嫣然えんぜん)” の例文
ソクラテスは嫣然えんぜん笑って、「さらば罪あって死ぬのは残念でないのか。死ぬる死なぬは畢竟ひっきょう第二義のことだ。心の鍛錬が第一義だ。」
ソクラテス (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
するとその女が、——どうしたと思う? 僕の顔をちらりと見るなり、正に嫣然えんぜん一笑いっしょうしたんだ。おやと思ったがに合わない。
一夕話 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
まずの女すなわち石婦うまずめかあるいは何時も弱々しい子供しか生み得ぬ婦人かが粧いを凝し嫣然えんぜんと笑って媚を呈しているようなものである。
植物記 (新字新仮名) / 牧野富太郎(著)
お勢は大榎おおえのき根方ねがたの所で立止まり、していた蝙蝠傘こうもりがさをつぼめてズイと一通り四辺あたり見亘みわたし、嫣然えんぜん一笑しながら昇の顔をのぞき込んで、唐突に
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
お兼は立去りあえずかしらを垂れたが、つと擬宝珠ぎぼうしのついた、一抱ひとかかえに余る古びた橋の欄干に目をつけて、嫣然えんぜんとして、振返って
黒百合 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
さう云つて、嫣然えんぜんと笑ひながら、青年の顔を覗き込む瑠璃子夫人の顔には、女王のやうな威厳と娼婦のやうなこびとが、二つながら交つてゐた。
真珠夫人 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
そして、さもしとやかに一礼すると、愛くるしいえくぼを見せて、恰好のよいルージュの唇で、嫣然えんぜん頬笑ほほえむのであった。
猟奇の果 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
言ひぶる梅子の容子ようすに銀子は嫣然えんぜん一笑しつ「篠田さんに御会ひなすつたとおつしやるんでせうツ」手を挙げて思ふさま、ビシヤリと梅子のひざを打てり
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
しかし、秋蘭の眼は澄み渡ったまま、甲谷の笑顔の前を平然と廻り続けて踊りがんだ。——歌余舞かよまみし時、嫣然えんぜん巧笑。去るに臨んで秋波一転——。
上海 (新字新仮名) / 横光利一(著)
甘い抑揚よくようをつけて言った。嫣然えんぜん一笑、東洋でいう傾国けいこくの笑いというやつ。そいつをやりながら、触れなば折れんず風情ふぜい、招待的、挑発的な姿態を見せる。
戦雲を駆る女怪 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
未亡人は、そうした私の傍に突立ったまま嫣然えんぜんと見下していた。私の意気地なさを冷笑するかのように……私を圧迫して絶対の服従を命ずるかのように……。
けむりを吐かぬ煙突 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
すると、女が嫣然えんぜんと目で笑いながら、とたんにきゅっと右門の手首のあたりをでもつねったらしいのです。
ビーブ・ダニエルの乙に気取ったところだの、憤然たるもの、嫣然えんぜんたるもの、竦然しょうぜんたるもの、恍惚こうこつたるもの、見るに随って彼女の顔や体のこなしは一々変化し
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
嫣然えんぜんとした年増、隔てもなくニッコリすると、桃色の愛嬌が、その辺中へまきちらされそうな女でした。
十字架観音 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
片手を高くさしあげてわれわれをさしまねきながら大声で「ドモスミマシェン」と言って嫣然えんぜん一笑した。
あひると猿 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
「…………」詩人は目をつぶって嫣然えんぜんと笑った。彼女はいよいよ若い大学生と待ち合わせていることをすっかり忘れてしまった。「え有難う、紹介して戴きますわ」
天馬 (新字新仮名) / 金史良(著)
と、とばりが上がって……ほかならぬ当のグルーシェンカが嫣然えんぜんと笑いこぼれながら、テーブルへ近づいて来た。アリョーシャは身内がぎくんと震えたように覚えた。
柔軟な腕を現わしつつ雨戸を引き乍ら私の方を見下ろして嫣然えんぜんと流し目を送って来たのであります。
陳情書 (新字新仮名) / 西尾正(著)
黒襲くろがさね白茶七糸しらちゃしゅちんの丸帯、碧玉へきぎょくを刻みし勿忘草フォルゲットミイノットえりどめ、(このたび武男が米国よりて来たりしなり)四はじえみを含みて、嫣然えんぜんとして燈光あかりのうちに立つ姿を
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
水の上をするするとわたりながら岸に近付いて、嫣然えんぜんと笑みつつやおら花咲く原に歩を移さんとした刹那、不意の人影に驚いて振り返りさま手にした梭を若者に投げ付け
秋の鬼怒沼 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
誰かはこれを指して旅という。かかる旅は夢と異なるなきなり。出ずるに車あり食うに肉あり。手をたたけば盃酒忽焉こつえんとして前にで財布をたたけば美人嫣然えんぜんとして後に現る。
旅の旅の旅 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
更に目を転ぜば、遠く米国ありて、あたらぬ神に障りなしとお世辞タラ/\、嫣然えんぜんとして我等をさしまねくあり。これ等は実に一瞬間に吾人の眼に映じ来る世界演劇の大舞台の光景也。
閑天地 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
あれほど人をだます花はない。余は深山椿みやまつばきを見るたびにいつでも妖女ようじょの姿を連想する。黒い眼で人を釣り寄せて、しらぬ間に、嫣然えんぜんたる毒を血管に吹く。あざむかれたとさとった頃はすでに遅い。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
酒席の上には、当然、東道のあるじなる閨秀詩人が、今日は薄化粧して嫣然えんぜんとして待ちかねている。物慣れた老女が一人かしずいて席を周旋し、老船頭が一人船をあずかって迫らない形をしている。
大菩薩峠:34 白雲の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
金屏きんびょう銀燭のまえに、桃山刺繍ぬいのうちかけを着、玉虫色のくちびるを嫣然えんぜんと誇示している時の吉野太夫よりも、このくすんだ百姓家の壁と炉のそばで、あっさりと浅黄木綿を着ている彼女のほうが
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
深窓に育つ羽子板の持主の嫣然えんぜんたる趣を連想すれば更に美しい。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
やがて痴川の目を見入って実に嫣然えんぜんと笑った。
小さな部屋 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
と、かの女、すぐそれにこたえた、嫣然えんぜんと……
浅草風土記 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
画家去りぬ嫣然えんぜんとして梅の花
五百五十句 (新字旧仮名) / 高浜虚子(著)
そう云って、嫣然えんぜんと笑いながら、青年の顔をのぞき込む瑠璃子夫人の顔には、女王のような威厳と娼婦しょうふのようなこびとが、二つながら交っていた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
僕等は前の「嫣然えんぜん」のように彼等の一人に、——黒と黄との海水着を着た少女に「ジンゲジ」と言う諢名あだなをつけていた。
海のほとり (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
プロテアの美女は、横倒しになった醜悪なけだものを見おろして、嫣然えんぜんと笑った。ボタンの花が開くように笑った。
影男 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
しんの首をななめしげて嫣然えんぜん片頬かたほに含んだお勢の微笑にられて、文三は部屋へ這入り込み坐に着きながら
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
が、木立は思いの外浅く、飛込んだ半十郎の前には、広々と明るい道が開けて、其処そこには若い女が一人、嫣然えんぜん、半十郎を迎えるように立って居るではありませんか。
江戸の火術 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
追いつかれたらもう仕方がないと思ったものか、馴れがましく言いながら嫣然えんぜんとしてふり向けたその顔は、あなどり難い美しさなのです。加うるに容易ならぬ風情ふぜいがある。
そして、奴隷の臆病な犬のような二つの細い眼に嫣然えんぜんと微笑を投げて、彼にいった。
日輪 (新字新仮名) / 横光利一(著)
満腔まんこうの不平をたたえて、かえって嫣然えんぜんとして天の一方をにらむようになり得ると、こはいかに、薄汚い、耳の遠い、目の赤い、繿縷ぼろまとった婆さんがつえすがって、よぼよぼと尋ねて来て
湯島詣 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
向うの隅に固まって煙草を吸っている刑事連に嫣然えんぜんと一礼した。
女坑主 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
麻油は嫣然えんぜんと笑って、痴川の胸へ顔を埋めた。
小さな部屋 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
相見て嫣然えんぜんひざつき合はして椅子いすに座せり
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
「あいつ、嫣然えんぜんとして笑ったな。」と言った。それ以来彼は僕等のあいだに「嫣然」と言う名を得ていたのだった。
海のほとり (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
正面の姿見に早くも映つた白い美しい顔が、鏡の中で信一郎に、嫣然えんぜんたる微笑の会釈を投げたのである。
真珠夫人 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
ジャカジャカチンチンと下座のおはやしが始まるといっしょに、嫣然えんぜんとして右門主従三名のほうへびの笑いを投げかけながら、妖々ようようとそこに競い咲くごとく姿を見せた者は
とお種をおし退けるやうに顏を出したのは、見たところ、十九か二十歳はたちの美しい娘でした、柄は大きい方、嫣然えんぜんとした表情も大きく、名ある歌舞伎役者のやうな、派手な美しさです。
勇美子はこういって、猶予ためらって四辺あたりを見たが、手をその頬のあたりもたらして唇を指に触れて、嫣然えんぜんとして微笑ほほえむとひとしく、指環ゆびわを抜き取った。玉の透通ってあかい、金色こんじきさんたるのをつッと出して
黒百合 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
あからむかほ嫣然えんぜんとして、梅子は迎へぬ
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
正面の姿見に早くも映った白い美しい顔が、鏡の中で信一郎に、嫣然えんぜんたる微笑の会釈えしゃくを投げたのである。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
涼しい声で嫣然えんぜんと笑いながら、またゆっくりとうなだれて、とぼとぼと表へ消えました。
振り返るとパツと咲いたやうな美女が一人、嫣然えんぜんとして八五郎の鼻を迎へました。
初子は嫣然えんぜんと笑いながら、もう一度眼を格子の外へやった。
路上 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)