おくび)” の例文
僕は一言もなかったのみならず、彼女が美人だということはおくびにも出さなかった。斯かる場合、沈黙こそは家庭円満の安全弁である。
青バスの女 (新字新仮名) / 辰野九紫(著)
つまりは持地が三倍もの価でうれた当今の人間の腹からこそひとりでに出るおくびのようなものだと、余りいい気持でもきけないわけである。
昔の火事 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
その後二週間ばかりの間、彼はそのことを、おくびにも出さなかったが、ふとある日の午後、私が外出しようとしているところを呼び止めた。
のっそりとおくびをしたり、眼をぱちくりさせたり、たてがみを振ってみたり、——それにもう刈りとられて仕舞うその早さ。あくなき人の残酷さ。
喰いたくもねえものを勿体もってえねえ、お附合いに買うにゃ当りやせん、食もたれのおくびなんぞで、せせり箸をされた日にゃ、第一うおが可哀相だ。
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
婆芸者が土色したうすっぺらな唇をじ曲げてチュウッチュウッと音高く虫歯を吸う。請負師が大叭おおあくびの後でウーイと一ツおくびをする。
深川の唄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
ずらかって来た兇状持ちだ。悪いこたあいわねえから、おれと、なんかあったなンていうこたあ、おくびにも、他人ひとにいわねえ方がおめえのためだぜ
治郎吉格子 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
松浦さんにしても奥さんにしても、そんなふうおくびにも出さなかった。生活は贅沢ぜいたくだが、少しも見識張っていない。新太郎君は何かの話の切っかけに
脱線息子 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
私が沼南と心易こころやすくなったはその後であった。Yが私の家へ出入でいりしていたのを沼南はく知っていたが、私も沼南もYの名は一度でもおくびにも出さなかった。
三十年前の島田沼南 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
住持おつさんは町に米騒動の起つてる事を話して、預かつた米俵の一件は誰にも洩してはならない、よしんば本尊様の前であらうと、おくびにも出すのではない
ある朝酒月が宿酔ふつかよいおくびで咽喉を鳴らしながら噴水の傍を通りかかり、フト思いついた悪計だったのである。
魔都 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
過般、かれは地中海の最深処で投身する旨を声明したが、その実施期日たる十二月二十五日は、すでに過ぎ去つて了つたことなど、かれはおくびにも出したくないと言ふのだ。
希臘十字 (新字旧仮名) / 高祖保(著)
さきに柿の木の上で助けてくれ助けてくれと泣き声を出したことなどはおくびにも出さず、鬼の三匹も退治して来たようなことを言っているから、兵馬はイヤな奴だと思います。
叔父に毒薬を与えた本人が知れたのとはおくびにも出されぬ訳だ、何たる辛い場合だろう、併し夫にしても秀子を探し出さぬ訳には行かぬ、探し出して何とかせぬ訳には行かぬ。
幽霊塔 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
「しめた!」と多四郎は思ったがそういう様子はおくびにも出さず至極しごく真面目の顔付きで
八ヶ嶽の魔神 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
もどかど歌川うたがわかじを着けさせ俊雄が受けたる酒盃さかずきを小春にがせておむつまじいとおくびよりやすい世辞この手とこの手とこう合わせて相生あいおいの松ソレと突きやったる出雲殿いずもどのの代理心得、間
かくれんぼ (新字新仮名) / 斎藤緑雨(著)
それでもその当座、あずけてあった氷屋の神さんに、二度ばかりあのうちへつれて来てもらったことがあったよ。私も一度行きましたよ。もちろん母親だなんてことは、おくびにも出しゃしなかったの。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
無教育で薄情で利慾にかつえ、一片のパンのことでも口汚なく罵り、粗野で下等でゆかへ唾を吐きちらし、食事中でも祈祷の時でも平気でおくびを出すような、そういう人たちの間で育ったのだったら
決闘 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
友太の生母のことなどはおくびにも出さなくなった。
和紙 (新字新仮名) / 東野辺薫(著)
過日の、広芝の件はおくびにも出さないで、真っ向へこう探りを入れてみましたが万太郎もここへ来る間に、相当の応酬の用意をもっていたとみえ
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ここにおいて、或る人は、帝国ホテルの西洋料理よりもむしろ露店の立ち喰いにトンカツのおくびをかぎたいといった。
銀座 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
金之助は色気のないおくびをし、垢抜あかぬけのした目のふちに色を染め、呼吸いきをフッと向うへ吹いて、両手で額を支えたが
三枚続 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
広岡氏は辞書といふものは色々いろんな事を教へて呉れるものだと感心した。そしてそれからといふものは博士の前では忘れてもクンカンの事はおくびにも出さないやうにしてゐた。
自分の口の中へ入るというようなことをおくびにも人に示したことはありませんから、はじめて和尚を見た人は、さても円い面の人があるものだと驚き、次に大きな口もあればあるものだと驚き
大菩薩峠:15 慢心和尚の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
母などはおくびにも、父の前では愚痴もこぼせなかったし、ふと顔いろに出してさえ、忽ち食卓が引ッくり返された。
時々は目をつぶって遠慮なくおくびをしたのち身体からだを軽く左右さゆうにゆすりながらお豊の顔をば何の気もなく眺めた。
すみだ川 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
おくびをするかと思うと、印半纏しるしばんてんの肩をそびやかして、のッとく。新姐子しんぞっこがばらばらとけて通す。
露肆 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
宰相は途々みちみち馬や、お天気や、英吉利の政治家の噂などそんな下らない事ばかり話して、用談らしい事は一向おくびにも出さなかつたが、馬車が維也納でも名うての汚い町へ入つて来ると、急に慌て出した。
「ところが、剛情な奴で、お玉の行方も申し上げなければ、お玉に手引をさせて自分が盗んでいながら、自分の盗んだことはおくびにも白状をしないので、お奉行所でもてこずっているそうでございます」
大菩薩峠:06 間の山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
時々は目をつぶつて遠慮ゑんりよなくおくびをしたのち身体からだを軽く左右さいうにゆすりながらおとよの顔をばなんもなくながめた。
すみだ川 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
と、いつかあによめにも訴えたが、そのまま会えずにいたのだった。けれど、兄の今のことばと、真情にうるんでいる眸を見ては、そんなことは勿論、おくびにもいえなかった。
旗岡巡査 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「いんや、馬丁べっとう……貞造って……馬丁でね。わっしが静岡に落ちてた時分の飲友達、旦那が戦争に行った留守に、ちょろりとめたが、病着やみつきで、おくびの出るほど食ったんだ。」
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
ひと月前までは、おくびにも出なかったことばを、俄然、信念化して、たたえる言葉をさがし合った。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
……御威勢のほどは、後年地方長官会議のせつに上京なされると、電話第何番と言うのが見得みえの旅館へ宿って、ねぎおくびで、東京の町へ出らるる御身分とは夢にも思われない。
国貞えがく (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
虫喰みたるサラドの葉いかがわしき牛乳入の珈琲は煙草よりも衛生に害あるべく蕎麦鮓汁粉南京豆を貪って満腹のおくびを吐くは所謂「考えさせる劇」を看て大に考えんとするに適せざるものなり。
偏奇館漫録 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
明治になってから以後は、旗岡剛蔵と変名して、東京警視庁の巡査を拝命し、自分が桜田事変に加わっていた一浪士であるなどという事は、おくびにも、人に語った例がない。
旗岡巡査 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
お前は世間体というものを知ってるから、平生、吾が健全たっしゃな時でも、そんな事はおくびにも出さないほどだ。それが出来るくらいなら、もうとっくに離別わかれてしまったに違いない。
化銀杏 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「さあ、泣かずに歩け。きょうからはわしの子だ。可愛がってやる代りに、おくびにも、ゆうべのことをひとに喋舌しゃべるな。——喋舌しゃべるとすぐ、その首を捻じ切ってしまうぞよ」
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
落ちたといっちゃ勿体ない、悪所から根を抜いて、おかげさまでこうやって、おもりをしているんだがね。お嬢さんが、洲崎になんぞ、お前、そんなことをおくびに出したって済まないよ。
式部小路 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「それもあてにはすまい。殿御自身からして、おくびにもそれにはお触れにならぬところを見ても、悲壮なお覚悟のほどがうかがわれる。われらも共々、殿と同じ心であればよい」
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
鰻のにおいも鼻に附いて食いたくなし、たい脂肪あぶら濃し、天麩羅てんぷらはしつッこいし、口取もあまったるしか、味噌吸物は胸に持つ、すましも可いが、恰好かっこうな種が無かろう。まぐろの刺身はおくびに出るによ。
貧民倶楽部 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
おくびにもそれを告げず、後での悔いやら泣きを見せるのは、男として、高氏は自身に恥じる。
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
明前あかりさきへ、突立つったってるのじゃあございません、脊伸をしてからが大概人のしゃがみます位なんで、高慢な、澄した今産れて来て、娑婆しゃばの風に吹かれたという顔色かおつきで、黙って、おくびをしちゃあ、クンクン
政談十二社 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
だが、お八重は、おくびにも、彼との事などを、酉兵衛とりべえらしている気遣きづかいはなかった。
無宿人国記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
心からでございましょう、誰の挨拶もけんもほろろに聞えましたけれども、それはもうお米にうたがいがかかったなんぞとは、おくびにも出しませんで、逢って帰れ! と部屋へ通されましてございます。
政談十二社 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
……だが、頼朝が天下を取ってからは、あのおべッか者は、一人としておくびにもさようなことはいい出さぬ。狡獪こうかいな頼朝は口を拭いて、知らぬ顔にこの言葉をほうむろうとしている——。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そら、ポンプだ、というと呵々からからと高笑いで、水だらけの人間が総崩れになる中を澄まして通って、井戸端へ引返ひっかえして、ウイなんて酔醒よいざめの胸のすくおくびでね、すぐにまた汲み込むと、提げて行くんです。
式部小路 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
利家にたいし、たのむというようなことは、日頃なら、おくびにもいう玄蕃允でない。
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それ、えへん! と云えば灰吹と、諸礼躾方しつけかた第一義に有るけれども、何にも御馳走をしない人に、たといおくび葱臭ねぎくさかろうが、干鱈ひだらの繊維がはさまっていそうであろうが、お楊枝ようじを、と云うは無礼に当る。
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
合戦がどうの、源氏がどうの、平家が——とそんな噂はおくびにも出さないのである。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)