かえ)” の例文
丁度その途端、信一郎の肩を軽く軟打パットするものがあった。彼はおどろいて、振りかえった。そこに微笑する美しき瑠璃子夫人の顔があった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
「あれ、まだあると思ったに……。」と、ランプに火をともしていた母親は振りかえって言おうとしたが、ごうが沸くようで口へ出なかった。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
官兵衛は、師のことばへ、耳を向けただけで、御着ごちゃくの方をふりかえっていた。彼に似気にげなく、何かただならない顔色を現わしている。
黒田如水 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
何という懐かしい、久しぶりにく女の声であろう。振りかえって考えると、それは去年の五月から八、九カ月の間も聴かなかった声である。
黒髪 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
伝法院へ這入はいり、庭を抜けて田圃を通り、前述の新門辰五郎のいる西門を、新門の身内のものに断わって通るまでに、後を振りかえって見ると
ことばがよく通じないので諸君はかえりみずして去ったと言って、あとでまだ不安に思っているようでした。
青蛙堂鬼談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
また武蔵野のあじを知るにはその野から富士山、秩父山脈国府台こうのだい等を眺めた考えのみでなく、またその中央につつまれている首府東京をふりかえった考えで眺めねばならぬ。
武蔵野 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
誰でもそうであろうか余り度度出会すときは、意志のない振りかえりをやるものである。彼女はそのときも例によってかれの顔を凝視しながら忙しげに往来へ出て行った。
幻影の都市 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
かえり見ると、安心して浮標うきを見詰めている。おおかた日露戦争にちろせんそうが済むまで見詰める気だろう。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
我この塔に銘じて得させん、十兵衛も見よ源太も見よとのたまいつつ、江都の住人十兵衛これを造り川越源太郎これを成す、年月日とぞ筆太にしるしおわられ、満面に笑みをたたえて振りかえりたまえば
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
御者はきと振りかえりて
義血侠血 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
露八はつい後方うしろにばかり気をられているのだった。そのときも、かえっていた。そして思わず、あっ……と佇立たたずんでしまった。
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「お連れさんがそこへ来ていらっしゃいやすよ。」と言ってその顎をしゃくった。その時にお増が後を振りかえった。磯野も振り顧った。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
「大分いろ/\な御意見が出たのですがね。ここにいらっしゃる渥美あつみ君、確かそうおっしゃいましたね。」三宅は、一寸ちょっと信一郎の方を振りかえった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
すると女は、すぐこちらを振りかえりながら立って来て、「そんなもん見てはいけまへん」と、むっとしたように私の手からそれらの写真を奪いとった。
黒髪 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
そうして黒い眼を動かして、うしろ硝子壜ガラスびんしてある水仙をかえりみながら、英吉利は曇っていて、寒くていけないと云った。花でもこの通り奇麗きれいでないと教えたつもりなのだろう。
永日小品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
のみならずそのかすかな身動きをすぐ気どったらしく、馬のそばから振りかえった跛行の若い侍は、伊織の顔を、ぐいと睨みつけて行った。
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
目が始終前の方へいていたが、そのころ時々幼い折の惨めな自分の姿や、陰鬱いんうつな周囲の空気を振りかえるようなことがあった。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
しばらくして後の方を振りかえって見ると、お宮は本当に後戻あともどりをして、もう向うの方に帰ってゆく様子である。
うつり香 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
信一郎が、いとまを告げたときには何とも引き止めなかった夫人が、玄関のところで、急に後から呼び止めたので、信一郎は一寸意外に思いながら、振りかえった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
立籠って見て始めてわが計画の非なる事を悟った。夏は暑くておりにくく、冬は寒くておりにくい。案内者は朗読的にここまで述べて余をかえりみた。真丸まんまるな顔の底に笑の影が見える。
カーライル博物館 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
かえってみて、何か、かおのようなにおわしさが、その老梅のものではなく、自分のうしろに立っている巫女みこ直美なおみであることを知った。
牢獄の花嫁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
十六、七時分から、妾にやられたり、商売をさせられたりして来た、友達のこの十五、六年間の暗い生活が、振りかえられた。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
彼は、立ち止って振りかえった。見ると、弥助が、息を切らしながら、追いかけて来たのであった。彼は弥助の顔を見たときに、はげしい憎悪ぞうおが、胸の裡にいた。
入れ札 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
かえってみると、母親にこそ近ごろたびたび会っているが、本人の顔を見たのは、もう、去年の七月の初め彼女のところから山の方に立っていった、あの時見たきり七
霜凍る宵 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
月が改って、役所の動揺もこれで一段落だと沙汰さたせられた時、宗助は生き残った自分の運命をかえりみて、当然のようにも思った。また偶然のようにも思った。立ちながら、御米を見下して
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
一難をのりこえては、一難をふりかえるときの生命の大きな呼吸。あの愉快極まる人生の快味を、鹿之介は、みずから名づけて
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
母親は畳んでいた重い四布よのとんをそこへ積みあげると、こッちを振りかえって、以前より一層肉のついたお庄の顔を眺めた。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
ふと振りかえると、今まで見えなかった赤城が、山と山の間に、ほのかに浮び出ていた。
入れ札 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
私に語る言葉の端々が妙に粗雑ぞんざいになってくるに反して、その死んだ人間のことをいう時にはひどく思いやりのある調子になりながら、火鉢の傍に坐っている若奴の顔をかえって
霜凍る宵 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
と、睨む真似をして、早足に五、六歩離れると、またふりかえって、ついと屋上に時計塔のある柳田商会の小売部へはいった。
かんかん虫は唄う (新字新仮名) / 吉川英治(著)
お作も振りかえって、正面から男の立ち姿を二、三度熟視した。お作は小柄の女で、歩く様子などは、坐っているよりもいくらかいいように思われた。
新世帯 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
私は、母親はどんな心持でいるのかと、そっちを振りかえってみると、母親は次の間の火鉢の傍で人の好さそうな顔をして、微笑しながら娘のすることを黙って遠くから見ているばかりである。
狂乱 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
トム公はかえって、ぎょっとしたように外の闇を見つめた。からたちのいばらをかして華やかな友禅ゆうぜんちりめんと緋鹿ひが帯揚おびあげが見えた。
かんかん虫は唄う (新字新仮名) / 吉川英治(著)
どうかすると振りかえって見たりなどしたことが、三人連れ立って出歩いている時の、お増の心に寂しく浮びなどした。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
振りかえって指を折ってみると、もうあの時から足かけ五年になる。
黒髪 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
お甲は、気がついて、薄ぐらい土間の片隅を振りかえった。そこの床几しょうぎにはこもをかぶった在郷の若者が、さっきからいびきをかいてよく眠っていた。
宮本武蔵:07 二天の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
静子の後向きになって、人形に着物を着せたり脱がしたりしている姿が、しんとした部屋のふすまの蔭から見られた。その目が、時々こっちを振りかえった。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
そっちを振りかえって
霜凍る宵 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
庭さきから、ふと、陽あたりのよい小書院の縁をふりかえって、丹女たんじょはあわてて、そこにいる老母のそばへ、起しに行った。
これまで長いあいだいやいや執着していた下宿生活のさびれたさまが、一層明らかに振りかえられた。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
橋の途中からも、向うへ渡ってからも、お通のすがたを、何度も不遠慮にかえって、すたすたと山間やまあいに隠れて行った。
宮本武蔵:08 円明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
お銀は長いあいだちがった水にらされて来た自分の姿を振りかえられるようであった。いつも女らしく着飾ったこともなしに、笑ったり泣いたりしているうち、もう二人の子の母になった。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
その側に添ってゆく夫人マダムのお槙は、今観覧席で足をつかまれた時に気づいたとみえて、時折トムの方をふりかえりながら
かんかん虫は唄う (新字新仮名) / 吉川英治(著)
腕車くるまを降りると、お作はちょいと嫂を振りかえって躊躇ちゅうちょした。
新世帯 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
人馬三千の列が、下加茂しもかもの河原まで来てよどんだとき、人々は期せずして、うしろを振り向いた。光秀も振りかえった。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
今更のように、彼等は、平治の乱や保元の頃のおもを、新たに語りだして、二十年の歳月をふりかえり、にわかに、世の中の変貌へんぼうに目をみはり出した。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
自分が叱られたのかと思ってふりかえったが、見ると玄関の前に、今門からはいって来たらしい細っこい老婆が、杖をたてて、きかない顔を、じっと
宮本武蔵:07 二天の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
脇玄関をあがり、そこの役部屋を、そっと覗くと、まだ起きて、何かの吟味書ぎんみがきを調べていた小林勘蔵がふりかえった。
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
道が、山陰に曲がる時、玉枝は、もういちど含月荘の方をふりかえって見たが、大村父子の姿はもう見えなかった。
牢獄の花嫁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)