蚊帳かや)” の例文
仕舞には只今番頭が一寸ちよつとましたから、帰つたら聞いて持つて参りませうと云つて、頑固に一枚の蒲団を蚊帳かや一杯に敷いて出て行つた。
三四郎 (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
日常、礼儀作法のやかましいお方が、いかにお従兄弟いとこの仲とはいえ、蚊帳かやの中にはいって、しきりと、密談遊ばしているのだった。
茶漬三略 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
廊下へ出るのは気がかりであったけれど、なおそれよりも恐ろしかったのは、その時まで自分が寝て居た蚊帳かやの内をうかがって見ることで。
悪獣篇 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
お鈴と二人でやっなだめて、房吉から引離して、蚊帳かやのなかへ納められた隠居がしずまってからも、お島はじっとしてもいられなかった。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
葉子はやがて打ち開いた障子から蚊帳かや越しにうっとりと月をながめながら考えていた。葉子の心は月の光で清められたかと見えた。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
小さなめいの首の火傷やけどに蠅は吸着いたまま動かない。姪ははしを投出して火のついたように泣喚なきわめく。蠅を防ぐために昼間でも蚊帳かやられた。
廃墟から (新字新仮名) / 原民喜(著)
当主はそれから一年余り後、夜伽よとぎの妻に守られながら、蚊帳かやの中に息をひきとつた。「蛙が啼いてゐるな。井月せいげつはどうしつら?」
(新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
どうせお帰りにならない夫の蒲団を、マサ子の蒲団と並べて敷いて、それから蚊帳かやりながら、私は悲しく、くるしゅうございました。
おさん (新字新仮名) / 太宰治(著)
通る人も通る人も皆歩調あしどりをゆるめて、日当りを選んで、秋蠅の力無く歩んで居る。下宿屋は二階中をあけひろげて蚊帳かや蒲団ふとんを乾して居る。
茗荷畠 (新字旧仮名) / 真山青果(著)
見ると大きなベッドのまわりには、天井から蚊帳かやの様な薄絹が垂れて、その中にスヤスヤ眠っている京子の顔が、うっすりと見えている。
恐怖王 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
蚊帳かやの外に立っているのは、女は女に違いないけれども、女の姿をした鬼であります。臆病な金助にはたしかにそう見えました。
大菩薩峠:17 黒業白業の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
「行田文学」にやる新体詩も、その狭い暑苦しい蚊帳かやの中で、外のランプの光があおい影をすかしてチラチラする机の上で書いた。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
早々そうそう蚊帳かやむと、夜半よなかに雨が降り出して、あたまの上にって来るので、あわてゝとこうつすなど、わびしい旅の第一夜であった。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
慣れない床、慣れない枕、慣れない蚊帳かやなかで、そんなに前後も知らずに深く眠られたというだけでも、おげんに取ってはめずらしかった。
ある女の生涯 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
絞められて蚊帳かやのなかに死んでいたんです。不思議じゃありませんか。人の執念はおそろしいもんだと、近所の者もみんなふるえていますよ
半七捕物帳:05 お化け師匠 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
身体の調子はすこぶる良いのだが、肉体労働が少し過ぎるらしい。夜、蚊帳かやの下のベッドに横になると、背中が歯痛のように痛い。
光と風と夢 (新字新仮名) / 中島敦(著)
そうした或夜のこと、たいてい話したいことも話し尽して、ふと言葉が途切れたとき、古蚊帳かや買いだという中年の、庄さくと呼ばれる男が
足軽奉公 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
ぷうんとは、やつとげるにはげたが、もうせま蚊帳かやなかがおそろしくつて、おそろしくつてたまらなくなりました。
ちるちる・みちる (旧字旧仮名) / 山村暮鳥(著)
宿屋の一と間に蚊帳かやって寝てて、それが六畳ぐらいの狭い座敷で、同じ蚊帳の中に、私と光子さん中にはさんで両端に夫とお梅どん寝てる。
(新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
道阿弥の首を賞翫しょうがんしながら、若夫婦が蚊帳かやの中の寝床でさかずきの遣り取りをするのも、草双紙の趣向にもありそうなことである。
武州公秘話:02 跋 (新字新仮名) / 正宗白鳥(著)
自分も母にねだって蚊帳かやの破れたので捕虫網を作ってもらって、土用の日盛りにも恐れず、これを肩にかけて毎日のように虫捕むしとりに出かけた。
花物語 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
布団頼母子ふとんたのもしを落して、いね自身長い間の倹約の末、ようやくの思いで買いととのえた客用の新しい麻の蚊帳かやと、一組の布団を土産みやげにもたせた。
(新字新仮名) / 壺井栄(著)
蚊帳かやがこうってあって、其の中に萩原様と綺麗な女がいて、其の女が見捨てゝくださるなというと、生涯見捨てはしない
部屋に這入ると、手探りで蒲団ふとんを敷いて蚊帳かやった。寝間着ねまきに着かえる力もなく、そのまま私はふとんの上に寝そべった。
ぽん太というのは蚊帳かやを着物に仕立て直し、その蚊帳の四隅のかんを紋の代わりに結いつけてすましていた変わり者だった。
円太郎馬車 (新字新仮名) / 正岡容(著)
赤ん坊のころ、若い母親の不注意から、つりらんぷの下へ蚊帳かやを釣って寝させておいたら、どうした事か洋燈ランプがおちて蚊帳の天井が燃えあがった。
我々は空地の樹の傍に蚊帳かやって子供たちを寝せてから、茄子なす畑のそばで茫然としてこの火を眺めながら夜を明かした。
地異印象記 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
蚊帳かやのなかにわだかまる闇の裡に私らのさざめきは聞こえた。黙契の裡に談話を廃して後しばらくして、「蛙が鳴くなあ」兄の声はしめやかであった。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
「それから昼に言はうと思つて忘れてゐたけど、昨夜ゆうべあたりはもう蚊が二三匹出て寝られなかつたから、今夜はぜひ蚊帳かやを吊りたいんだがね。」
桑の実 (新字旧仮名) / 鈴木三重吉(著)
雪もよいの風は鋭くほほを削った。その針はどんな防寒具でも通すのだから、水夫らの仕事着などは、蚊帳かやのようであった。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
万作は黙つて聞いてゐましたが、ふと十二年前に国を出る時、おつ母さんに蚊帳かやの約束をした事を想ひ出しましたから
蚊帳の釣手 (新字旧仮名) / 沖野岩三郎(著)
蚊帳かやの用意がなかったので、十月のなかばまで難渋なんじゅうした。蚊ばかりではない。名も知らない虫が、あかりを慕って来る。
果樹 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
それは某夜あるよ、夫婦で床に就いて、細君は早く眠り、寛一郎一人がうつらうつらしていると、どこからともなく火の玉が来て、蚊帳かやの上を這いだした。
掠奪した短刀 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
舞台は、上手かみて障子内に蚊帳かやを吊り、六枚屏風を立てて、一体の作りが浪人住居ずまいの体。演技はすでに幕切れに近かった。
人魚謎お岩殺し (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
朝六時睡む。蚊帳かやはづさせ雨戸あけさせて新聞を見る。玉利博士の西洋梨の話待ち兼ねて読む。印度インド仙人談完結す。
病牀六尺 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
夏の夜更よふけの、外は露気を含んで冷や冷やと好い肌触はだざわりだけれど部屋の中は締め込んでいるのでむうっと寝臭い蚊帳かやの臭いに混ってお前臭いにおいが
うつり香 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
その日の晩、十二時はとくに打ったのに、つけっぱなしの電燈の下に、蚊帳かやは広々と、美和子の寝床はからであった。
貞操問答 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
白い蚊帳かやのなかで、わざと、激しく、ゆき子は、扇をつかつてゐた。二人の唇のなかには、さつき、芝生で飲んだ、シェリー酒の匂ひがこもつてゐる。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
暑いので、開け放した縁からの月光に、蚊帳かやが揺れていた。お久美のうえに、庄吉の顔が大きくひろがっていた。
あの顔 (新字新仮名) / 林不忘(著)
白い蚊帳かやのついた寝台ねだい籐編とうあみの椅子と鏡台と洗面器の外には何もない質素な一室である。壁には画額ゑがくもなく、窓には木綿更紗もめんさらさ窓掛まどかけが下げてあるばかり。
海洋の旅 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
蚊帳かやだの、針金で鉢巻をした大きな瀬戸火鉢だの、古い新聞紙や古電球なぞをジロジロ見まわしているようであったが、やがて、今までとは丸で違った
鉄鎚 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
実は白いきれを四方にさげた、日本の蚊帳かやのようなもんで、その下からは大きな灰いろの四本のあしが、ゆっくりゆっくり上ったり下ったりしていたのだ。
黄いろのトマト (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
旗本の相当の人で、蚊帳かやの無い人があった。鎧をもっている人はまれだった。百石百両という相場で、旗本の株を町人に譲って、隠居する人が、多かった。
近藤勇と科学 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
その程度のお嫌いなんですかね? 私はまた、青い顔をして蚊帳かやでもお吊りになるんだと思ってたんですがね。
雷嫌いの話 (新字新仮名) / 橘外男(著)
そしたら着物を着てやろうというので蚊帳かやで着物を拵え素透すどおしでよく見えるのに平気で交番の前を歩いていた。
回想録 (新字新仮名) / 高村光太郎(著)
玄関の次のへやにつってある蚊帳かやの端っぽが、開いたふすまから見えた。その中で突然わっと女の泣き声が爆発した。
夏の夜の冒険 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
「それでわしは、すぐ蒲団から出るとわしの枕を抱えて、押入れの中に逃げこみました。そして蚊帳かやを頭から引被って、外の様子に聞耳を立てていました」
地獄の使者 (新字新仮名) / 海野十三(著)
「馬鹿野郎、猿曳さるひき見たいなことを言やがつて、——寢付きの惡いのは、蚊帳かやにでつかい穴が開いてたせゐだ」
写生図は完全にごちゃごちゃな私の大鞄、私が眠る時使う日本の枕、蚊帳かやにかぶせた筵、箱に入った双眼鏡、椅子にのせた日本の麦藁帽子を、示している。
清浄な蒲団ふとんにおいのいい蚊帳かやのりのよくきいた浴衣ゆかた。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。ねがわくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。
檸檬 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)