憧憬あこがれ)” の例文
悦びに違ひなかつた……どうして憧憬あこがれの心などを起したのだらうかと不思議にさへ思はるゝ程楽しい夢の中に居たのに、と思はれた。
嘆きの孔雀 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
二十一歳のショパンは、とうとう憧憬あこがれのパリにはいった。一八三一年のパリは文字通り世界文化の中心で、さながら燎乱りょうらんの花園であった。
楽聖物語 (新字新仮名) / 野村胡堂野村あらえびす(著)
……といえば、笑うであろうが、そもそも自分は下賤げせんの生れで、青少年のむかしより、深窓の花には、ひとつの憧憬あこがれをもっていたものじゃ。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そうして父の後をいで弁護士となって、正義の為に幾多の事件を争った。清川は青春時代の憧憬あこがれのまま文学を学び、戯曲家として世に出た。
正義 (新字新仮名) / 浜尾四郎(著)
僕の憧憬あこがれの国といってもいい位なんです。今度の卒業論文にも支那の降神術に関する文献の事を書いておいたんですが……。
狂人は笑う (新字新仮名) / 夢野久作(著)
成功と活動とのみに飢えかつえているような荒いそして硬い彼女の心にも、そんな憧憬あこがれと不満とが、沁出しみださずにはいなかった。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
さむらいは実に封建時代に於ける世人憧憬あこがれまとであった。しかし「さむらい」の語は、もと決してそんなえらいものではなかった。
けれどもその「綺羅びやか」に「美しく」しかもそれが罪であるという印象は、奈尾にとって胸のときめく秘やかな憧憬あこがれの一つだったのである。
合歓木の蔭 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
やがて、世のさまとて、絶えてその人のおもかげを見る事の出来ずなってから、心も魂もただ憧憬あこがれに、家さえ、町さえ、霧の中を、夢のように徜徉さまよった。
小春の狐 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
純白の広東縮緬カントン・クレエプの客間着に銀の帯を〆め憧憬あこがれに満ちたあどけない眼を見開きながら、希望の条々につき、綿々とコン吉をかき口説くのであった。
したがって美に対する憧憬あこがれが強く、当時の婦人は決して、勇敢なる子孫や賢明なる子女を欲しいとはこいねがいませんでした。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
竹山自身も亦、押へきれぬ若い憧憬あこがれに胸をそそのかされて、十九の秋に東京へ出た。渠が初めて選んだ宿は、かの竹藪の崖に臨んだ駿河台の下宿であつた。
病院の窓 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
Kの憧憬あこがれは其処にも此処にもその常子の面影を見、呼吸を感じ、そのやさしい存在を描くことが出来るほどそれほど強く色彩いろづけられてあつたけれども
ひとつのパラソル (新字旧仮名) / 田山花袋田山録弥(著)
憧憬あこがれている旅の楽しさについて物語る時、マルクス主義の立場で経済論を書くローザはいつともなく黙祷だの、美しさだの、神秘だのの感情に溺れている。
生活の道より (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
ところが、日数ひかずが経つに従って、一つの已みがたい熱望が彼等をとらえた。それは陸地に対する憧憬あこがれであった。
あつ氣候きこう百姓ひやくしやうすべてをその狹苦せまくるし住居すまゐからとほさそうて、相互さうごその青春せいしゆんのつやゝかなおもかげ憧憬あこがれしめるのに
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
その美しい憧憬あこがれの惱みを通して、誹笑の聲が錐のやうにみのるの燃る感情を突き刺してゐた。池の端の灯を眺めながら行くみのるの眼はいつの間にか涙んでゐた。
木乃伊の口紅 (旧字旧仮名) / 田村俊子(著)
プラアテルの静かな四阿屋で、緑の木立の中の春のを味いたいという男の憧憬あこがれが女にも伝わった。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
憧憬あこがれをお持ちになるのは東の女王にょおうのほうであったから、花の返事も明瞭めいりょうにあそばしたくないお気持ちがあって、翌朝若君の帰る時に、感激のないただ事のようにして
源氏物語:45 紅梅 (新字新仮名) / 紫式部(著)
人民の悉くが母乳を欲するように心から憧憬あこがれているのは、人間味豊かな為政者の思いやりである。
食べもの (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
親鸞 あのころの事は忘れられないね、若々しい精進しょうじん憧憬あこがれとの間にまじめに一すじに煩悶はんもんしたのだからな。森なかで静かに考えたりあさるように経書を読んだりしたよ。
出家とその弟子 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
私はゴルファーではないが、ここのリンクスには何とも知れぬなつかしい憧憬あこがれを持つ。面積が六万坪あることや、延長が三千ヤードにおよぶことなどは、私にはどうでもいい。
雲仙岳 (新字新仮名) / 菊池幽芳(著)
柾木愛造は、輝くばかりの彼女の舞台姿に、最初の程は、恐怖に近い圧迫を感じるばかりであったが、それが驚異となり、憧憬あこがれとなり、ついに限りなき眷恋けんれんと変じて行った。
(新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
その部屋にあるものは何一つとして遠い異国に対する憧憬あこがれの心を語っていないものは無かった。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
意気地いくじのない私が案外にあれほど久しく、さびしい月日を旅の境遇に送り得たのも、つまりはやみがたい芸術の憧憬あこがれというよりも、苦しいこの問題の解決がつかなかったためです。
監獄署の裏 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
と禿頭は玻璃棚ガラスだなからクルクルと巻いたのを出しては店先にひろげた。子供には想像もつかない遠い遠いメリケンから海を渡って来た奇妙な慰藉品なぐさめを私はどんなに憧憬あこがれをもって見たろう。
山の手の子 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
『暮したし木賀きが底倉そこくらに夏三月』それは昔の人々の、夏の箱根に対する憧憬あこがれであつた。
真珠夫人 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
言いあらわしようもない憧憬あこがれの霊が彼の麻痺して疲れきった魂のしらべをかき鳴らし、心の奥深くにあって、とっくの昔に凍りついてしまったと思われていた、情緒の海をかきみだした。
あやめはしばらくその荏原屋敷を、憧憬あこがれ憎悪にくしみとのいりまじった眼で、まじろぎもせず眺めていたが、野道の上の人だかりが、にわかに動揺を起こしたので、慌ててその方へ眼をやった。
仇討姉妹笠 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
西洋の人物と国情とにある種の憧憬あこがれを抱いてゐるのだと云へないことはない。
日本映画の水準について (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
娘たちの間には、かのメントール侯こそ憧憬あこがれの星であるらしく思われた。
暗号音盤事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
そうしてそこには、確かに、我々の心の一角に触れる淡い情趣が生かされている。すなわち牧歌的イディリッシュとも名づくべき、子守歌を聞く小児の心のような、憧憬あこがれと哀愁とに充ちた、清らかな情趣である。
院展日本画所感 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
今更死んだ乳母うばに伴つて連れて歩いてもらいといふやうな幼い憧憬あこがれの気持ちもなかつたが、さればといつて、兄や婚約中の良人おっとにがつちり附添つて歩いて貰ひ度いと思ふ慾求も案外に薄かつた。
夏の夜の夢 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
東京こそみよ子にとつても憧憬あこがれの地であるのだ。
父の帰宅 (新字旧仮名) / 小寺菊子(著)
手ぬるい夢や憧憬あこがれ
南洋館 (新字旧仮名) / 与謝野寛(著)
だいなるちから憧憬あこがれ
全都覚醒賦 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
学窓を離れて五年ばかりの甘美な結婚生活にひたつて、憧憬あこがれ空想くうさうのほか、何一つ世間のことを知る機会のなかつた彼女が
質物 (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
天国でも、星の世界でも眼の前に引き寄せようとする、希望と憧憬あこがれに充ち満ちた少年らしい純情が響きあらわれていた。
暗黒公使 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
未だ見ぬ東邦諸国のいにしえへと夢のような憧憬あこがれを懐かしめたものであったが、ちょうど、ああ言ったような気持……何から何まで、見るもの聞くものが
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
このお城にある道場の古い大屋根は、彼の幼いたましいが、生涯の憧憬あこがれをもって常に仰いでいる希望の殿堂なのだ。
宮本武蔵:08 円明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ひと口にいいますと、ボクさんの星の世界への憧憬あこがれは、かんたんに敏感のせいだと形付かたちづけてしまえないようなところがあるように思われ出してきたのです。
キャラコさん:08 月光曲 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
しかも今度の帰郷に際して、ことにKに情けなかつたことは、既に三日になつても、未だに一度もその憧憬あこがれの心を満足させることが出来なかつたことである。
ひとつのパラソル (新字旧仮名) / 田山花袋田山録弥(著)
が、一刻も早く東京へ——ただその憧憬あこがれに、山も見ず、雲も見ず、無二無三むにむさんに道を急いで、忘れもしない、村の名の虎杖いたどりに着いた時は、つえという字にすがりたいおもいがした。
栃の実 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
この時以来薫は藤侍従の部屋へやへよく来ることになって、姫君への憧憬あこがれを常に伝えさせるのであった。少将が想像したとおりに、家の者は皆この人をひいきにすることになった。
源氏物語:46 竹河 (新字新仮名) / 紫式部(著)
『暮したし木賀底倉に夏三月』それは昔の人々の、夏の箱根に対する憧憬あこがれであった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
家人けにんとかさむらいとかいう卑しいままの名称でも、その実質が立派になれば、誰もこれを賤しとせぬのみならず、その名前そのものまでも立派になって、世人の憧憬あこがれまととなるのであります。
柘榴ざくろつぼみのように、謹ましく紅い唇には、思慕の艶が光り、肌理きめ細かに、蒼いまでに白い皮膚には、憧憬あこがれ光沢つやさえ付き、恋を知った処女おとめ栞の、おお何んとこの三日の間に、美しさを増し
血曼陀羅紙帳武士 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
ほのかな憧憬あこがれに似てあまやかなものだった。
柳橋物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
と、恍惚として、憧憬あこがれの満足に涙をたらした——あの日の印象を、いまもはっきり持っている。その、幻影でない、現実を、彼はいつまでも信じたい。
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
風采ふうさいがよくて落ち着いた、えんな姿の少年であったから、若い女房などから憧憬あこがれを持たれていた。夫人のいるほうでは御簾みすの前へもあまりすわらせぬように源氏は扱うのである。
源氏物語:21 乙女 (新字新仮名) / 紫式部(著)