いびき)” の例文
いびきさえかいて安々と何事も忘れたように見えた。産婆も、後から駈けつけてくれた医者も、顔を見合わして吐息をつくばかりだった。
小さき者へ (新字新仮名) / 有島武郎(著)
地下室の中でも、彼は、遠方から地響じひびきの伝わってくる爆撃も夢うつつに、かたわらからうらやましがられるほど、ぐうぐうといびきをかいて睡った。
英本土上陸戦の前夜 (新字新仮名) / 海野十三(著)
液汁みづしたばかりにやちつたえてえとも、そのけえしすぐなほつから」勘次かんじはおつぎを凝然ぢつてそれからもういびきをかいて與吉よきちた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
この辺で、いびきの声がするだろう……てっきり——とのぞいて見ても、道中の雲助共が、ハダかっているだけで先生の姿が見えない。
大菩薩峠:24 流転の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
老人は、いびきと厚い唇を伝うよだれでそれに答えた。大きな丸々した顔が、青ざめて、朝のガラス窓の様に、汗の玉でビッショリだった。
江川蘭子 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
隣りの部屋からは、主人玄内のいびきの音が規則正しく聞えていた。玄内さまが付いている。こう思うと伝二郎は急に強くなったのである。
彼は背中でくくりあげてある袖の結び目を解きはなち、狭窄衣を振りほどいてしまうと、長いことじっと看視人のいびきに耳を澄ましていた。
私の体温が、彼を眠りに誘ったのです。何という、一志シリングの切れかかった瓦斯ストウヴのような可愛いいびき! 鼻を突いてやりましょうか。
踊る地平線:10 長靴の春 (新字新仮名) / 谷譲次(著)
まるで宮様プリンセスが人民から『万歳』をあびせかけられた時とそっくりです。ラヴィニアさん、今あなたはいびきのような声をたてましたね。
外には冬らしい風がさら/\と吹いてゐる様子であつたが、家の中はしんとして、一間隔てた六畳から伯母のかすかないびきが聞こえてゐた。
それから四方あたりを見廻わした。と見ると足もとの大地の上に宝蔵お守りの若侍が、手足を左右に延ばしたなりで、いびきをかいて眠っている。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
………夜が次第に更けて行く中で、猫はかすかにいびきを掻き、人は黙々と縫ひ物をしてゐる、佗びしいながらもしんみりとした場面。
猫と庄造と二人のをんな (新字旧仮名) / 谷崎潤一郎(著)
いびきの声というものは本来は気持のよいものではないし、他の場合には私はそれに苦情を言ったことも段々あったが、この時だけは
いつでも勢力がみなぎッている天地だ。太陽がいびきをかいてたためしはない。月も星も山も川もなんでも動いていないものはない。
ねじくり博士 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
やがて、歯軋はぎしりをはじめ、があと大きないびきをかきはじめた。気がつくと彦太郎は小高い丘の上に天野久太郎と二人で立っている。
糞尿譚 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
それを獄吏のことばで、湯灌ゆかんをするというらしい。——ところが、東儀与力の耳には、近づくに従って、象のようないびきが聞えた。
牢獄の花嫁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そこで気の付いたことは船客中一人、慧鶴だけが騒ぎを知らずにまだ眠りつづけて大いびきを掻いていたことだ。まわりの者はあきれて怒った。
宝永噴火 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
山刀はここにあるといってこの男に渡し、二度と再びこんなところへは来るな。あのいびきの声をききなさい。あれは私の夫の竜神の寝息だ。
日本の伝説 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
手足をばたんと大きく投げ出し、たちまちいびきをかき始めた。万三郎は隅につくねてある夜具を取って、虎造の上へ掛けてやった。
風流太平記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
ともう一度、気味の悪い声を出しやがつたが、それつきり後はいびきになつて、いくら鼠が騒がうが、寝返り一つ打ちやがら無え。
鼠小僧次郎吉 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
夜は一時か二時に寝、朝は朝で女中よりも先に起き出る幾は、昼間のひまな時刻にはごろりと居間の暗い片隅で横になり、直ぐにいびきを立てた。
鳥羽家の子供 (新字旧仮名) / 田畑修一郎(著)
彼は吾輩の近づくのも一向いっこう心付かざるごとく、また心付くも無頓着なるごとく、大きないびきをして長々と体をよこたえて眠っている。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
地虫のようないびきを立てつつ、大崩壊に差懸さしかかると、海が変って、太平洋をあおる風に、提灯のろうが倒れて、めらめらと燃えついた。
草迷宮 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
荻生さんは床にはいると、すぐいびきをたてて安らかに熟睡じゅくすいした。こうして安らかに世を送り得る人を清三はうらやましく思った。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
寝てしまえば自分が肥った豚みたいにグウグウいびきを掻いて、それこそ蹴飛ばしたって眼を醒ましやしないんだから、誰だって構やしない事よ。
ニッケルの文鎮 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
あけがたちかくふと私は眼覚めた。食べちらされたトーストと玉子の殻と、いびきをかいて寝ている彼女の黄色い鼻がオレンヂ色に染められていた。
スポールティフな娼婦 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
女はかすかであるが今まで聞き覚えのないいびき声をたてていた。それは豚の鳴声に似ていた。まったくこの女自体が豚そのものだと伊沢は思った。
白痴 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
屋敷へかえりつくと、ゆうべの膝枕を楽しみでもするかのようにそのまま横になって、かろやかないびきすらも立て初めました。
朝の七時だと云うのに、料理場は鼠がチロチロしていて、人のいい主人のいびきも平らだ。お計さんは子供の病気で昨夜千葉へ帰って留守だった。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
跡に殘して出行いでゆきけり是より家内も夫々に休み座敷々々も一同に深々しん/\更渡ふけわたり聞ゆるものはいびきの聲ばかりなり然るに彼町人體の男は家内の寢息ねいき
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
直ぐ近くの草原の中から不意に『ゴオリゴオリ』といういびきの音が聞こえました時には、流石の私も肝ッ玉が飛上りました。
S岬西洋婦人絞殺事件 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
なんとゆつても、まるで屍骸しんだもののやうに、ひツくりかへつてはもう正體しやうたいなにもありません。はりすゝもまひだすやうないびきです。
ちるちる・みちる (旧字旧仮名) / 山村暮鳥(著)
この時自分のいる所から余り遠くない所に、鈍い、いびきのような声がし出したので、一本腕は頭をその方角に振り向けた。
橋の下 (新字新仮名) / フレデリック・ブウテ(著)
と苦しそうに小声で言い、すぐにそのまま式台に寝ころび、私が寝床に引返した時には、もう高いいびきが聞えていました。
ヴィヨンの妻 (新字新仮名) / 太宰治(著)
高ちやんなぞは夜るるからとても枕を取るよりはやくいびきの声たかく、い心持らしいがどんなに浦山うらやましうござんせう
にごりえ (新字旧仮名) / 樋口一葉(著)
彼らはすでに、身動きもせず、口をつぐんだまま、その力持ちを感心して見ているのである。彼らのうしろでは、寝ている子供のいびきが聞こえていた。
の蔭から六十近いおやじが顔を出して一寸余を見たが、直ぐ団扇うちわでばたばたやりはじめた。後の方には車が二台居る。車夫の一人はいびきをかいて居る。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
半歳の病気にむしばまれて、少しむくんだ、鉛色の顔などを見ると、卒中性のいびきを聞かなくても、人など殺せる容体ではないことは余りにも明らかです。
よろよろしながら牛部屋へはいって来て、そこにあるそりの中に着物も脱がずに倒れると、すぐさまいびきをかきはじめた。
女房ども (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
アルゴス(訳者注 百の目をそなえ五十の目ずつ交代に眠るという怪物)は終夜いびきをかいて眠ってしまったのである。
あたしの楽しい空想や計画は、君の顔を見ると、不思議に破れてしまうからだ。とりわけて、今晩だけはいびきをかかない様にしてもらえないであろうか。
瑠璃子も、寝台ベッドの中で、暫らくの間は、眠り悩んでゐたやうだつたが、その裡に、おだやかないびきの声が聞え初めた。
真珠夫人 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
いびきをかいて眠っていた僕は、突然に大きい物音で目をさまされた。その物音を調べようとして、同室の男は僕の頭の上の寝台から一足飛びに飛び降りた。
「そっだらおまえ黒くともえいから、えい加減に搗いて寝ろや。おら先に寝るから」といって疲れた父は納戸なんどへ這入るが否やすぐいびきを漏らすのであった。
新万葉物語 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
何時の間にか其処に横になって大きないびきをかき出した。三人して引摺る様に蚊帳の中に入れるのも知らなかった。
恭三の父 (新字新仮名) / 加能作次郎(著)
何頭いるだろうと勘定して見たが、とても及ばない。奥の方に一町ぐらい続いている。恐ろしく長いエレベーターだと思った刹那、安達君はいびきをかき始めた。
求婚三銃士 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
痺れきツた腕を摩りながら、やをら起あがりざま母親はと見れば、二畳に突ツ俯したまゝスウ/\いびきを立てゝゐる。神棚、佛壇、時計すらない家は荒涼してゐた。
昔の女 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
二等列車の事とて風采だけは其れ相當にして居るが、私生涯と公生涯との差別を知らない國民の常とて、中にはもう大きないびきを遠慮なく轟かせるものがある。
新帰朝者日記 (旧字旧仮名) / 永井荷風(著)
宵惑いの大尼君は大きいいびきの声をたてていたし、その前のほうにも後差あとざしの形で二人の尼女房が寝ていて、それも主に劣るまいとするようにいびきをかいていた。
源氏物語:55 手習 (新字新仮名) / 紫式部(著)
小さい、いびきの外に、何んの音もなかった。庄吉は、耳を澄ましつつ、静かに、供部屋の前を、這って通った。
南国太平記 (新字新仮名) / 直木三十五(著)