旧字:數寄屋
ある女は女史の代筆でなくてはならないとて、数寄屋町の芸妓になった後もわざわざ人力車に乗って書いてもらいに来たという。
その間に、小林勘蔵は、もいちど役宅の同心部屋へ馳けてもどり、夜詰番へ、何かいいのこして、数寄屋橋のたもとへ出て来た。
学校の放課が四時、数寄屋橋の橋畔にそそりたつ日東劇場まで電車で二十分。四時半にはすでに、五郎はそこの地下食堂の一隅に腰を下していた。
“数寄屋(数寄屋造り)”の解説
数寄屋造り(すきやづくり)とは、日本の建築様式の一つ。一般的には茶事を好む者(あるいは広く和歌や生け花などを含めて風流を好む者)を「数寄者」と呼び、その好みにより母屋から独立して建てられた茶室のことをいう。ただし多義的で、茶事を行うための場所という意味だけでなく、公家の自由な意匠を書院造に取り入れた意匠をいうこともあり、後者の場合は茶の湯とは必ずしも結びつかない。大熊喜邦は「数寄屋」の名称は曖昧であるとして建築上の形式としては「茶式建築」の呼称を提唱した。なお漢字では「数奇屋」と表記されることもある。
(出典:Wikipedia)
(出典:Wikipedia)