いと)” の例文
誰か、私をいとしがってくれる人はないか、七月の空に流離の雲が流れている、私の姿だ。野花を摘み摘みプロヴァンスの唄を唄った。
放浪記(初出) (新字新仮名) / 林芙美子(著)
そゝぐ涙に哀れをめても、飽くまで世を背に見たる我子の決心、左衞門いまは夢とも上氣とも思はれず、いとしと思ふほど彌増いやまにくさ。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
。ああ、おっかさん、そなたのおかげで心が晴れ晴れしてきましたわい。ではさようなら、皆の衆、さようなら、大事ないとしい皆の衆!
「みかど。それはそのはずではございませぬか。小宰相は妊娠みごもッているのですもの。みかどにしても、おいとしゅうございましょうから」
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
石井氏が綾之助をいとしんだのは、恋ではなかったが、綾之助は世心よごころがつくにしたがって、この人にこそと思いそめたのであった。
竹本綾之助 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
ここまで貯めるには若い時から並大抵の苦労ではなかった、と爺さんは今更のように懐古して、心に抱いたお宝をしんみりといとおしむのだ。
神楽坂 (新字新仮名) / 矢田津世子(著)
離家へあげると、お米は壁の紙張へ身をすりつけるようにしながら、あなたが死んだ姉をおいとしがられるごようすはあまり哀れでございます。
顎十郎捕物帳:20 金鳳釵 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
あなたは私がいとしくなかったのですか。どうかよくなって下さいと私が熱心に云っても、あなたはただぼんやりと淋しげに微笑みなされました。
淡雪 (新字旧仮名) / 原民喜(著)
今年の花見の道中で、あのような心ない事を申しましたのも、心底しんそこからお二人様の御行末をいとしゅう思いましたればの事。
名娼満月 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
おお、いかなる人にも覚えがあるはずである。やぶの中を歩きながら、あとについて来るいとしい人の顔にかからないようにと木の枝を押し開いたことを。
お転婆で、茶目で、母に世話をやかせるところの多い妹ではあるが、新子は姉よりも、ずーっといとしがっていた。
貞操問答 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
厚意の多くに甘え切って裸になって得たよろこびのいとおしい日日のあったことがとてもうれしいと思います。
遺愛集:03 あとがき (新字新仮名) / 島秋人(著)
昨年の春、自分の腹を痛めた、いとしい愛しい子を取り返したい為にお奉行様の前に出ました女でございます。
殺された天一坊 (新字新仮名) / 浜尾四郎(著)
何の見境ひもなく俺達一同は五月の朝風に撫でられる孔雀歯朶のやうに従順になびいて陶酔の無呵有に眠るであらうよ——ウルノビノ生れのいとしきピピヤスよ……
ファティアの花鬘 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
その小さい舞子のなかの美くしい一人を Tonka John はまた何となくいとしいものに思つた。
思ひ出:抒情小曲集 (旧字旧仮名) / 北原白秋(著)
その感謝の心は『日の子』を書いて自分を彼れのいとし子、隱し子であると言つた時吾が心は言ひ知れぬ歡びに溢れてしまつた。ああ自分は何にものよりも光を愛す。
太陽の子 (旧字旧仮名) / 福士幸次郎(著)
だしぬけに父に、近く仮祝言でもといわれて、われにもなく頸すじまで真っ赤にしてさしうつ向いた千浪を、大次郎はいつにも増して好もしく、いとしく思いながら
煩悩秘文書 (新字新仮名) / 林不忘(著)
そのとき、いとしき彼女が彼に現われたのだった。彼女は彼の手を取ってくれた。そして死は彼女の身体のかきを破りながら、彼女の魂を、友の魂のうちに流し込んだ。
それは、泥によごれ血にまみれてはいたが、目を疑うほどの驚きは、いとしいマヌエラへ、シチロウ、ザマより——とあるのだ。マヌエラは指先を震わせて封を切った。
人外魔境:01 有尾人 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
お城の馬鹿とのさまは、わしの目には、利口でなくとも、あれで、なかなかおずるいお方なのだ。どんな女や男を、いとしんでやったらよいか、ちゃあんと、御承知なのだ。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
この世で自分にとっていとしいすべてのものであった人の遺骸をあとにして、語る相手もない貧しい生活に帰ってゆくのを見ると、わたしの心は彼女のことを思って痛んだ。
待つて呉れ、カテリーナ! いとしいイワンや、此処へおいで、お父さんが接吻してやらう! どうしてどうして、坊やの髪の毛一筋だつて他人ひとに触らせることではないぞ。
母は、まだ相手が学生であるとの理由から、最初のほどは反対したけれど、いとしい娘が病の床へついたまま起きあがらないのを見て、ついに同意した。しかし条件があった。
純情狸 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
いわんやまた阿母あぼ老健にして、新妻のさらにいとしきあるをや。葉巻のかんばしきを吸い、陶然として身を安楽椅子の安きに託したる武男は、今まさにこの楽しみをけけるなり。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
しかしせめていとしの背の君の消息をきけたことを慰めとして、よもやまの京の都の話や、主人の苦労のことを話しあっていると、どこからか、タンタンタンという珍しい音が
謡曲と画題 (新字新仮名) / 上村松園(著)
送ってきた侍達も、わが身のいとしさに、暇を告げて帰ってしまうと、残っているのは、頑是がんぜない子供ばかりである。話相手もないまま、自然想いは、夫大納言の身の上にとんでゆく。
自分の生命よりも大切ないとし子が、松皮疱瘡にかゝつて、玉のやうであつた顏が、二目ふためとは見られぬみにくさになつた時の悲哀は、かうでもあらうかと、太政官は縁側に立ちつくしつゝ
太政官 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
一体何者だろう? 俺のように年寄としとった母親があろうもしれぬが、さぞ夕暮ごとにいぶせき埴生はにゅう小舎こやの戸口にたたずみ、はるかの空をながめては、命の綱の掙人かせぎにんは戻らぬか、いとし我子の姿は見えぬかと
乳房を——いいえ、女である事を看破みやぶられましたが運のつき、——その場にいとしい念日様をくくしあげて、女犯にょぼんの罪を犯した法敵じゃ、大罪人じゃと、むごい御折檻ごせっかんをなさいますばかりか
それより彼女には義哉その人が、このもしくもいとしくも思われるのであった。
大捕物仙人壺 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
いとしい妹カザリンよ、あなたにこの本を贈ります。この本の外側には黄金のかざりもなく巧みな刺繍ししゅうあやもありませんが、中身はこの広い世界が誇りとするあらゆる金鉱にも増して貴いものです。
ジェイン・グレイ遺文 (新字旧仮名) / 神西清(著)
女の童に就いて私はいつも限りないいとしい心の立ち帰ることを感じます。
ザボンの実る木のもとに (新字旧仮名) / 室生犀星(著)
生活の惨苦さんくに沈む世の親たちがいとを殺す心の切なさが今こそ、しみじみとわが心に迫る。私の幸福は、わが子への愛情の中にけがれの意識をまじえないことにある。妻は私にとっては神様だ。
親馬鹿入堂記 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
街の騒音にもそこに一脈のいとしさを覚えずにはいられないのである。
音の世界に生きる (新字新仮名) / 宮城道雄(著)
故に子を教うるがためには労をはばかるべからず、財をいとしむべからず。
教育の事 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
お政は学問などという正坐かしこまッた事は虫が好かぬが、いとし娘のたいと思ッてる事と、そのままに打棄てて置く内、お勢が小学校を卒業した頃、隣家の娘は芝辺のさる私塾へ入塾することに成ッた。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
そして、哀れに思えばこそ一人いとしんで長い間尽していたのである。
狂乱 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
その筋向うの二階家が、あたかも鏡花氏の住宅なので、今井夫妻は深くも交際しなかったが、幼い娘の子達は、色白の可愛い盛りを、子の無い鏡花氏夫妻にいとしがられて、殆ど毎日のやうに出入しゅつにゅうしていた。
友人一家の死 (新字新仮名) / 松崎天民(著)
「どうしてどうしてお死になされたとわたしがもうしいとしいお方の側へ、従四位様を並べたら、まるで下郎げろうもっいったようだろうよ」と仰有ってまたちょっと口を結び、力のなさそうな溜息ためいきをなすって
忘れ形見 (新字新仮名) / 若松賤子(著)
あの女の身として命に替えても魅着したがるいとしみを受ける可憐なところの性質さえも私は消してしまって、私は私の理想する通りの強くも秀でゝ、そして健康と自覚する女に私自身を改造しました。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
壮健たっしゃだった時分をいとおしむような調子で、病人は語り出した。
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
いとしければ鶏の餌にもと雪ほりてキャベツ畠のキャベツをさがす
小熊秀雄全集-01:短歌集 (新字旧仮名) / 小熊秀雄(著)
恋し、いとしい事だけには、立派に我ままして見しょう。
南地心中 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
いとしい友よ、いつかまた相会うことがあってくれ
ルバイヤート (新字新仮名) / オマル・ハイヤーム(著)
あれはいとしのあの
そういう石念のすがたをいとし子のように見入った、彼はまだ道念の至らないこの若僧のいに打ちのめされて慚愧ざんきしている有様を見ると
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
見抜いてくだされました。あのいとしいニキートカ、おまえさんはこのわたしを、待ちかねていさっしゃろうなあ、ニキートカ、さぞ待ちかねていさっしゃろうなあ!
エホバのいと、日の神の王子ホルスともたたうべき、地上最初の生命の群れに外ならなかったのだ。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
タヌは昨夜ゆうべからの優しい夢がまだ醒めぬと見え、襤褸ぼろくずの巣の奥から、眼だけ出した二十日鼠はつかねずみのようなこの子供たちを、世にもいとしいものを見るような眼付きで眺めながら
あのいとしい蓉子を疑っていたのだ。しかも僕は——おお僕こそ呪われてあれ! あの野獣のような兇賊に妻を惨殺さしたのだ、僕のこの両眼の前で! しかも救うことができたのに※
黄昏の告白 (新字新仮名) / 浜尾四郎(著)