いら)” の例文
麝香じゃこうを噛んだような女の息を、耳元に感じた新九郎は、今にも頬へ触れてきそうな黒髪の冷たさを想像していらえをするのを忘れている。
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
金煙管きんぎせるたばこひと杳眇ほのぼのくゆるを手にせるまま、満枝ははかなさの遣方無やるかたなげにしをれゐたり。さるをも見向かず、いらへず、がんとして石の如くよこたはれる貫一。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
「どうぞ」と一言いらえたる、夫人が蒼白なる両のほおけるがごとき紅を潮しつ。じっと高峰を見詰めたるまま、胸に臨めるナイフにもまなこふさがんとはなさざりき。
外科室 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
二日ばかりありてえんもとにあやしき者の声にて、「猶其の仏供の撤下物侍おろしはべりなん」と云へば、「如何でまだきには」といらふるを、何の言ふにかあらんと立ち出でて見れば
濫僧考補遺 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
いらえのないものを、いて叩き起すような振舞をせずして、白雲はそのまま取って返して、ランタンを振り照らしつつ、前のメーン・マストの下まで再び検分の気持で来て見ると
大菩薩峠:38 農奴の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
「さなり、げにその時はうれしかるべし」といらえし源叔父が言葉には喜びちたり。
源おじ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
北の方初めの程は兎角のおんいらへもなく打沈みておはせしが、度々の御尋ねにやうやく面を上げ給而たまいて、さんざふらふわらはが父祖の家は逆臣がために亡ぼされ、唯一人の兄さへ行衛も不知しらずなり侍りしに
うるはしき神の旅路といらへまつりともづな解かむ波のまにまに
恋衣 (新字旧仮名) / 山川登美子増田雅子与謝野晶子(著)
「誰だエ」と伯母は始めていらへぬ
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
ぞ。』といらへぬ、伏眼ふしめして
第二邪宗門 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
怪しみがほのいらへに
信姫 (新字旧仮名) / 末吉安持(著)
玄関へ向って、胸を張って云ったが、家の中からはいらえがなく、その声に吃驚びっくりしたように奥の植込みの蔭で人影が木の葉をうごかした。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
不足をおっしゃては女冥利みょうりが尽きますによ。貴女あなたお恥かしいのかえ、とめるがごとく撫廻せば、お藤は身体からだを固うして、かぶりるのみいらえは無し。高田はわざと怒り出し
活人形 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
と、呼ばわると、上の鼓楼で「おおいっ」といういらえが響く。と同時に、門側の番卒隊が不時の開門なので、とくに総勢でそこに立ち現れ
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
俯していらえなき内儀のうなじを、出刃にてぺたぺたとたたけり。内儀は魂魄たましいも身に添わず
義血侠血 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
訪れのいらえを門口かどぐちで待っている間も、なんとなく有難くて——うれしくて勿体なくて——思わずそこへひざまずいてしまった。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一言のいらえも出来ない風情。
黒百合 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
姿は隠して、眼だけを白くうわずらせながら、も一度こう呼んでみると、今度はしばらく何のいらえもなかったが、やがてよほどをおいてから
鳴門秘帖:02 江戸の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と、一けんただの山家にすぎない垣の枝折しおりを指さしたが、内には人の気配もなく、そこから呼んでも叩いてみても、おうといういらえはなかった。
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
簾の蔭で、「……はい」と、きれいないらえがしたようであった。その黒髪の人が、廊の奥へ消えてゆくのを、高氏は見もせぬ振りで見送っていた。
私本太平記:01 あしかが帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それさえあるに、やがておとずれていた一堂の玄関もまたひどくびていて、いくど呼んでみてもいらえはなかった。
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
廉子のさまざまななぐさごとにも、なんのおいらえもなく、やがてお胸をもたげても面はなお、あらぬ方へ向けたままだった。
案内して来た青眉の女房は、小門の戸をほとほとたたいて、中のいらえを聞いて後、武蔵を振り向いて、静かにいう。
宮本武蔵:03 水の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
すぐ低いいらえが洩れてきた。しかもきわめて優しい女の返辞へんじ! 万吉はドキンと胸を躍らすと一緒に思わず「ありがてえ」と心の奥でつぶやいたことである。
鳴門秘帖:02 江戸の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と、元気のいい声を人ごみの中でいらえた。そしてさも大事そうに両の手に目笊めざるを抱えながら彼の側へ馳けて来た。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
寮の用人とも見える侍が、ふなべりにひざまずいてこう云うと、破れた御簾のうちから、妙なるいらえが低く洩れて、御方の姿が、半ば月の光に照らし出された。
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いらえもない。ただくちがうごいた。そして寝床のうえの右の手がすこし動いた。挙手きょしゅの意志を示すように。
日本名婦伝:谷干城夫人 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
帝の寵妃ちょうひ、三位ノ廉子やすこなのである。すぐ内からは、侍者じしゃの千種忠顕ただあきが、侍者ノ間からいらえて出て来た。
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
あっと、いらえがするとすぐ、民部左衛門の半身が陣幕の上に高く見えた。馬の背にとび乗ったのだ。
上杉謙信 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
おうっと、遠くからいらえて、関興はあやしげな一軍隊をさし招いて、たちまち、車のまわりに配した。
三国志:11 五丈原の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ったのは、妙光坊の阿闍梨あじゃり玄尊だった。「はっ」といらえて、前へすすみ出で、両親王の床几へ
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と、声をらせど、を叩けど、再び中からいらえる者はなかった。ああ、何という無情な仕打ち、武士の情けを知らぬ人々。世間はこれ、新九郎にとってみな鬼か蛇か。
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
すると内から「おうっ」と、いらえて顔を見せた男がある。これが、かの岩松吉致であったのだ。
私本太平記:08 新田帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「はっ」といらえながら堂の中へ飛び込み、間道へ通じるそこの床板を釘付けにし、さらに、堂の喜連格子きつれごうしも外から厳重に釘を打って、テコでもかないようにしてしまう。
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
噂に聞いていた旅川周馬か? イヤそれにしてはたしかにさっきのいらえが女の音声おんじょうであった。
鳴門秘帖:02 江戸の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
家のなかで、いらえがあったと思うと、老先生は、突然、そのあぎとの白髯をさかしまに上げて
牢獄の花嫁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
はっといらえると、夏侯覇はすぐ手勢を糾合きゅうごうし、星降る野をまっしぐらに進軍して行った。
三国志:11 五丈原の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
警吏やくにんはその琵琶の音のあまりに楽しげなのがねたましくでもなったか、おおウい——と声をあげて再三呼ばわるのに、いっこういらえがないので、石を拾って松林の丘を見上げながらほうり投げた。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「臆病者っ、いらえをせぬか。寿童冠者かじゃが勢いにじて、も出さぬとみえる。——皆の者、石をほうれっ、石を抛れっ」声がやむとすぐ、ばらばらっと、石つぶてが、やかたひさしや、縁に落ちてくる。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「はて、まだいらえがござりませぬが、どうしたものでござりましょう」
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いらえはなく、山荘の裏のほうで、何か、ひそひそ、人声がしていた。
すました櫛笥くしげなどを片寄せながら、さりげなくの蔭でいらえていた。
私本太平記:07 千早帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いらえる間もあればこそだ。侍たちは走りで、右往左往
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
といっては、内のいらえか、ゆるしかを、待つ風だった。
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と、つわものばらのふるいたついらえが聞えた。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いらえもせず、廊へ坐って。
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)