くろず)” の例文
それから爪でこつこつこそげました。それから息をかけました。そのすきとほった氷の穴からくろずんだ松林と薔薇色の雪とが見えました。
氷と後光 (旧字旧仮名) / 宮沢賢治(著)
厳しい克己は、春雷の轟きのように、快く、情慾の末をしびらせる。冷静な抑圧は秋水の光のように愉しく本能のくろずみを射散らした。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
平屋建のくろずんだ家屋が広いアスファルトの両側につづいて、海岸から街の方へ通じる国道は古い絵はがきの景色か何かのようにおもえた。
苦しく美しき夏 (新字新仮名) / 原民喜(著)
大戸は開いてゐるので、風が吹きこみ、蒔の下半身から水がしたゝり、紫色にくろずんだ頬を固く痙攣ひきつつたまゝ速く荒い呼吸をしてゐた。
鳥羽家の子供 (新字旧仮名) / 田畑修一郎(著)
当然水銀がくろずんで見えるはずであるから、正面に映った横蔵の眼に、暗くくぼんだような黝みが映らぬとも限らないのである。
紅毛傾城 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
そのことあって以来、ヒルミ夫人の頬がにわかにけ、瞼の下にくろずんだ隈が浮びでたのも、まことに無理ならぬことであった。
ヒルミ夫人の冷蔵鞄 (新字新仮名) / 海野十三丘丘十郎(著)
ただ、樹々の繁みを透して、我々の残してきた駆逐艦のくろずんだ姿のみが、ポツンと一隻侘しげに佇んでいるばかりであった。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
その三艘だけが、雲のためにくろずみ始めた海上を、暗紅色の帆、オリーヴ色の帆、濡れた鼠の帆と連なって、進行して行く。
(新字新仮名) / 宮本百合子(著)
山国の五月はやっと桜が咲く時分で裏山の松や落葉松からまつの間に、微白ほのじろいその花が見え、桑畑はまだ灰色に、田は雪が消えたままに柔かくくろずんでいた。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
そしてこのくろずんだ膨らみの中で、嵐のような叫び声がひっきりなく続き、市街地は耕地の真中へと千切れて行った。家……家……家…家、家、家。
都会地図の膨脹 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
長い睫毛まつげの下にぱっちり開いた彼女の黒い瞳が、いつの間にかすっかり落ちくぼんでしまい、眼はにごり、瞼はくろずんだ。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
丘の荒々あら/\しい線が表はす魅力に打たれた強い感じと、彼が我が家と呼んでゐるくろずんだ屋根と灰白の壁とに湧いて來る愛着を口にしたことがあつた。
糸杉の巻きあがった葉も見える。重ね綿のような恰好かっこうに刈られた松も見える。みなくろずんだ下葉と新しい若葉で、いいふうな緑色の容積を造っている。
城のある町にて (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
六月の上旬になって、頭の丸っこい、柔和な眼つきをした花嫁たちの大群が沖をくろずましてやってくる。と、その争奪で浜辺は眼もあてられぬ修羅場になる。
海豹島 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
一度もまだはいって行ってみたことのない村の、くろずんだ茅屋根は、若葉の出た果樹や杉の樹間に隠見している。前の杉山では杜鵑ほととぎすや鶯がき交わしている。
贋物 (新字新仮名) / 葛西善蔵(著)
かもめが七八羽、いつの間にか飛んで来て、岬の端にきながら群れ飛んでいました。ずっと沖の方がくろずんで来ました。生温なまぬるい風が一陣さっと為吉の顔をなでました。
少年と海 (新字新仮名) / 加能作次郎(著)
と二人は手を揃えて、やっと舸の中へすくい上げて見ると、女と思いきや前髪立ちの美少年で、水にひたされて蝋より白くなった顔に、わずかな血の痕がくろずんでいた。
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
恰度ちやうど鶴飼橋へ差掛つた時、円い十四日の月がユラ/\と姫神山の上に昇つた。空は雲一片ひとつなく穏かに晴渡つて、紫深くくろずんだ岩手山が、歴然くつきり夕照せきせうの名残の中に浮んでゐる。
鳥影 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
と、お君は依然いぜんとしてお君であったが、しかし、お君の眼のまわりが目立ってくろずんでいた。
(新字新仮名) / 織田作之助(著)
高梁コウリャン畑を、ひとしきり踏み過ぎると、だらだら凸凹でこぼこの激しい一寸ちょっと拡い野っ原であって、右手に線路が淋しく光って見え、凹間くぼまらしいくろずんだ向う側に、また高梁畑が起伏していた。
戦争雑記 (新字新仮名) / 徳永直(著)
そこから少し片側へよったところに、松の林が妙にくすんだような青さでくろずんでいた。
そしてむしろ悲しいまでにその皺がくろずむのだつた。
そこは濃いくろずんだ緑色をしていて、その湿った土が、熱気と地いきれとでもって湧き立ち、ドロリとした、液のような感じを眼に流し入れてくる。
白蟻 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
油の乏しくなった燈明がジイジイいうかすかな音を立てて、部屋にはどこか寂しい影が添わって来た。くろずんだ柱や、火鉢の縁に冷たい光沢つやが見えた。
新世帯 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
然しその暗さは、精神上の不幸のように心から滲み出して、眼で見る風景までをくろずませる種類のものではなかった。
一本の花 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
使い残りの小材木や根太石ねだいしの辺に積み重ねられている。遠景、渋谷越の山峰は日暮れの逆光線にくろずんでいる。
取返し物語 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
大きなガスタンクのくろずんだ面に、原爆の光線の跡が一つの白い梯子はしごの影となって残っている。このガスタンクも彼には子供の頃から見馴みなれていたものなのだ。
永遠のみどり (新字新仮名) / 原民喜(著)
高原地帯の原始林は既に、くろずんだ薄紫色の新芽によそわれていたが、野宿をするには、未だ寒かった。
熊の出る開墾地 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
するとこれらのくろずんだ小屋と同じように——ひそやかに独りで待っているであろう自分の妻を思いだしていた。路は右と左に、どちらもほんの数十間の距離であった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
山男はお日さまにいてたおれた木に腰掛こしかけて何か鳥を引きいてたべようとしているらしいのですが、なぜあのくろずんだ黄金きん眼玉めだま地面じめんにじっとけているのでしょう。
おきなぐさ (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
さうした私をわづかに慰めてくれたのはその地下室の将棋倶楽部で、料金は一時間五銭、盤も駒も手垢てあかと脂でくろずんでゐて、落ちぶれた相場師だとか、歩きくたびれた外交員だとか
聴雨 (新字旧仮名) / 織田作之助(著)
狭すぎる新宿の通りを、めっきりくろずんできた人のながれが淀みながら動いていた。
金狼 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
彼らはいったいどこで夏頃の不逞ふていさや憎々しいほどのすばしこさを失って来るのだろう。色は不鮮明にくろずんで、翅体したい萎縮いしゅくしている。汚い臓物で張り切っていた腹は紙撚こよりのようにせ細っている。
冬の蠅 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
海の色がくろずんで来た。
厄年 (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
炎天の下で青桐の葉がくろずんで見えるほど暑気のきびしい或る夏の単調な午後、格子の内と外の板廊下にいる者とが見えないところでこんな話をしている。
突堤 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
湖面の夕紫は、堂ヶ島を根元から染めあげ、真向いの箒ヶ崎は洞のようにくろずんだ。大きな女中と、小さい女中が
呼ばれし乙女 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
窓の前には、雨を十分吸い込んだ黒土の畑に、青い野菜の柔かい葉や茎を伸ばしているのが見えたり、色の鮮かな木立ち際にくろずんだ藁屋わらやが見えたりした。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
さらに、いま旗太郎との間に交された醜悪な黙闘を考えると、そこに何やら、犯罪動機でも思わせるような、くろずんだ水が揺ぎ流れるといった気がしないでもなかった。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
この季節特有の薄靄うすもやにかげろわれて、れたトマトのように赤かった。そして、彼方此方かなたこなたに散在する雑木の森は、夕靄の中にくろずんでいた。萌黄もえぎおどしのもみ嫩葉ふたばが殊に目立った。
土竜 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
そのうちに彼らは、主君邦夷の笠の緒があかによごれてくろずんでいるのを発見した。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
局長は顔を紫色にくろずませ、大喝一声
魔都 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
大体、この辺の横町は、大小旧舗しにせの問屋筋が、表附を現代のオフィス風に建て改めたのが多く、退勤時間以後は防火扉をおろして町並はくろずみ渡っています。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
くろずんだ土や、蒼々あおあおした水や広々した雑木林——関東平野を北へ北へとよこぎって行く汽車が、山へさしかかるに連れて、お島の心には、旅の哀愁が少しずつしみひろがって来た。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
そもじは、砒石ひせきの蒸気を防ぐために、硫気を用いたのであろうけれど、それが市松のくぼみにまった水に溶け、くろずんだことゆえ、まっすぐなものも、かえって反りかえって見えたのじゃ。
紅毛傾城 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
茨の生える新畑あらばたけは、谷から頂へ向けて、ところまだらくろずんでいた。
土竜 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
まわりを見廻しますと、木枯の中に誰一人いず、地平線を取巻いて多那川の遠堤から榛の木の影の海の中に村落のやゝくろずんだのが混ってぐるりと見渡せます。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
お作のうちは、その町のかなり大きな荒物屋であった。なべおけ、瀬戸物、シャボン、塵紙ちりがみ草履ぞうりといった物をコテコテとならべて、老舗しにせと見えて、くろずんだ太い柱がツルツルと光っていた。
新世帯 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
そう見られるくろずみ方で山は天地を一体の夜色にならされた。打縁流うちよする駿河能国するがのくにの暮景はかくも雄大であった。
富士 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
お庄は母親の蔭の方に坐っていて、柱も天井もくろずんだ、その油屋という暗い大きな宿屋の荒れたさまを目に浮べた。そこは繭買まゆかいなどの来て泊るところで、養蚕期になるとその家でも蚕を飼っていた。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
池の胴を挟んでゐる杉木立と青あしとは、両脇からび込む腐蝕ふしょくのやうにくろずんで来た。
過去世 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)