めつつ、この丘陵の間をつたわって次第に平城京あとへ近づいて行く途中の風光は実に和やかで美しい。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
此時北船場きたせんばの方角は、もう騒動が済んでからしばらく立つたので、焼けた家のあとから青い煙が立ち昇つてゐるだけである。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
その高館たかだちあとをばしずかにめぐって、北上川の水は、はるばる、瀬もなく、音もなく、雲のはてさえ見えず、ただ(はるばる)と言うように流るるのである。
七宝の柱 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
かれは不思議な気がした。瞬間も「あと」をつくらずに置かない「時」が恐ろしいやうな気がした。
ある僧の奇蹟 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
わたくしはこの湫路しゅうろかたわらに芭蕉庵のあとは神社となって保存せられ、柾木稲荷のほこらはその筋向いに新しい石の華表とりいをそびやかしているのを見て、東京の生活はいかにいそがしくなっても
深川の散歩 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
「いにしへの人にわれあれや」は、当今の普通人ならば旧都のあとを見てもこんなに悲しまぬであろうが、こんなに悲しいのは、古の世の人だからであろうかと、疑うが如くに感傷したのである。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
Mはそこでこれは葬式をするために掘りかえしたものか、それとも掘ったあとかと思った。その瞬間掘りかえした土の盛りあがりの傍にうずくまっている怪しい物を見つけた。怪しいものは学生であった。
死体を喫う学生 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
一乗寺あとから急いで引っ返してまいり、およそこの舟橋が貴所の通路ではないかとはかって、お待ち申していたのでありまする。
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
越後名寄えちごなよせ』巻三十三その他の所伝によれば、酒顛童子はこの国西蒲原郡砂子塚いさこづか、または西川桜林村の出身と称しておのおのその旧宅のあとがあった。
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
此家は古の墳墓のあとなり。このたぐひの穴こゝらあれば、牧者となるもの大抵これに住みて、身をまもるにも、又身を安んずるにも、事足れりとおもへるなり。
はじめて法隆寺を訪れた頃は、私はこうした思いで心が一杯になり、夢中で斑鳩のあとをめぐって歩いた。私の心にもようやく新生のあけぼのが訪れそめた頃であった。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
しまいには紫川の東の川口で、旭町あさひまちという遊廓ゆうかくの裏手になっている、お台場のあとが涼むには一番好いと極めて、材木の積んであるのに腰を掛けて、夕凪の蒸暑い盛を過すことにした。
(新字新仮名) / 森鴎外(著)
紳士は寺のことを聞き、墓を聞き、またその昔のやかたあとを聞いた。今だにほりの跡が依然として残つてゐるといふことを村長から聞いた時には、紳士の顔にはある深い感動の表情がのぼつた。
ある僧の奇蹟 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
かつて明治座の役者たちと共に、電車通の心行寺しんぎょうじ鶴屋南北つるやなんぼくの墓をはらったことや、そこから程遠からぬ油堀の下流に、三角屋敷のあとを尋ね歩いたことも、思えば十余年のむかしとなった。
深川の散歩 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
このあとにいろいろの樹あり竹林ちくりんに冬の蠅の飛ぶ音のする
つゆじも (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
直義は、水城みずきあとまで出て、兄を迎え、共に、原山の陣所へ入った。原八坊の一つ四王院がすでにえいとしてよそおわれている。
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
崖の上の小家のあとは、今は過半空地になっている。大正四年に母が七十の賀をするかわりに、部屋を建ててもらいたいと云ったので、わたくしは母の指図に従って四畳半の見積を大工に命じた。
細木香以 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
貞任が陣屋じんやかまえしあととも言い伝う。景色けしきよきところにて東海岸よく見ゆ。
遠野物語 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
俗体といえ、この山にかくれ、火を見ておどり出る者は今日までの害物と見てさしつかえない。みなごろしとしてあと人気ひとけもなき焼け山としてしまえ
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
抽斎はこの詩を作ってから三年ののち弘化こうか元年に躋寿館せいじゅかんの講師になった。躋寿館は明和めいわ二年に多紀玉池たきぎょくち佐久間町さくまちょうの天文台あとに立てた医学校で、寛政かんせい三年に幕府の管轄かんかつに移されたものである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
大きい行止まりは加賀国の大人の足跡、東は越中境栗殻山くりからやまの打越に一つ、次には河北郡木越きごしの光林寺のあとという田の中、次には能美郡波佐谷はさだにの山の斜面、すなわちこの国を三足であるいた形である。
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
見わたす限り草茫々ぼうぼうの野原に過ぎなかった。石あれば楼台のあと、水あれば朱欄しゅらんの橋や水亭の玉池ぎょくちがあったあとである。
三国志:04 草莽の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
二人は北上川に沿うて北し、文治の故蹟を高館たかだちに訪うて判官義経を弔し、中尊寺に詣で、衣川ころもがはを隔てて琵琶の柵のあとを尋ね、一の関に至つてまさわづかくびすめぐらした。琵琶の柵は泉の城の別名である。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
そのこうたちは、祖先義清いらい、一世紀余も住み古してきた代々の家だった。北の彼方に、国分寺のあとがある。
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「はあ。活きた阿羅漢あらかんですな。その僧院のあとはどうなっていますか」
寒山拾得 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
老ノ坂は、昔の大江のせきあとである。酒呑童子しゅてんどうじの首塚がある。またよくよくこの地は天下反覆はんぷくの人物に縁がある。
私本太平記:08 新田帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)