ひとえ)” の例文
旧字:
あるかなきかのそよ風が軒に釣り古した風鈴に忍びやかな音を伝えて、簾越しにスーッと、汗ばんだひとえ衣の肌を冷かに撫でて行った。
支倉事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
風呂敷には、もう一品ひとしな——小さな袖姿見てかがみがあった。もっとも八つ花形でもなければ柳鵲りゅうじゃくよそおいがあるのでもない。ひとえに、円形の姿見かがみである。
すなわち俗にいう瘠我慢やせがまんなれども、強弱相対あいたいしていやしくも弱者の地位を保つものは、ひとえにこの瘠我慢にらざるはなし。
瘠我慢の説:02 瘠我慢の説 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
広栄はセルのひとえに茶っぽい縦縞の袷羽織あわせばおりを着て、体を猫背にして両脚を前へ投げだしていた。広栄は広巳の兄であった。
春心 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
それよりは漸次ぜんじ快方におもむきければ、ひとえに神の賜物たまものなりとて、夫婦とも感謝の意を表し、そののち久しく参詣を怠らざりき。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
我々の背後にはただひとより優秀なる鑑賞力と、他より超越せる判断力があるのみで、ひとえにこれがためにわが言辞にそれ相応の権威を生ずるのである。
文芸委員は何をするか (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
子之助はひとえ羽織とあわせとを遊所に持て来させて著更え、脱ぎ棄てた古渡唐桟こわたりとうざんの袷羽織、糸織の綿入、琉球紬りゅうきゅうつむぎの下著、縮緬ちりめんの胴著等を籤引くじびきで幇間芸妓に与えた。
細木香以 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
こんちりめんへ雨雲を浅黄あさぎ淡鼠ねずみで出して、稲妻を白く抜いたひとえに、白茶しらちゃ唐織からおり甲斐かいくちにキュッと締めて、単衣ひとえには水色みずいろ太白たいはくの糸で袖口の下をブツブツかがり
人知らずカッと上気せしも、ひとえ身嗜みだしなみばかりにはあらず、勿体もったいなけれど内内ないない可愛かわゆがられても見たき願い、悟ってか吉兵衛様の貴下あなたとの問答、婚礼せよせぬとの争い
風流仏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
髪をかむろに切りまわし、秋草をおぼろ染めにしたようなひとえの振袖を着て、燈籠の下に小さく立っていましたが、竜之助にたずねられて、ニッコリとさびしく笑い
大菩薩峠:22 白骨の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
ものすることいといぶかしきに似たりといえどもまた退しりぞいて考うればひとえおじのぶる所の深く人情のずい穿うがちてよく情合じょうあいを写せばなるべくたゞ人情の皮相ひそうを写して死したるが如き文を
怪談牡丹灯籠:01 序 (新字新仮名) / 坪内逍遥(著)
この逸事は人名辞書のたぐいには大抵載録せられている。枕山が敝衣をまとうて五山を訪うたのは「天寒クシテ客衣ノひとえナル。」を歎じつつ江戸に還り来った当時のことであろう。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
ちたはちの中からは、きんうるしをぬったはこが二つ出て、その中にはきんさかずきぎん長柄ながえ砂金さきんつくったたちばなのと、ぎんつくったなしの、目のめるような十二ひとえのはかま
鉢かつぎ (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
短いひとえの衣にも、白を好むものが北へ行くほど多い。黒の半臂はっぴを一様にその上に着て、野路を群れて行くさまは絵であった。下の裳にも今は紅を厭うて、こき山吹に染めた若い女が多かった。
雪国の春 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
ジュウニヒトエ、花が重っているので官女の十二ひとえに例えたもんです。
されば『歎異鈔』にも「わが心に往生の業をはげみて申すところの念仏も自行になすなり」といってある。また基督教においてもかのひとえに神助を頼み、神罰を恐れるという如きは真の基督教ではない。
善の研究 (新字新仮名) / 西田幾多郎(著)
ひとえの着物を羽織りたい
やるせなさ (新字新仮名) / 今野大力(著)
あえて堕地獄だじごくの我身の苦患くげんたすかろうというのではない、ただひとえに蝶吉のためにしたのであったと、母親がその時の物語。
湯島詣 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
は呉服屋に付けて貰えばいと云て、夫れからどの位のあたいかと云たら、ひとえ羽織の事だから一両三分だとう。
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
これまではただ無知で済んでいたのである。それが急に不徳義に転換するのである。問題はひとえに智愚をさかいする理性一遍のかきを乗り超えて、道義の圏内けんないに落ち込んで来るのである。
学者と名誉 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
機械的大仕掛おおじかけの製造盛んに行われ、低廉ていれんなる価格を以て、く人々の要に応じ得べきに至るといえども、元来機械製造のものたる、千篇一律せんぺんいちりつ風致ふうちなく神韻しんいんを欠くを以て、ひとえに実用に供するにとどまり
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
橋がかりに近い、二の松の蔭あたりに、雪代の見えたのが、ひとえ天降あまくだる天人を待つ間の人間の花かと思う。
卵塔場の天女 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
リボンも顔もひとえに白く、かすりの羽織が夜のつやに、ちらちらと蝶が行交う歩行あるきぶり、くれないちらめく袖は長いが、不断着の姿は、年も二ツ三ツけて大人びて、愛らしいよりも艶麗あでやかであった。
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
ここにいたりて自然のいきおい、最早みしやすからぬやうにおぼゆると同時に、肩もすくみ、ひざもしまるばかり、はげしく恐怖の念が起つて、ひとえに頼むポネヒルの銃口に宿つた星の影も、消えたかとおくれが生じて
二世の契 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)