一途いちず)” の例文
お兼ちゃんの着物をきていたので、子供たちは一途いちずにお兼ちゃんと思い込んだのであるが、それはかの八百留の子守のお長であった。
異妖編 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
虫が知らせるとでも云うのか、ちょうど今頃、父親の説諭に反抗している妻の一途いちずな言葉のはしはしが聞えて来るような心地がする。
蓼喰う虫 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
武辺者の一途いちず、この義貞すらも、これへまいるまでは、まったく逆上気味でござりました。……が、親しく、龍顔を拝しますれば……
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
云々うんぬんは島原農民の代弁で、四郎が天人として遊説していたときにはまだ島原農民との交渉はなく、一途いちずに信徒の獲得の遊説であった。
安吾史譚:01 天草四郎 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
君たち、そう一途いちずに得物を持って殺気をたててはいかんじゃないか、水が切れたからと言って、血の雨を降らすなんぞは愚かな儀じゃ。
大菩薩峠:36 新月の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
ただ一つの真理をしかいれないそれらの一途いちずな魂にとっては、政治上の処置や主要人物らの妥協は、苦々にがにがしい幻滅の種となるのだった。
と正直一途いちずに融通のきかない重兵衛は、それからすぐに鳥越の屋敷へ取って返す。そんなことは知らないが、なんでこの若侍も鳥越へ?
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
一途いちずに素直に、心の底の美しさが匂い出たように、静かな、美しい眼で、人々の感激する様子を、驚いたように見まわして居た。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
で、なく、あの迷妄を一途いちずに持ち続けていたらあの遣場やりばのない情熱のために、この身は風船のように破裂したに相違あるまい。
吊籠と月光と (新字新仮名) / 牧野信一(著)
当主の、福子の良人には父にあたるその人は、温厚おんこう一途いちずで、仕事の上のことでは、まだまだ隠居のの下にいた。
万年青 (新字新仮名) / 矢田津世子(著)
ハムレットへの一途いちずの忠誠の気持は、わかりますが、やはり子供ですね。そんな思い上ったものの言いかたは、これからは、許しませんよ。
新ハムレット (新字新仮名) / 太宰治(著)
そういった一途いちずな言葉に接するごとに、かれはおどろきもし、むちうたれもし、また同時に救われたような気もするのだった。
次郎物語:05 第五部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
こう思いながら、藤十郎は胸の中に渦巻いている、もどかしさを抑えながら、一途いちずに心をその方へ振り向けようとあせった。
藤十郎の恋 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
お染の一途いちずな恋情の前に「死ぬ気」になるという厳粛な事実は、実はこのような空虚な動機づけしか持っていないのである。
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
そんなことをする女を、おめおめ四、五年の長い間一途いちずに思いつめ、焦がれ悩んでいたとしたら、自分はどうしても自身の不明を恥じねばならぬ。
黒髪 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
一途いちずに感情的な気持ちになって、それが自分達の身の上にふりかかっているせつなさと入り交って仕舞いました。
扉の彼方へ (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
そうしてなおつ作者としての眼さえ持った上に、しかもただ一途いちずに頼んだ道徳や理智までが再び分解せられた今になって、何が美しきものであろうか。
純粋小説論 (新字新仮名) / 横光利一(著)
近頃は少し老耄もうろくして店の方はあまり構わないが、根が忠義一途いちずの男で、又左衛門を自分の子のように思っている。
昔のきんを思い出して、もしやと云う気持ちできんの処へ来たのだけれども、きんは、昔のような一途いちずのところはなくなっていて、いやに分別を心得ていた。
晩菊 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
曲「え……これはそのなんでございます、あゝあわてましたから、貧の盗みで一途いちずにそのわたくしは、へえ慌てまして」
菊模様皿山奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
こういう信仰を土俗的とか迷信とかいって一途いちずさげすむくせがあるが、そんな安価な見方で農村の暮しをさばいていいだろうか。そのことの方が私には問題である。
陸中雑記 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
達雄さんが女に弱くて、それで家を捨てるように成った——そう一途いちずにあの人達は思い込んで了うから困る
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
ねえレヴェズさん、いったいディグスビイは、敗北に酬ゆるに何をもってしたことでしょうか。その毒念一途いちずの、酷烈をきわめた意志が形となったものは……。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
青年は一途いちずに救いを求めるような、混乱した表情を見せなから、からびた言葉をぐっと呑みこんだ。
白蛇の死 (新字新仮名) / 海野十三(著)
勢いっぱいに張り上げたその声は何か悲しい響きに登勢の耳にじりじりと焼きつき、ふと思えば、それは火のついたようなあの赤児の泣声の一途いちずさに似ていたのだ。
(新字新仮名) / 織田作之助(著)
一途いちずな、子供らしい恋愛の経験しかない伸子は、ぱらりとした目鼻だちの顔に切迫したような表情をうかべて、スタンドのクリーム色の光の中から素子を見あげた。
道標 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
斯く云う自分も其仲間だが、何故なぜ我日本国民は斯く一途いちずになるであろう乎。彼は中々感服家で、理想実行家である。趣味の民かと思うたら、中々以て実利実功の民である。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
そして、それは比較的、青空のように澄んだ一途いちずな気分になれる、ぼくの好きな遊びだった。
煙突 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
私が切望しているのは、どうか自分の柄にあったことを一途いちずにしていきたいというだけなのである。だから現代のグループには干与しない。あたかもスネ者のように独歩している。
感想 (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
過日こないだの夜のおれが云うたあの云い過ぎも忘れてもらいたいとおもうからのこと、聞いてくれこういうわけだ、過日の夜は実は我もあまり汝をわからぬ奴と一途いちずに思って腹も立った
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
和歌はすでに四百年の伝統を荷担になった貴紳文芸である。この文芸に打ちこんでいった実朝の愛は、あるいは都の人たちの思い知らぬほどに一途いちずで清純なものであったろうとも思う。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
実は当時のゴシップ好きの連中が尾鰭おひれをつけていろいろ面白そうに喧伝けんでんしたのが因であって、本人はむしろ無口な、非社交的な非論理的な、一途いちずな性格で押し通していたらしかった。
智恵子の半生 (新字新仮名) / 高村光太郎(著)
何とやら憂鬱ゆううつで、しょっちゅう一途いちずに物を思いつづけている様な、しんねりむっつりとした、それで、縹緻きりょうはと申せば、今いう透き通る様な美男子なのでございますよ、それがもう
人でなしの恋 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
誠に正直一途いちずの人で、或る日、本郷春日町かすがちょう停留場の近所で金を拾い直ぐさま派出所へ届け、落とし主も解りその内より何分いくらか礼金を出した所、本人は何といっても請け取らないので
穂吉どのも、ただ一途いちずに聴聞の志じゃげなで、これからさっそく講ずるといたそう。
二十六夜 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
「この上するべきことは、身を殺させて敵を刺すそれ一つ、一途いちずに——それッ」
討たせてやらぬ敵討 (新字新仮名) / 長谷川伸(著)
酔が廻るにつれ、しかし女のことよりは若者のことが一途いちずに気になってきた。
蕎麦の花の頃 (新字新仮名) / 李孝石(著)
ただ一途いちずがたい彼の性分のせかせかした落着きのなさがさせる業である。
その頃私は沈滞した、仕事の手につかぬ、苦い日々を送っていたのでした。心も暗かったのです。孤独な、そしてきゅうした心の底から一途いちずに「あの人に会おう。」という思いが湧いてきました。
聖アンデルセン (新字新仮名) / 小山清(著)
夜中ひそかに伝馬船を以て重之助一同異船へ乗込み、外国同伴相頼み候えども、承引致さず送戻され候儀ども、一途いちずに御国の御為と存じつかまつり成し候旨申し立て候えども、右てい重き御国禁を犯し
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
先頃免職が種で油を取られた時は、文三は一途いちずに叔母を薄情な婦人と思詰めて恨みもし立腹もした事では有るが、その後沈着おちついて考えて見るとどうやら叔母の心意気が飲込めなくなり出した。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
それには仔細しさいがあって、今当分は、わざとおとなされた方が、のちのちのためによいとおもわれての事かも知れない——あのお方には世間がある、芸がある——それを、一途いちずに、女気で
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
ただ、悪夢のような古い、幼かった記憶のなかに動いている内地人の顔が一途いちずに憎いのである。彼は内地人に対して常に強い復讐の気もちを抱いていた。そしてひたすらその機会をねらっていた。
霧の蕃社 (新字新仮名) / 中村地平(著)
……其方共儀そのほうどもぎ一途いちずニ御為ヲ存ジ可訴出うったえいずべく候ワバ、疑敷うたがわしく心附候おもむき虚実きょじつ不拘かかわらず見聞けんぶんおよビ候とおり有体ありてい訴出うったえいずベキ所、上モナクおそれ多キ儀ヲ、厚ク相聞あいきこエ候様取拵申立とりこしらえもうしたて候儀ハ、すべテ公儀ヲはばかラザル致方
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
けれども、あたしが母を褒めたいと思いますのは、母の玉井さんに対する一途いちずの心、……あんなにも、女が、一人の男に打ちこめるものかと、若いあたしは、母を学びたい心が湧いたほどでした。
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
とたれやらが口吟くちずさみけん。後家おんなやもめの世に処することぞ難かりける。むかしの慣習にて主の死去したる時は一途いちずにはやまりて松の操色かえじと。プッツリ思い切りかみも。ようやくのぶるにしたがいて。
藪の鶯 (新字新仮名) / 三宅花圃(著)
君なんぞまだ若気の一途いちずに、学問とか、名誉とかいうことばかりを思うのも無理はないけれど、何もそんな思いをして学問をしなくっても人間の尽す道はわれわれの生活の上にも充分あるではないか。
駅夫日記 (新字新仮名) / 白柳秀湖(著)
写生々々と技を練るに従って、その技も心と共に向上してゆくものであることを思えば、俳句を作るはただ写生という一路に邁進まいしんすればよい。何物にもとらわれることなく唯一途いちずに写生に邁進すればよい。
俳句への道 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
「さあ、旦那があんな一途いちずかただから、そこはどうとも」
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
正直者の彼女は旦那のいうことを一途いちずに信じて、おかみさんの帰らないのをさのみ怪しんでもいなかったらしい。半七は更に訊いた。
半七捕物帳:47 金の蝋燭 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)