口唇くちびる)” の例文
旦那様は少許すこし震えて、穴の開く程奥様の御顔を熟視みつめますと、奥様は口唇くちびるかすか嘲笑さげすみわらいみせて、他の事を考えておいでなさるようでした。
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
ほとんどお互いの口唇くちびると口唇とが触れ合うまでになったが、手で眼をこすりながら「わたしは病気ですから」と言って接吻をこばんだ。
「いいえ、決してそんなことは……」と、お鉄は急に興奮したように口唇くちびるをおののかせた。「あいつはわたくしのかたきでございます」
半七捕物帳:37 松茸 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
ブルブルと口唇くちびるをふるわせて、しきりに何かを刀断するような手真似をするのを、まつ川の家人とお艶が、左右からおさえてききただすとー
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
「いいえ、あなたはわたくしに求めなさ過ぎます。どうぞ、あなたの口唇くちびるからもれること以外は信じるなと言って下さい」
光沢つやのある真珠の歯は、愛らしい微笑のときに光りました。彼女が少しでも口唇くちびるを動かすときに、小さなえくぼが輝く薔薇ばら色の頬に現われました。
彼女の美しい口唇くちびるから言葉をきくことも出来ない。ただ蜜蜂が蜜壺を見るがごとくに、彼は眼で彼女を求めているばかりである。彼は絶えず独りで歌っていた。
彼女は、人差指を立てて、口唇くちびるへ当てた。その口びるは、指と十字を作って、横に固かった。
踊る地平線:10 長靴の春 (新字新仮名) / 谷譲次(著)
晨は赤い口唇くちびるを細くすぼめながら母の手へ来た。鏡子はそれを肩に載せてまた花壇へ行つた。
帰つてから (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
イザヤは汝ら偽善者につきてよく預言せり、「この民は口唇くちびるにて我を敬う、されどその心は我に遠ざかる。ただいたずらに我を拝む、人の訓誡いましめを教えとし教えて」としるしたり。
やがてドーブレクは椅子にかけたが、兇悪、冷酷な相貌して口唇くちびるには深刻な皮肉が浮かんで来た。彼は何事か条件を持出もちだしているらしく、卓子を叩き叩き頻りに怒鳴り立っている。
水晶の栓 (新字新仮名) / モーリス・ルブラン(著)
殊に我々仲間で申しあげるおはなしの年月、口唇くちびるがべろ/\と動き、上腮うわあごと下腮が打付ぶっつかりますうちに二十年は直ぐ、三十年は一口に飛ぶというような訳、考えてみますれば呑気至極でげすがな
踊子の赤いエナメルの靴尖くつさきに打ちつづく自己の災難を忘れて、断髪した朝鮮女と、口唇くちびるを馬のように開いて笑う日本女、猫背の支那女、眼脂めやにの出たロシア女、シミーダンスの得意なマレー女
地図に出てくる男女 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
糸子はワナワナ慄う口唇くちびるをじっと噛みしめながら、胸の前に合掌した。
蠅男 (新字新仮名) / 海野十三(著)
浪路は、美しい口唇くちびるを、いくらか引き曲げるようにして告白した。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
容貌きりやうが能く音羽小町と綽名あだなにさるゝ程にてあればうぢなくて玉の輿に乘る果報くわはう愛度めでたく其日消光くらしの賣卜者の娘が大家のよめに成なら親父殿まで浮び上り左團扇ひだりうちはに成で有らうと然ぬだに口やかましきは棟割長屋むねわりながや習慣ならひとて老婆もかゝも小娘もみな路次口に立集たちつどかしましと讀むじだらくの口唇くちびるかへ餞舌おちやつぴいねぐらもとむる小雀の群立騷むらだちさわぐ如くなり斯くとは
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
捨吉が口唇くちびるを衝いて出て来るものは、朝晩の心やりとしてよく口吟くちずさんで見たきよい讃美歌でなくてこうした可憐な娘の歌に変って来た。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「飛んでもねえこと……。わたくしがどうしてそんな……」と、弥三郎は口唇くちびるをふるわせながら慌てて打ち消そうとした。
半七捕物帳:05 お化け師匠 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
彼女は時どきにわたしの手に接物するために、血を吸うことをやめましたが、さらに赤い血のにじみ出るのを待って、傷に口唇くちびるを持っていくのでした。
その瞳は翁吉喇土オンギラアトの湖のごとく、口唇くちびる土耳古トルコ石、吐く息は麝香猫じゃこうねこのそれにも似て——。
弾力のある紅い口唇くちびるを軽くひらいて眠っていた。
省線電車の射撃手 (新字新仮名) / 海野十三(著)
遠く泉太や繁から離れて来ている旅の空で、無邪気な子供の口唇くちびるから仏蘭西の田舎の俗謡を聞いた時は、思わず岸本は涙が迫った。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「そりゃあそうかも知れないわ。根岸の叔母さんが付いているから」と、お浜は口唇くちびるをそらして皮肉らしく云った。
半七捕物帳:38 人形使い (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
紋服に、下り藤の紋の付いた麻裃あさかみしもを着て、さッと血の気の引いた顔にくぼんだ眼をえ、口唇くちびるを蒼くしている戸部近江之介とべおうみのすけである。西丸にしまる御書院番頭ごしょいんばんがしら脇坂山城守わきざかやましろのかみ付きの組与頭くみよがしらを勤めている。
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
クラリモンドの言葉が今もわたしの口唇くちびるに繰り返されていたのでした。
兄の子供は物を言おうとしても言えないという風で、口惜しそうに口唇くちびるんで、もう一度弟をめがけてこぶしを振上げようとした。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
その夢が醒めると、火を吹いていた口唇くちびるがひどくれあがって、なんだか息が切れて、十日とおかばかりは苦しみました
栄三郎の口唇くちびるは蒼白い。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
なみなみとついである方へとがらした口唇くちびるを持って行くさかずきの持ち方からしてどうもただではないので、この人は話せると思った。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
雷はそれから小一晌こいっときも鳴りつづいたので、善八は口唇くちびるの色をかえて縮み上がってしまった。
半七捕物帳:30 あま酒売 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
祝儀金とは名ばかり、これはいかにも無念千万のことであると言って、お継ぎ所に来ていた福島方の役人衆までが口唇くちびるをかんだことを語った。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
口も比較的に小さい方で、きいろ口唇くちびるから不規則に露出むきだしている幾本の長い牙は、山犬よりも鋭く見えた。足の割には手が長く、指ははり五本であるが、爪は鉄よりも硬くかつとがっていた。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
沢山開く口唇くちびるのような梅の花は早や青梅の実に変る頃だ。捨吉はこういう場所を彷徨さまようのが好きに成った。彼は樹の葉の青い香をいで歩いた。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
かれはさのみみにく容貌きりょうではなかったが、白く塗った顔をわざと物凄く見せるように、その眼のふちを青くぼかしていた。口唇くちびるにも歯齦はぐきにも紅を濃く染めて、大きい口を真っ紅にみせていた。
半七捕物帳:23 鬼娘 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
こう岸本はそこに疲れ倒れている節子を励ますように言って、彼女の眼にいて来る涙をそっと自分の口唇くちびるぬぐうようにしてやることもあった。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「お寺の物がどうしてこの溝のなかに落ちていたんだろう」と、半七はかれの顔色をうかがいながら訊いたが、小坊主はやはり何か躊躇しているらしく、口唇くちびるをむすんだままで少しうつむいていた。
半七捕物帳:25 狐と僧 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
時が経てば経つほど、あの花弁はなびらのように開いた清い口唇くちびる活々いきいきとして記憶に上って来た。何処へ行って、何を為ても、それだけは忘れられなかった。
(新字新仮名) / 島崎藤村(著)
紅い薔薇の花弁はなびらが彼女の口唇くちびるを思わせるように出来ている。大塚さんはそれを自分の顔に押宛て押宛てして見た。
刺繍 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
頬の肉付は豊麗ふっくりとして、眺め入ったような目元の愛くるしさ、口唇くちびるは動いて物を私語ささやくばかり、真に迫った半身の像は田舎写真師のわざでは有ませんのです。
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
若者は馬喰の言葉に、したたか世辞を言われたという様子で、厚い口唇くちびるに自慢らしい微笑ほほえみたたえました。
藁草履 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
何故、其口唇くちびるは言ひたいことも言はないで、堅くふさがつて、恐怖おそれ苦痛くるしみとで慄へて居るのであらう。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
酔に乗じた老松の端唄はうた口唇くちびるいて出た。紅白粉べにおしろいに浮身をやつすものの早い凋落ちょうらくいたむという風で
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
よく可笑おかしな顔付をして、鼻の先へしわを寄せたり、口唇くちびるゆがめたりして、まるで古い能の面にでも有りそうなトボケた人相をして見せて、お俊やお延を笑わせたような
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
すゞしい、とはいへ涙にれたひとみをあげて、丑松の顔を熟視まもつたは、お志保。仮令たとひ口唇くちびるにいかなる言葉があつても、其時の互の情緒こゝろもちを表すことは出来なかつたであらう。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
とお隅は源の姿を盗むように視下みおろして、あおざめた口唇くちびるえみを浮べました。源は地団太踏んで
藁草履 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
御物語も深くなるにつけ、昨日の御心配も、明日の御煩悶わずらいも、すっかり忘れて御了いなすって、御二人の口唇くちびるには香油においあぶらを塗りましたよう、それからそれへと御話がはずみました。
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
彼女はそっと子供のそばを離れ、おばあさんやお里のいる方へ一緒になりに行こうとしたが、そのたびに和助が無心な口唇くちびるを動かして、容易に母親から離れようとしなかった。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
若い女学生達の口唇くちびるから英語の暗誦あんしょうや唱歌を聞いた時には、ほとんど何もかも忘れていた。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
茶器を引寄せ、無造作に入れて、濃く熱いやつを二人の客にも勧め、自分も亦茶椀を口唇くちびる押宛おしあながら、かうばしくあぶられた茶の葉のにほひを嗅いで見ると、急に気分が清々する。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
宗蔵の話が出ると、実は口唇くちびるんで、ああいう我儘わがままな、手数の掛る、他所よそから病気を背負って転がり込んで来たような兄弟は、自分の重荷に堪えられないという語気をもらした。
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)