忿怒ふんぬ)” の例文
彼は元の場所に坐ったまま、込み上げて来る忿怒ふんぬをじっと圧えつけていた。思掛けぬ発見に思慮を失うまいとして全力を尽していた。
二癈人 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
こらえんとしても彼の四は、髪の根のしまるような忿怒ふんぬのために、身ぶるいを刻んで手の痛くなるまで鉄格子の下に握りしめている。
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
かれはまず、主家百年のために忿怒ふんぬの声をあげた。かかる文弱の徒に政治を渡しては、勝山一藩の運命は見るべきのみ、と叫んだ。
(新字新仮名) / 山本周五郎(著)
勝造の忿怒ふんぬの視線を辿ると、人垣の後ろから、二十五六の化粧の上手な女が、赤い唇を歪めて、冷たい笑いを送っているのでした。
天皇は日頃にも似ず、上皇に対して直々諷諫ふうかんをこゝろみた。上皇の忿怒ふんぬいかばかり。その日を期して、二人はまつたく不和だつた。
道鏡 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
三吉は家の内部なかを見廻した。彼とお雪の間に起った激しい感動や忿怒ふんぬは通過ぎた。愛欲はそれほど彼の精神こころを動揺させなく成った。
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
尾田は真面目なのか笑いごとなのか判断がつきかねたが、その太ぶとしい言葉を聞いているうちに、だんだん激しい忿怒ふんぬが湧き出て来て
いのちの初夜 (新字新仮名) / 北条民雄(著)
むツと忿怒ふんぬの氣が義雄のあたまにのぼつた。そして、やツぱり女郎は女郎だと思ふと、わざと思ひ切つて、高砂樓かその他へ行きたくなつた。
泡鳴五部作:04 断橋 (旧字旧仮名) / 岩野泡鳴(著)
及び忿怒ふんぬ(彼に対して、ある者が、服従もしくは柔順の態度を誤ってよそわなかった時に、彼の忿怒は必ず惹起されるから)
列強環視の中心に在る日本 (新字新仮名) / 大隈重信(著)
そこへ来ているはずの手紙も見たかったし、絶望的な細君に対する不安や憐愍れんびんの情も、少しずつ忿怒ふんぬの消え失せた彼の胸に沁みひろがって来た。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
四天王とは、内心慈悲を蓄えながら、方法上、忿怒ふんぬの姿において人々を信服せしむる慈勇の魂を象徴したものであります。
仏教人生読本 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
この病院の医長の療法にしたがって頸筋くびすじ発泡膏はっぽうこう塗布とふするためであったが、部屋の様子を一目みると、彼は恐怖と忿怒ふんぬに取っかれてしまった。
そうっている夫人の顔には、もうあの美しい微笑は浮んでいなかった。少しく、忿怒ふんぬを帯びた顔は、振い付きたいような美しさで、輝いていた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
クリストフは憎悪の眼でいどみかかり、忿怒ふんぬのあまり身を震わしていた。メルキオルもまた震えだした。それから腰を降ろして、両手に顔を隠した。
忿怒ふんぬの形相)お前を蛇体と思うのは、人間の目だと云うに。おれの……魔……法。許さんぞ。女、悲しむものは殺す。
海神別荘 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
彼は彼なりに心の中では言分いいぶんが無いでもない。いわゆる君子なるものが俺と同じ強さの忿怒ふんぬを感じてなおかつそれを抑え得るのだったら、そりゃ偉い。
弟子 (新字新仮名) / 中島敦(著)
時がたつと復讐のねがひも消え失せ、忿怒ふんぬと嫌惡にはやる心ももくしてしまふことは有難いことである。私は苦痛と憎惡の裡にこの女の許を立ち去つた。
gn をロシア流に hn にする一方で、「忿怒ふんぬ」から「心」を取り去って、呉音で読めば hnn である。
言葉の不思議 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
……そこへ、二人の後ろから、体じゅう血だらけのベロヴゾーロフが、むくむく起き上がって、青ざめた唇を開くと、忿怒ふんぬにわななきながら、父をおどかすのだった。
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
今し、また燃えさかった炉火で見ると、赤々と照らされた黒光りの肌と、忿怒ふんぬの形相、それは宮本武蔵が刻んだという肥後の国、岩戸山霊巌洞の不動そっくりの形です。
大菩薩峠:36 新月の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
高さ一尺二、三寸の銅像で、左の足で蓮花を踏み、右の足を高く上げ、左の手は腰にあて、三鈷さんこを持った右の手を頭上に振りかざし、やや忿怒ふんぬの相を帯びた半裸体のものである。
金峰山 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
それらの中を一人の頑丈な、陰鬱な大男が沈黙と絶望の冷やかな足取りで歩きながら、こうした人々の心に不快と、忿怒ふんぬと、なんとはなしに悩ましげな倦怠とをいて行った。
忿怒ふんぬ身顫みぶるいが傍聴人たちの間をつたわって行った。論告をおわって検事が着席すると
(新字新仮名) / ギ・ド・モーパッサン(著)
いっそ飛びかかって白い喉笛のどぶえを食い切ってやろうかとまで、劇しい忿怒ふんぬにかられていた。
お小姓児太郎 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
矜羯羅が柔和で立像、制吒迦が岩へ「踏み下げ」て忿怒ふんぬの相、不動の本体は安座あんざであって、片手が剣、片手が縛縄ばくなわ天地眼てんちがんで、岩がある。岩の中央に滝、すなわち水の形を示している。
ソフィヤ・リヴォヴナはその声の中にあざけるような調子のあるのをもらさなかった。何か辛辣しんらつなことを言ってやりたかったが、黙って我慢した。またもや忿怒ふんぬがむらむらといて来た。
夜更けには、この嗣二の部屋から、押し殺された実に奇妙な声が、二間ふたまほど隔てた私の部屋にまで伝はつて来ることがあつた。それはある時は嗚咽であり、ある時は忿怒ふんぬの叱声であつた。
母たち (新字旧仮名) / 神西清(著)
しかもそれ等の霊魂は、死の瞬間におい忿怒ふんぬに充ち、残忍性に充ち、まるで悪鬼あっき夜叉やしゃの状態に置かれて居る。そんなのが、死後の世界から人間世界に働きかけて、いつまでも禍乱からんの種子を蒔く。
堂々たるその勇姿、絶倫の性慾、全身の膨脹、悪戦苦闘の恐るべき忿怒ふんぬ相と残虐性亢奮こうふんとは今や去って、傲然たる王者の勝利感と大威力とに哄笑し快笑し、三度また頭を高く、激しくうち振った。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
川地は忿怒ふんぬの声荒々しく「九州炭山の同盟罷工教唆けうさも虚報と云ふのか」
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
忿怒ふんぬげんずる明王みやうわう
泣菫詩抄 (旧字旧仮名) / 薄田泣菫(著)
帛紗ふくさのまま押しやったのは、どう少なくみても、百両は下らなかったでしょう。が、それを見ると松五郎の忿怒ふんぬは爆発点に達しました。
天皇は日頃にも似ず、上皇に対して直々諷諫ふうかんをこころみた。上皇の忿怒ふんぬいかばかり。その日を期して、二人はまったく不和だった。
道鏡 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
蝙也の体を忿怒ふんぬが走った、山根道雄は前後の判断も喪ったらしく、獣のように猛然と斬りつけた。刹那! 蝙也の体が沈んで
松林蝙也 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
わが御主君たるゆえに、非には目をふさぎ、理には事を曲げて、いて忿怒ふんぬの言をろうし、信長公を故なくうらむ仔細では断じてございませぬ。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それから今の巡査とに對して押さへてゐた忿怒ふんぬを一緒にして、この言葉と同時に、かの女の横ツつらを思ひ切りなぐつた。
数日の後、その出来事を知ると、メルキオルは恐ろしい忿怒ふんぬにとらわれた。そしていかにクリストフが願っても聞き入れないで、宮邸に怒鳴り込んでいった。
それから忿怒ふんぬを感じた。そしてその次には彼女に打ち勝たう——彼女の性質がどうあらうとも、意地が強からうとも、こつちが上手うはてに出ようといふ決心を抱いた。
二人ははじかれたように取っ組んだ両手を離した。改めて二人は互の顔を見た。許すまじき忿怒ふんぬの相を認め合って殺気立った。ついに劇しい素手の拳闘が始まってしまった。
決闘場 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
しゅろはこの打擲ちょうちゃくにたえかねて、葉をわなわなとふるわせるのでありました。おお、もしも彼女に声があったなら、どんなに物すごい忿怒ふんぬの叫びを、園長は耳にしたことでありましょうか。
僕は忿怒ふんぬの余り躍り上った、そいつこそ、越野が教えて呉れたその男こそ、憎んでも憎んでも憎み足りない奴だった。僕は直ぐ様、そいつの家へ飛んで行って、掴み殺してやろうかと思った位だ。
恐ろしき錯誤 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
忿怒ふんぬ面相めんさう、しかしあつてたけからず、大閻魔だいえんままをすより、くちをくわつと、唐辛子たうがらしいた關羽くわんうてゐる。したがつて古色蒼然こしよくさうぜんたる脇立わきだち青鬼あをおに赤鬼あかおにも、蛇矛じやぼう長槍ちやうさう張飛ちやうひ趙雲てううんがいのないことはない。
深川浅景 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
そう語りつづけるうちに、幸右衛門は燃え上がる忿怒ふんぬのやり場もなく、唇を噛み、拳を握って、ほうり落ちる涙を横でに払うのでした。
いかれる獅子ししのまえにはなにものの阻害そがいもない。忍剣はいま、さながら羅刹らせつだ、夜叉やしゃだ、奸譎かんけつ非武士ひぶし卑劣ひれつ忿怒ふんぬする天魔神てんましんのすがただ。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
文学者の風上かざかみに置けぬ奴と宣言を発し、忿怒ふんぬ、憎悪、三ヶ年、憎さも憎し、然し、ふと、苦悩のたびに奴を思う。
オモチャ箱 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
自分の言葉を信じない彼等の頑迷さ、あす父に対面しようとする子を、その直前に斬ろうとする非道、又三郎は生れて初めて火のような憎悪と忿怒ふんぬに駆られた。
野分 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
さう信じると、私の脈搏の中には、リード、ブロクルハースト一味の人々に對する火のやうな忿怒ふんぬの衝動が湧き立つた。私は、決してヘレン・バーンズではなかつた。
今まで胸にこみ合っていたさまざまの忿怒ふんぬのかたちは、太陽の光に当った霧と消えてしまった。
耽溺 (新字新仮名) / 岩野泡鳴(著)
しかしそれは、クリストフの忿怒ふんぬを面白がってるからではなかった。否反対に、彼はその忿怒を恐れていた。それでも彼はクリストフを苦しめて、自分の力を確かめるのだった。
台傘がさっと斜めになった。が、丸官の忿怒ふんぬは遮り果てない。
南地心中 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)