三田みた)” の例文
かく是等を救助せずして静まるべきの筋にあらずとて、先づ救民小屋造立つくりたての間、本所回向院えこういん谷中やなか天王寺、音羽おとは護国寺、三田みた功運寺
今あの通り酒井さかいの人数が三田みたの薩州屋敷を焼払やきはらって居るが、れが何でもない事で天下奉平たいへい、安全の世の中になるまいものでもない。
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
学校から帰りに、神田かんだをいっしょに散歩して、須田町すだちょうへ来ると、いつも君は三田みた行の電車へのり、僕は上野うえの行の電車にのった。
出帆 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
『さうです。きみられた學校がくかうです。三田みたですか、早稻田わせだですか。』と高等商業かうとうしやうげふ紳士しんし此二者このにしやいでじといふ面持おもゝちふた。
日の出 (旧字旧仮名) / 国木田独歩(著)
明治四十四年三月籾山もみやま書店は『すみだ川』のほかにその頃わたくしが『三田みた文学』に掲げた数篇の短篇小説および戯曲を集め一巻となして刊行した。
すみだ川 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
慶応義塾けいおうぎじゅくは、こんなふうに、民主的みんしゅてきなふんいきをもっていました。そうして、明治めいじ四(一八七一)ねんに、慶応義塾けいおうぎじゅくは、新銭座しんせんざから三田みたへうつりました。
三人の姉妹は時おり倉地、岡に伴われて苔香園の表門のほうから三田みたの通りなどに散歩に出た。人々はそのきらびやかな群れに物好きな目をかがやかした。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
その一例として去る六月十九日の晩、神保町じんぼうちょうの停留所近くで八時ごろから数十分間巣鴨すがも三田みた間を往復する電車について行なった観測の結果を次に掲げてみよう。
電車の混雑について (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
三田みた魚籃ぎょらんの近所に知りびとがあるので、丁度そこに居あわせた松吉という子分をつれて、すぐにまた芝の方面へ急いで行くと、ここに一つの事件が出来しゅったいしたんです
半七捕物帳:29 熊の死骸 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
彼は小夜子につれられて、おけいさんというこの女の人のうちへも一度遊びに行ってみた。おけいさんは三田みたの方の、ある静かなところに門のある家を借りていた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
しば将監橋しょうげんばしそばであるので、豊岡町とよおかちょうの私の家へ帰るのには、如何どうしても、この河岸通かしとおりを通って、赤羽橋あかばねばしまで行って、それから三田みたの通りへ出なければならないのだ
白い蝶 (新字新仮名) / 岡田三郎助(著)
彼は日米外交のそもそもからハリスと共にその局に当たった人で、日本の国情に対する理解も同情も深かったと言わるるが、江戸三田みた古川橋ふるかわばしのほとりで殺害された。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
ひさしい以前いぜんだけれども、いまおぼえてる。一度いちど本郷ほんがう龍岡町たつをかちやうの、あの入組いりくんだ、ふか小路こうぢ眞中まんなかであつた。一度いちどしばの、あれは三田みた四國町しこくまちか、慶應大學けいおうだいがくうらおも高臺たかだいであつた。
木菟俗見 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
書記松本のうちは、三田みた四国町の停留所から右の路地ろじを入った小さい二階長屋だった。
工場新聞 (新字新仮名) / 徳永直(著)
明治三十四年一月廿五日、、先生を三田みたやしきいしは、午後一時頃なり。
一通の手紙を書いて、上に三田みたむら村長石野栄造様という宛名あてなを書いた。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
兼「もう唯今お嬢様にも左様そう申すので、うかして何処どこに入らっしゃるか知れ無い訳もあるまいと尋ねましても何うしても知れませんので、たし何時いつぞや三田みたに入らっしゃる様子を聞きましたが」
先日、三田みたの、小さい学生さんが二人、私の家に参りました。
心の王者 (新字新仮名) / 太宰治(著)
わたくしは大沼家についてその姓氏を問うたがこれを詳にすることを得なかった。三田みた薬王寺の過去帳には忌辰と法諡ほうしとを載するのみである。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
勿論作品そのものの中にも、多分に三田みた文学流の西洋種を交へて居る。先づ比較的西洋種を交へない作家と云へば、徳田秋声とくたしうせい氏位のものだらうと思ふ。
東西問答 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
私の方からもねがいすじがある、兼て長官へ内々御話いたしたこともある通り、三田みた島原しまばらの屋敷地を拝借いたしたい、けは厚く御含おふくみを願うと云うは
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
大島小學校おほしませうがくかうたものが、いま東京とうきやう三人さんにんます。これがぼく同窓どうさうです。此三人このさんにんあつまるくわい僕等ぼくら同窓會どうさうくわいです。其一人そのひとり三田みた卒業そつげふしていま郵船會社いうせんぐわいしやます。
日の出 (旧字旧仮名) / 国木田独歩(著)
二十七日に切腹した水野の葬式は二十九日の夕方に三田みたの菩提寺で営まれた。上をはばかって無論質素に執行されたのであるが、さすがに世間を忍んで見送る者も多かった。
番町皿屋敷 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
諭吉ゆきちは、慶応義塾けいおうぎじゅくであたらしい教育きょういくをし、「文部省もんぶしょう竹橋たけばしにあり、文部大臣もんぶだいじん三田みたにいる。」と、せけんでいわれたほどですが、それとどうじに、出版しゅっぱんちかられました。
なんでも、江戸三田みたの薩摩屋敷があの仲間の根拠地さ。あの屋敷じゃ、みんな追い追いと国の方へ引き揚げて行って、屋敷のものは二十人ぐらいしか残っていなかったそうです。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
昼飯をすませて少し休息すると、わずかばかりの紙幣を財布さいふに入れて出かける。三田みた行きの電車を大手町おおてまちで乗り換えたり、あるいはそこから歩いたりして日本橋にほんばしの四つかどまで行く。
丸善と三越 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
三田みたの大学が何らの肩書もないわたくしをやとって教授となしたのは、新文壇のいわゆるアヴァンガルドに立って陣鼓タンブールを鳴らさせるためであった。
正宗谷崎両氏の批評に答う (新字新仮名) / 永井荷風(著)
東京に三田みたあり、摂州せっしゅう三田さんだあり。兵庫の隣に神戸こうべあれば、伊勢の旧城下に神戸かんべあり。俗世界の習慣はとても雅学先生の意に適すべからず。貧民は俗世界の子なり。
小学教育の事 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
さうです、ぼくはオックスフオードにもハーバードにも帝國大學ていこくだいがくにも早稻田わせだにも三田みたにも高等商業學校かうとうしやうげふがくかうにもたことはいのです。たゞ故郷くに大島小學校おほしませうがくかうたばかりです。
日の出 (旧字旧仮名) / 国木田独歩(著)
諭吉ゆきちは、三田みた慶応義塾けいおうぎじゅくをうつしたとき、自分じぶんのすむいえもたてましたが、大工だいくにたのんで、いえのゆかをふつうよりたかくして、おしれのなかからゆかしたへもぐってにげだせるようにしました。
進んで挑戦的ちょうせんてきの態度に出、あらゆる手段を用いて江戸市街の攪乱こうらんを試み、当時江戸警衛の任にあった庄内藩しょうないはんとの衝突となったのも、三田みたにある薩摩屋敷の焼き打ちとなったのも皆その結果であって
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
『房山集』所載の詩は三田みたの薬王寺に先君子竹渓の墓を展した五言古詩を以て終っている。展墓の詩中わたくしは枕山の伝をつくる資料となるべき句のみを挙げる。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
地所払下三田みたの屋敷は福澤諭吉の拝借地になって、地租もなければ借地料もなしあたかも私有地のようではあるが、何分にも拝借とえば何時いつ立退たちのきを命じられるかも知れず
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
当時の事は既に「下谷の家」と題した一小篇に記述した。雑誌『三田みた文学』のはじめて刊行せられた年の同誌に掲げんがため筆をったのであるから、これさえ早く既に十四、五年を過ぎている。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
そも三田みたの校内にては奢侈しゃしの風をいましめんとて校内に取寄すべき弁当にはいづれもきびしく代価を制限したり。されば料理の材料おのづから粗悪となりてこれをくらへば終日ひねもす胸苦むなぐるしきを覚ゆ。
矢はずぐさ (新字旧仮名) / 永井荷風(著)