とろ)” の例文
その神経をとろかすような甘い匂いが鼻を衝いて、何としても眠られず、枕許のスタンドを消したり点けたりして輾転反側していたが
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)
太陽はもうすっかり傾いていて、かっかと熱しきった大地には、えもいわれぬとろかすような暮色が、ようやく垂れこめようとしていた。
「自惚でない。承った、その様子、しからん嬌媚きょうびていじゃ。さようなことをいたいて、わかい方の魂をとろかすわ、ふん、ふふん、」
星女郎 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
大駆けで馬を飛ばしたりした後で、恋の長い夜が来ると、互いの愛撫でたましいもとろけるような悦楽をしみじみと味わうことが出来るのだ——
犬舎 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
忽ち香炉の口からは、糸のような煙りが立ち昇り、身も魂もとろけるような美妙な匂いが館一杯、隅々にまでも漂って行った。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
それが夜の間に豊かな春を呼吸して、一輪は殆ど満開に、もう一輪、心をとろかすような半開の花が露を帯びて匂っている。
牡丹 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
「この美しさを音無おとなしの太十に見せたくない。この姿を一目でも奴が垣間見たならば、忽ち魂をとろかせて、鋭い毒爪を磨くことであらう、部屋へ入らう。」
武者窓日記 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
アウガスタスも最初は、友達が自分を見ているのかと思った程に、ラザルスの眼は実に柔かで、温良で、たましいをとろかすようにも感じられたのである。
疲れて矒乎ぼうつとして、淡い月光と柔かな靄に包まれて、底もなき甘い夜の靜寂の中にとろけさうになつた靜子の心をして、譯もなき咄嗟の同情を起さしめた。
鳥影 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
よしそれとても一点の功名心に駆られたる内はまだしもなれど、今はそのかつて利用せむと試みし黄金にとろかされて、功名の前途をさへに見失ひしと覚し。
葛のうら葉 (新字旧仮名) / 清水紫琴(著)
いづるに自動車あり、るに明眸皓歯めいぼうかうしあり、面白い書籍あり、心をとろかす賭博とばくあり、飽食し、暖衣し、富貴あり、名誉あり、一の他の不満不平あるなくして
ある僧の奇蹟 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
とにかく美人で、とろけるような綺麗な声でその上お芝居がうまい。それにドイツ皇太子とのロマンスがある。
お蝶夫人 (新字新仮名) / 三浦環(著)
すでに五百余歳を経ている女怪じょかいだったが、はだのしなやかさは少しも処女と異なるところがなく、婀娜あだたるその姿態は鉄石てっせきの心をもとろかすといわれていた。
悟浄出世 (新字新仮名) / 中島敦(著)
けれども、妙にこの像面では鼻の円みと調和していて、それが、とろけ去るような処女の憧憬しょうけいを現わしていた。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
きび/\した溌剌たる挙措ものごしの底に、とろかすような強い力をきらめかして男の魂をとらえるらしかった。
地上:地に潜むもの (新字新仮名) / 島田清次郎(著)
愛の神カマ、五種の芳花もて飾った矢を放って人を愛染す。その一なる瞻蔔迦ちゃむばかの花香く人心をとろかす。故に節会せちえをその花下に開き、青年男女をして誦歌相いざなわしむ。
べての物は依然として閑寂に、空も水も遠い野山も、漂渺たる月の光にとろけ込んで、その青白い静かさと云ったら、活動写真のフイルムが中途で止まったようである。
母を恋うる記 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
お島はそう言って笑ったが、男がその時々に、さばさばしたような気持で、棄てて来た多くの女などに関する閲歴が、彼女の心をとろかすような不思議な力をもっていた。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
とろけるほどな年増としま肌目きめを、怖ろしいほど見せつけて、これでもかこれでもかと蠱惑こわくな匂いをむしむしと醗酵はっこうさせながら、精根の深い瞳の中へ年下の男のなめらかな悶えを
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
わが滿身の鮮血はとろけ散りて氣となり、この天この水と同化し去らんと欲す。われは小兒の如く啼きて、涙は兩頬に垂れたり。市に大なる白堊しろつちの屋ありて、波はそのいしずゑを打てり。
三枚橋辺にて高貴の内政たる異母姉に面したる時の感慨は女性らしき思想を一変して、あはれわれも女に生れいでたる上は、三千世界の遊冶郎いうやらうとろかし尽さんとの大勇猛を起さしめたり。
友人に誘われて、一度吉原の情緒を覚えてから、私の心は飴のようにとろけた。
みやこ鳥 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
とろかすすべを心得おりまして、みめよき婦女子と見ると、いつのまにかこれをたらしこみ、散々に己れが弄んだ上で沢山な手下と連絡をとり、不届至極にも長崎の異人奴いじんめに売りおる奴でござります
其の振りぐる顏を見れば、鬚眉すうびの魂をとろかして此世の外ならで六尺の體を天地の間に置き所なきまでに狂はせし傾國けいこくの色、凄き迄にうるはしく、何を悲しみてか眼にたゝゆる涙のたま海棠かいだうの雨も及ばず。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
どぎつい愛は心とろかす失神で私をひどくめつけた。
大方おおかたあれが足の前にとろけた様になって俯さるだろう。
とろけたゆたふうみに、われ落葉おちば
白羊宮 (旧字旧仮名) / 薄田泣菫薄田淳介(著)
たゝずめば、あたゝかみづいだかれた心地こゝちがして、も、水草みづくさもとろ/\とゆめとろけさうにすそなびく。おゝ、澤山たくさん金魚藻きんぎよもだ。
城崎を憶ふ (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)
淡い夜霧が田畑の上に動くともなく流れて、月光つきかげが柔かに湿うるほうてゐる。夏もまだ深からぬ夜の甘さが、草木の魂をとろかして、天地あめつちは限りなき静寂しづけさの夢をめた。
鳥影 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
何という柔らかな柔らかなとろけるような妻の声であったろう。結婚以来未だかつて一度も私は妻の口からこんなにも夢見るような恍惚うっとりした声を聞いたことはなかった。
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)
楽屋でパティは、「私は歳をとりすぎたからもうよくはうたえない」とおっしゃいましたが、この「スイート・ホーム」を聴いているうちに心がとろけそうになりました。
お蝶夫人 (新字新仮名) / 三浦環(著)
で、最後には、これもいつもの癖で、身も魂もとろけたようにそのまゝ睡りに落ちるのであるが、やがて四半時しはんときも立つと、必ず一度眼をさまして小用を足しに行くのである。
美しい女の肌に触れ、美酒にあくがれ、音楽に心をとろかしたのもまた苦行ではなかつたか。
ある僧の奇蹟 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
こうして魯侯の心をとろかし定公と孔子との間を離間りかんしようとしたのだ。ところで、更に古代支那式なのは、この幼稚な策が、魯国内反孔子派の策動とあいって、余りにも速く効を奏したことである。
弟子 (新字新仮名) / 中島敦(著)
大財産もすぐとろけて、10340
男の心をとろかすに足りる。
三甚内 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
そして、女といふ女には皆好かれたがる。女の前に出ると、処嫌はず気取ツた身振をする、心は忽ちとろけるが、それで、煙草の煙の吹き方まで可成なるべく真面目腐ツてやる。
漂泊 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
はだとろけるのだって言いますが、私は何んだか、水になって、その溶けるのが消えてきそうで涙が出ます、涙だって、悲しいんじゃありません、そうかと言ってうれしいんでもありません。
春昼後刻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
何処までも恁うして歩く! 此美しい夢の様なことばは華かな加留多の後の、疲れて※乎ぼうつとして、淡い月光つきかげと柔かなもやに包まれて、底もなき甘い夜の静寂しづけさの中にとろけさうになつた静子の心をして
鳥影 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
筋も骨もとろとろととろけそうになりました。……
菎蒻本 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)