“睫毛(まつげ)” の例文
鬚のない顔に長い睫毛(まつげ)、頭髪をうしろに垂らすか、結い上げるかしているから、なるほど紛らわしいわけだ。そして、その家である。
お綱は情熱と理智のたたかいにもまれて、固く睫毛(まつげ)をふさいでいた。弦之丞には、静かに眠っているふうを粧(よそお)っている心の奥で——。
鳴門秘帖:05 剣山の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
(井菊と大きくしるしたる番傘を開く)まあ、人形が泣くように、目にも睫毛(まつげ)にも雫(しずく)がかかってさ。……(傘を人形にかざして庇(かば)う。)
山吹 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
宮坂は度の強い近視眼鏡の奥で睫毛(まつげ)の疎い眼を学徒らしく瞑目していた。それが景子には老文豪の話を頭で反芻(はんすう)して居るらしく見えた。
ガルスワーシーの家 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
お若は今までの激しい表情を喪(うしな)つて、急に打ち萎(しを)れました。見る/\大粒の涙が、その長い睫毛(まつげ)を綴つて、ポトポトと疊を濡らします。
呆(あき)れるほど自信のないおどおどした表情と、若い年で女を知りつくしている凄(すご)みをたたえた睫毛(まつげ)の長い眼で、じっと見据(みす)えていた。
雨 (新字新仮名) / 織田作之助(著)
目と眉と睫毛(まつげ)は黒きを要し、唇と頬と爪は紅(あか)きを要し、胴と髪と手は長きを要しとは、手の長い者は盗みすると日本でいうと違う。
飽くまで厚く塗り込められた白粉(おしろい)は、夜の光にむしろ青く、その目は固く眠って、その睫毛(まつげ)がいたずらに長いように思われたとか。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
だって、私がまばたきをすれば睫毛(まつげ)はめのなかにある輝いた顔の面をあんなにさわるのですもの。さわる感じが全身をはしるのですもの。
その上拗(す)ねた子供のように、睫毛(まつげ)の長い眼を伏せると、別に何と云う事もなしに、桃色の手紙を破り出した。男はちょいと苦(にが)い顔をした。
母 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
愛一郎は睫毛(まつげ)が頬に影をおとすほど深く目を伏せ、石のようにじっとしていたが、そのうちに手をのばして、そっと秋川の腕にさわった。
あなたも私も (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
やや荒(すさ)んだ声で言われた下卑たその言葉と、その時渡瀬の眼に映った奥さんの睫毛(まつげ)の初々しさとの不調和さが、渡瀬を妙に調子づかせた。
星座 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
しかし影深い長い睫毛(まつげ)は、顔の下部のそのはなやかさの上に、それを静めるためででもあるかのようにしとやかに下がっていた。
化粧(よそほ)つてはゐないが、七難隱す色白に、長い睫毛(まつげ)と恰好のよい鼻、よく整つた顏容(かほだち)で、二十二といふ齡(とし)よりは、誰が目にも二つか三つ若い。
鳥影 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
睫毛(まつげ)の長い一重瞼(まぶた)が夢見るように細くなって、片頬(かたほお)に愛らしいえくぼができて、花弁のような唇から、ニッと白い歯が覗(のぞ)いた。
暗黒星 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
⦅唄つて下さいな、若い哥薩克さん、何か歌をひとつ!⦆と、彼女は一方へ頭べをかしげて、濃い睫毛(まつげ)をすつかり伏せて、小声で囁やいた。
朱丸は頑是(がんぜ)ない六歳だけに、母の膝によって眠っていたが、濃い睫毛(まつげ)が下瞼(したまぶた)を蔽うて、どこやらに寂しそうなところがあった。
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
「いけないわ。嘘をおつきになっちゃ、昨夜(ゆうべ)私とちゃんとお約束なすったのに……」長い睫毛(まつげ)を、しばたたきながら、詰った。
貞操問答 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
それは大方眼瞼(まぶた)と睫毛(まつげ)だ、あすこに何か秘密があるのだ、と、そうは思っても、それがどう云う仕掛けであるか判然しません。
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
カトリーヌはその人であることを、左の耳の上にある小さい痣(あざ)と、長い睫毛(まつげ)が両方の頬(ほほ)にまで長い影をうつしているのとでたしかめたのです。
彼女は今や眼をとじて、その睫毛(まつげ)のあいだからは熱い涙をながしつつ、その胸に深い溜め息をつくばかりで、死せるがごとくに静かであった。
代助は黙って三千代の様子を窺(うかが)った。三千代は始めから、眼を伏せていた。代助にはその長い睫毛(まつげ)の顫(ふる)える様(さま)が能く見えた。
それから (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
その瞻視(まなざし)の情(なさけ)ありげなる、睫毛(まつげ)の長く黒き、肢體(したい)の品(しな)高くすなほなる、我等をして覺えず恭(うや/\)しく帽を脱し禮を施さゞること能はざらしめたり。
二年の後(のち)には、遽(あわた)だしく往返する牽挺(まねき)が睫毛(まつげ)を掠(かす)めても、絶えて瞬くことがなくなった。彼はようやく機の下から匍出(はいだ)す。
名人伝 (新字新仮名) / 中島敦(著)
そして睫毛(まつげ)をしばたたきながら、仰ぐやうにして再びお葉を見上げたのであつた。お葉は遠く幼子の影を見返つて考へた。
三十三の死 (旧字旧仮名) / 素木しづ(著)
その中を例の小山は睫毛(まつげ)の長い愛嬌に富んだ眼を隅から隅へ動かしながら、その小さな身體をちよこ/\と彈ましてゐた。
木乃伊の口紅 (旧字旧仮名) / 田村俊子(著)
キラキラした髪……挙措(ものごし)、恰好(かっこう)……ちらと横から見た、睫毛(まつげ)の長い眸(め)……優しい頤(おとがい)……決して決して、私の幻覚や見誤りなぞでは、ないのです。
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
勝気らしい口元のきりりと締った、下脹(しもぶく)れの顔は、今よりもずっと色が白そうで、睫毛(まつげ)の長い冴(さ)えた目にも熱情があった。
爛 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
夕雲のように紫色に渦巻いた長い髪毛(かみのけ)。長い眉と長い睫毛(まつげ)。花のような唇。その眼や口を静かに閉じて、鼻息も聞こえぬ位静かに眠っている姿。
白髪小僧 (新字新仮名) / 夢野久作、杉山萠円(著)
睫毛(まつげ)の長い、切れ長の眼に少し険があると云えばいえますものの、とても愛嬌のある子供子供したお方でございました。
長い睫毛(まつげ)の下にぱっちり開いた彼女の黒い瞳が、いつの間にかすっかり落ちくぼんでしまい、眼はにごり、瞼は黝(くろず)んだ。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
私は笑うどころでなく、なおもその光る物の方へ指をのばして行きますと、彼女の右の眼の睫毛(まつげ)にさわりました。私はぎょっとして手を引きました。
猫と村正 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
濃い睫毛(まつげ)にふちどられた眼が、特に美しい、だがそれは石像のように冷たくて硬かった、主馬は慄然(りつぜん)と眼をそらした。
山椿 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
彼の眼は大きく碧くて、鳶色(とびいろ)の睫毛(まつげ)に被はれ、象牙にも紛(まが)ふ白皙(はくせき)の高い額には、心なしの金髮の捲毛がこぼれてゐる。
睫毛(まつげ)の深いせいか、その目は大きく見え、そして女は——どうみても完全な女性だった——笑っていた。愛らしく。無邪気に。彼の心に沁みるように。
メリイ・クリスマス (新字新仮名) / 山川方夫(著)
その何とかが実に尤千万(もっともせんばん)な何とかで疑う余地などは鷹の睫毛(まつげ)ほどもないのだから全く納得させられる外はなかった。
鷹を貰い損なった話 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
別にいい女ではないが、円顔(まるがお)の非常に色の白いことと、眼のぱっちりして、目に立つほど睫毛(まつげ)の濃く長いことが、全体の顔立を生々(いきいき)と引立たせている。
ひかげの花 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
しかし彼女の冷静な顔は仕事から眼もあげずに返辞をした。その眼つきは、短い濃い睫毛(まつげ)のある青っぽい眼瞼(まぶた)が落とす見通せない影の下に隠れていた。
少女は父親の言葉にもだれの言葉にも答えず、電灯のほうに顔を向けていたが、長い睫毛(まつげ)の間に涙が光っていた。
宝石の序曲 (新字新仮名) / 松本泰(著)
花立ての花もきょうはもう萎(しお)れて、桔梗も女郎花も乾いた葉を垂れていた。弥三郎はじっとそれを見つめているうちに、彼の睫毛(まつげ)はいつかうるんで来た。
半七捕物帳:05 お化け師匠 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
苦痛の涙に濡れた長い睫毛(まつげ)——それら全体は、より所もない孤独の感じで、細かく波打っている如くであった。
ラ氏の笛 (新字新仮名) / 松永延造(著)
妙念 (破るるがごとき憤怒(ふんぬ)の声)悪蛇の化性だな。そんな男体に姿をかえて上って来たのが、睫毛(まつげ)まで焼きちぢらした己の眼をくらませると思うのかい。
道成寺(一幕劇) (新字新仮名) / 郡虎彦(著)
この青く清らにて物問ひたげに愁(うれひ)を含める目(まみ)の、半ば露を宿せる長き睫毛(まつげ)に掩(おほ)はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。
舞姫 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
校長は先刻から黙然として一言もいわずにまなこを閉(と)じていたがこのときようやくまなこをみひらいた。涙が睫毛(まつげ)を伝うてテーブルにぽたりぽたりこぼれた。
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
岸に沿う水辺樹木はそれをふちどるほそい睫毛(まつげ)であり、周囲の樹の茂った丘や崖はその垂れさがる眉(まゆ)である。
湖水よりも猶(なお)高い丘上の村落は厳冬の寒さが非常である。朝、戸外に出れば、鬚(ひげ)の凍るのは勿論(もちろん)であるが、時によると、上下睫毛(まつげ)の凍著を覚えることすらある。
諏訪湖畔冬の生活 (新字旧仮名) / 島木赤彦(著)
彼女こそ、やったのではあるまいかと、その顔を見詰(みつ)めた。睫毛(まつげ)の美しいミチ子の大きな両眼に、透明な液体がスウと浮んで来た。ふるえた声でミチ子が言った。
階段 (新字新仮名) / 海野十三(著)
その眼が今は、おだやかに閉じられ、並べたように皮膚にはりついたながい睫毛(まつげ)がまるで細い画筆で描いたみたいな綺麗さだった。醜(みにく)さをこの一点が救っている。
いやな感じ (新字新仮名) / 高見順(著)
答なき銀子の長き睫毛(まつげ)には露の玉をさへ貫くに梅子はいよゝ怪(あやし)みつ「貴女、何かおありなすつて——」
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
そして、白眼に絡まった蜘蛛の巣のような血脈、林立した火箸のような睫毛(まつげ)、又その真中には、何かしらトテツもない恐ろしい影を写している虚黒な眸(ひとみ)があった……。
魔像 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)