くろ)” の例文
そこも燐や、硫黄や、塩酸加里などの影響を受けて、すべてが色褪せ、机の板は、もく目ともく目の間が腐蝕し、灰色にくろずんでいた。
武装せる市街 (新字新仮名) / 黒島伝治(著)
波のあいだになにやらくろいものが見えますゆえ、なんであろうと舷を寄せ、仔細にこれを眺めますれば、それは生れたばかりの鯨の子。
キラキラ光る無数の水泡が、音符のように立ち上っていって、濃碧のどこかに動いている紅い映えが、しだいに薄れくろずんでゆく。
潜航艇「鷹の城」 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
……やがて、その生垣の路が、一軒の釣具屋の灯に切られ、橋を渡ると、夜目にもくろく小高い丘が、山鹿の別荘のあるという松林である。
鱗粉 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
下宿の窓のすぐ下には、くろい青木の葉が、埃を被って重なり合っていた。乾いたことのない地面からは、土の匂いが鼻に通った。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
蝙蝠こうもりのようにくろずんだ或る影が過ぎ去った。——笏も、その妻も、きゅうにし黙って、哀れな己れの子供とその言葉を裏返しして眺めた。
後の日の童子 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
顔色も白く透きとおるようになっただけでくろずんでは来なかったし、体も、痩せ細ってはいたものの手足にしまいまで艶々つやつやしさが残っていた。
細雪:03 下巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
カンテラの灯に照し出され花模様の屏風びょうぶを立て並べたように見える。それ等の夜店の列に引較べてうしろの町家の家並はくろずみ返って見える。
美少年 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
朝の光の中で園がそれを見返った時、荒くれてくろずんだその幹に千社札が一枚斜に貼りつけられてあって、その上を一匹の毛虫がっていた。
星座 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
眼瞼の薄い小賢しい眼が、妙にくろずんだ光りを帯びて、緊りのない脹れっぽい顔付に、一寸敵意らしい険が漂っていた。私はその顔を見つめた。
理想の女 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
丁度大雨に遭っていた鶏が夫々それぞれ雨宿りの下から濡れ羽を振って出て来たように。空はくろずんでいる。平野は雨霧に暮れ、川は激しい勢で流れていた。
土城廊 (新字新仮名) / 金史良(著)
そしてくろずんだ変な洋服を着ていた。その幅広の肩の上には、めりこんだような巨大な首が載っていた。頭髪はよもぎのように乱れ、顔の色は赭黒あかぐろかった。
恐怖の口笛 (新字新仮名) / 海野十三(著)
蒼いよりは寧ろくろく病焼けのした顔に朱を注いで、深く落ち窪んだ両眼をぎろ/\させながら、はたとお信さんを睨みつけた伯父の形相ぎやうさうは物凄かつた。
乳の匂ひ (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
くろずんだ電燈の下で夕食も終ると、一日の心がやうやく帰つてきたやうな、遠い疲れと放心がわかるのだつた。
蒼茫夢 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
卓子テーブルの向うのほの暗い右側には、くろずんだ古代びな……又、左側には近代式の綺羅きらびやかな現代式のお姫様が、それぞれに赤い段々を作って飾り付けてある。
白菊 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
と見れば、比良ヶ岳、比叡山ひえいざんの上に、真黒な雲がかぶさり、さしも晴れやかに光っていた琵琶湖の湖面が、淡墨うすずみを流したようにくろずんできたのを認めました。
大菩薩峠:35 胆吹の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
そうして、湖の水の光っているところ、影になって紺青にくろずんでいるところ、そういう趣が段々と変って行った。紅葉した木々もそろそろ見えるようになった。
リギ山上の一夜 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
寺の本堂の屋根瓦が弱い入日を受けてくろく照り返している。そこのあたりをむなしい音立てて風が吹いた。
風宴 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
行くうちに裏白の叢はくろずんでねっとり湿りを含み、臭いもアルカリ性の強い朽葉の悪臭に変って来た。
旅愁 (新字新仮名) / 横光利一(著)
風のない初夏の黄昏たそがれすぎ、西伊豆の山々もすっかりくろずんで、遠く近く灯がまたたき始めている。
暗がりの乙松 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
やがて二人の達した別荘なるものは、そうした町の一角に相当大きく、そしてくろくそびえていた。が、とりまわした塀も見えず、どこにも明りを見ることはできなかった。
地図にない街 (新字新仮名) / 橋本五郎(著)
その地に永く留まり得ないで研究を中止した、また件の手水鉢中の水が血を注いだようにくろ赤いので鏡検すると、従来予が聞いた事なき紅色の双鞭藻ジノフラゲラタで多分新種であろう。
由平は阿芳だけ殺してはすまないと思って、三度海の方へ歩いて往ったが、くろずんだ海の色を見ると急に怖気おじけがついた。由平はじっとしていられないので村の方へ向って走った。
阿芳の怨霊 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
頁の折つてあるところを開けて御覧なさい。そこにくろい球のことが書いてあるでせう。黝い球つて毒薬なんです。それを僕がむか、あなたが呑むか、どつちかに決つてゐたんです。
青いポアン (新字旧仮名) / 神西清(著)
獲物の野猪ししは、日暮にちぼくろずんだ肢体をなほ逞ましく横たへてゐた。その下で、流れ出る血が泥に吸はれてゐた。ふと、私は促されるやうに背後を顧みた。そして私は総てを了解した!
測量船 (新字旧仮名) / 三好達治(著)
寢臺が、私の前に立つてゐて、右手には、背の高い、くろずんだ衣裝箪笥があつて、薄暗い、斷續的の光線が、鏡板かゞみいたの光澤に強弱をつけてゐた。左手には、日除けシエードりた窓があつた。
彼女かれは良人にすてられて死し、われは相思う良人と裂かれて泣く。さまざまの世と思えば、彼も悲しく、これもつらく、浪子はいよいよくろうなり来る海のおもてをながめて太息といきをつきぬ。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
先ずくろずみ、やがては泥に成るというように感じられる。重い。そして、沈鬱だ。
地はくろずんで、ふか/\して、ふとすると下萠したもえの雜草の緑があざやかに眼に映る。
解剖室 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
その縁先きまで押しよせてきているくろい水や、その上に漂っているさまざまなあくたの間をすいすいと水を切りながら泳いでいる小さな魚や昆虫を一人で見ているうちに、ふと私の思いついたものは
幼年時代 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
多量の万年雪にことごとく其岩屑を運び去られた柱や壁や屋根は、偃松はいまつ其他の高山植物が青苔の蒸したように生えて、四近に溢るるくろい色は、この大伽藍に何ともいえぬおちついた重みのある感じを与える。
越中劒岳 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
塚の頂きに立っているいしぶみには、南無妙法蓮華経と、ひげ題目が刻まれていた。碑は、歳月と風雨とに損われて、諸所ところどころ欠けている高さ六尺ぐらいの物で、色はくろかったが、陽に照らされ、薄光って見えた。
血曼陀羅紙帳武士 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
くろい木立。百姓家。街道。そして青田のなかに褪赭たいしゃ煉瓦れんがの煙突。
城のある町にて (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
おぼほしく若葉くろずむこの眺め梅雨つゆのま待たず我が眼ひむか
黒檜 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
しかも彼れの靈魂は汚くくろずんでゐて、艷も光もなかつた。
仮面 (旧字旧仮名) / 正宗白鳥(著)
くろずんだ林のかなたが、白く明るんでいた。
いのちの初夜 (新字新仮名) / 北条民雄(著)
友禅染を晒すのだとかいふくろい水が
無題 京都:富倉次郎に (新字旧仮名) / 富永太郎(著)
浮藻うきもこそひろごりわたれくろずみて
有明集 (旧字旧仮名) / 蒲原有明(著)
一帶にくろみ靜もり
凍るみ空のくろむ頃
山羊の歌 (新字旧仮名) / 中原中也(著)
そこがほらのように見えたというのも、あるいは歯抜けの扮装術(「苅萱桑門筑紫蝶」その他の扮装にあり)そのままに、鉄漿はぐろくろみが
白蟻 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
くるわの真中に植わった柳に芽が吹き出す雪解けの時分から、くろ板廂いたびさしみぞれなどのびしょびしょ降る十一月のころまでを、お増はその家で過した。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
陽は既に西に遠退とおのいて、西の空を薄桃色に燃え立たせ、眼の前のまばらに立つ住宅は影絵のようにくろずんで見えていた。
快走 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
乳首はくろずみ、下腹部は歴然と膨らみ、このせつではもう胎動をさえ感ずるようになった。婦人科医の診断もうけたが紛れもなく姙娠しているのだった。
三人の双生児 (新字新仮名) / 海野十三(著)
あのくろずんだ赤みと、しめり気を持った肌が、口紅をさした婦人のそれ以上に肉感的なねばっこさを帯びる。
陰翳礼讃 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
ややくろずんだ破片が少量入っているだけで、脆いか脆くないか、手に触れることはしなかった。母親はしかしそれを自分の頬に当て、うつむいて暫く忍び泣いた。
狂い凧 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
二つ三つむせぶように深い息を吸い込んだりする。牛糞みたいな乳房が垂れ下がり、くろずんだチマの裾から両足はぐんなりと投げ出され、その肩はなめらかな弧を描いていた。
土城廊 (新字新仮名) / 金史良(著)
その広々とした淵はいつもくろずんだ青い水をたたへて幾何いくばく深いか分からぬやうな面持おももちをして居つた。
念珠集 (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
燻製くんせいの魚のような香いと、燃えさしの薪の煙とが、寺の庫裡くりのようにがらんとくろずんだ広間と土間とにこもって、それが彼の頭の中へまでも浸み透ってくるようだった。
親子 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
しかもその小さな下唇を前歯で噛み破ったらしく鼻の下から乳の間へかけてベットリとコビリ付いている血が、水銀燈に照らされて妙にくろずんだ腮鬚あごひげみたいに見えるのです。
人間腸詰 (新字新仮名) / 夢野久作(著)