模糊もこ)” の例文
吾人は此の意を持して必しもくだんの要求を排せざるべし。されど何が故に此くの如き模糊もこたる一語を提して此の要求を標せんとはするぞ。
国民性と文学 (新字旧仮名) / 綱島梁川(著)
洲股すのまたから栗原山までは、そう遠くもない。約十里もあろうか。晴れた日は、養老の峰つづきに、模糊もこと見えるくらいな距離である。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
幾重にも突兀とっこつした山々のため、指ざす彼方かなた模糊もことした想像であり、語って聞かされた状景はなかなか実感となって浮ばなかった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
併し模糊もこなどと云ふ語はどの新聞を見ても「も」の字が米へんになつて居りますが、あれなどは木へんだと云ふことであります。
仮名遣意見 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
碑面の文字は、模糊もこたる暮色につつまれて見えず、米友は、呆然ぼうぜんとして腕組みをしながら、立ってその石塔をながめていると
大菩薩峠:22 白骨の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
ドビュッシーの音楽には大袈裟おおげさな身振りで、予想通り復帰する歌は一つもない代り、煙の如く模糊もこたる音響——和声の柔らかな織物の上を
楽聖物語 (新字新仮名) / 野村胡堂野村あらえびす(著)
煙霧は模糊もことして、島のむこうの合流点の明るく広い水面を去来し、濡れに濡れた高瀬舟は墨絵の中のみのと笠との舟人かこに操られてすべって行く。
木曾川 (新字新仮名) / 北原白秋(著)
画面のおもなる線はここに至って決定する。そして今や全体の顔貌がんぼう模糊もこたるあけぼのから浮き出す。すべてが明確になる、色彩の調和も形貌の輪郭も。
しかし、ぼくはようやく、雲影うんえい模糊もことみえそめた島々のあおさを驚異きょうい憧憬どうけいの眼でみつめたまま、動く気もしなかったのです。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
代赭色たいしゃいろを帯びた円い山の背を、白いただ一筋の道が頂上へ向って延びている。その末はいつとなく模糊もこたる雲煙の中に没しているのが誘惑的である。
浅間山麓より (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
猿橋えんきょうあたりへ来ると、窓から見える山は雨が降っているらしく、模糊もことして煙霧につつまれていたが、次第にそれが深くなって冷気が肌に迫って来た。
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
その模糊もことした中から、の音が流れて来て、くちばしすねの赤い水鳥が、ぱっと波紋をのこして飛びたつ——都鳥である。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
大阪を飛びだすと、すぐ雲霧に包みこまれ、それからもう一時間以上も、模糊もことした灰白色の空間を彷徨している。
雲の小径 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
模糊もことして暮れゆく、海にむかってそびゆる山の、中腹に眼をやりながら、モルガンは心に祈るようにすら言った。
モルガンお雪 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
しかし彼の話が一旦終ってしまうと、なんだか模糊もことしてきて、分ったような分らぬような気持になってきた。
(新字新仮名) / 海野十三(著)
春雨模糊もことした海岸に、沈みもやらで柴漬が漂っている。次の句も類想であり、いずれ優劣のない佳句である。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
模糊もことした雑踏の中を、はる子は郊外電車の発着所に向いて歩いていた。そこは、市電の終点で、空の引かえしが明るく車内に電燈を点して一二台留っていた。
沈丁花 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
舞台やうやく赤くかすみ来り、後景なる寺の石垣模糊もことして遠く退き、人々の形も朦朧として定かならず。
南蛮寺門前 (新字旧仮名) / 木下杢太郎(著)
いつの間にか硝子ガラス戸も閉ざされたとみえて、模糊もこと漂っている春の夕暮れの中に、さっきまでの明るい紺青こんじょうの海ももうまったくの、ドスぐろさに変っているのです。
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
しかも、かつて鐘鳴器カリルロン室で彼女が演じたところのものは、とうてい曖昧模糊もことした人間の表情ではない。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
ワーテルローの戦いは一つのなぞである。勝利者にとっても敗北者にとっても、それは等しく模糊もこたるものである。ナポレオンにとっては、それは一つの恐慌であった。
その模糊もこの中で、先生は着ていた裏毛附の冬外套をさっと脱がれました。雲母色きららいろの霧の中に均ママの取れたうす薔薇色の女の裸体がしず/\と影を淡めて遠ざかります。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
したたかに自信を失い、観察を中止して船室に引き上げた。あの雲煙模糊もこの大陸が佐渡だとすると、到着までには、まだ相当の間がある。早くから騒ぎまわって損をした。
佐渡 (新字新仮名) / 太宰治(著)
仲居なかいと舞子に囲繞とりまかれつつ歓楽に興ずる一団を中心として幾多の遠近おちこちの涼み台の群れを模糊もことして描き、京の夏の夜の夢のような歓楽のやわらかい気分を全幅にみなぎらしておる。
今もなお地に響いて盛んに轟々ごうごうと鳴っている。濛々もうもうたる黒煙の柱が天にもとどきそうだ。灰の雨が盛んに降っている。高原は一面に深い霧にとざされたように模糊もことしている。
六月 (新字新仮名) / 相馬泰三(著)
彼の記憶にきついているのは、特異な提灯の色だけであって、あとは模糊もことしている。二階にはすりガラスの窓があった。その時彼は窓を細目にあけて、道を見おろしていた。
幻化 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
老人はこの模糊もこたる唐画とうがの古蹟にむかって、生き過ぎたと思うくらいに住み古した世の中を忘れてしまう。ある時は懸物かけものをじっと見つめながら、煙草たばこを吹かす。または御茶を飲む。
永日小品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ここは非常に眺望がよい、谷間はもう薄暗くなったが、連山は模糊もことして、紫や紫紺の肌に夕ばえの色がはえている。それよりも美しかったのは入日に照らされた雲の色であった。
皇海山紀行 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
いよいよ日本海にずれば、渺茫びょうぼうとして際涯なく黒い海面は天に連なり、遥か左方は親知らず子知らずのへんならん、海波を隔てて模糊もこの間に巉巌ざんがんの直ちに海に聳立そばだっている様が見える。
画布には、雑然模糊もことした下絵に、最初の色がところどころ塗り始めてあった。
英雄は古来センティメンタリズムを脚下きゃっか蹂躙じゅうりんする怪物である。金将軍はたちまち桂月香を殺し、腹の中の子供を引ずり出した。残月の光りに照らされた子供はまだ模糊もことした血塊けっかいだった。
金将軍 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
細雨にけむ長汀ちょうていや、模糊もことして隠見するみどりの山々などは、確かに東洋の絵だ。
その印象は睡眠中に見た夢と同じように影薄く模糊もことしてしまうのである。
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
このようにいいつづけて来ればすでに一つの印象を得られたであろうように、多くは模糊もこたる水蒸気のへだての中から見るか、雲霧の流れに一部はかくれ、一部は現われたものを見るのである。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
水天のきわ模糊もことして横たわっているのさえ、のどかに見えた。
船医の立場 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
なにもかも模糊もことした霧に包まれたままだった。
日本婦道記:藪の蔭 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
まだ五月雨さみだれぞらの定まりきれないせいか、今朝も琵琶湖びわこ模糊もことして、降りみ降らずみの霧と小波さざなみに、視界のものはただ真っ白だった。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と、本流の水はまた一つの三角洲を今度は左に押しつめて、広く広くななめに、河幅を右へ右へと開いてゆく。おお、また渺々びょうびょうとして模糊もこたる下流。
木曾川 (新字新仮名) / 北原白秋(著)
そして、しかしそれぞれの顔が見わけられるほどま近に——目の下に来たと思うと、彼の目先はふいに模糊もことした。阿賀妻は沖に向って顔をそむけた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
昨年九月一日被服廠跡ひふくしょうあとで起った火焔の渦巻を支配したと同じ方則がここにも支配しているのだろうと思って、一生懸命に眺めていたが、この模糊もことした煙の中から
雑記(Ⅱ) (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
ふっと気がついたときには、白髪の老人になっていた。遠い。アンドレア・デル・サルトとは、再び相見ることは無い。もう地平線のかなたに去っている。雲煙模糊もこである。
八十八夜 (新字新仮名) / 太宰治(著)
或は(特別なる時勢の結果として)国民性全分の影其のものの頗る模糊もことしてらへがたきものあるにも因せざるか、(後に論じたるが如く)し後者に一面の理ありとせば
国民性と文学 (新字旧仮名) / 綱島梁川(著)
「夜想曲」は「雲」と「祭」と「シレーヌ」の三曲から成り、ドビュッシーの名声めいせい決定的けっていてきにした佳作である。きわめて模糊もこたる印象を描いた、新鮮にして香気の豊かな曲だ。
楽聖物語 (新字新仮名) / 野村胡堂野村あらえびす(著)
余は模糊もこたる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて、たちまちこの欧羅巴ヨオロツパの新大都の中央に立てり。何等なんらの光彩ぞ、我目を射むとするは。何等の色沢ぞ、我心を迷はさむとするは。
舞姫 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
そのうちに、天地は、磨ぎ水を流したような模糊もことした色で、いっぱいに立てこめられました。月は隠れたのではないが、この白色の中に光が、まんべんなく溶け込んだものでしょう。
大菩薩峠:38 農奴の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
遠くから見ていると暮色蒼然ぼしょくそうぜんたる波の上に、白いはだえ模糊もことして動いている……
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
下手奥は、夜眼にも白き大河、彼岸は模糊もことして砂漠につづき、果ては遠く連山につながる。その砂漠に、軍兵の天幕の灯、かがり火など、閃々せんせんとしてはるかに散らばる。降るような星空の下。
そしてそういう感情の共通からは、子供(まだ女のかおりに浸ってる模糊もこたる存在)から一個の男子が現われてきたときには、もう何にも残らなかった。ジャックリーヌは苦々にがにがしげに息子むすこへ言った。
何か模糊もことしたものが、まじろぎもせずに、じぶんをみつめている。
キャラコさん:06 ぬすびと (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
模糊もこたる夕靄ゆうもやの中に点々と眼に入りました。
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)