“疼(うず)” の例文
姫は夜の闇にもほのかに映る俤(おもかげ)をたどって、疼(うず)くような体をひたむきに抛(な)げ出(だ)す。行手(ゆくて)に認められるのは光明であり、理想である。
離してみると、紙に滲(にじ)んだ桃色の唾(つば)——人にきらわれる癆咳病(ろうがいや)みの血——。だが、彼女の目には若い血の疼(うず)きがそこへ出たかと見える。
鳴門秘帖:01 上方の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
チクチク疼(うず)かせるのが例であったが、今日も、眼をうすくとじて、よい気持そうにうなりながら、お京の幻影を胸にえがいていた。
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
精神を低く屈しさせられれば屈しるほど、その息づきのせわしさが自覚される三分の魂をもって、自身のうちに疼(うず)く内部反抗を自覚した。
現代の主題 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
が、その時、カサリという音が、十四郎の寝間の方角でしたかと思うと、滝人の心臓の中で、ドキリと疼(うず)き上げたような脈が一つ打った。
白蟻 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
しかも、それと同時に私の頭の痛みが、何となく神秘的な脈動をこめて、新(あらた)に活(い)き活(い)きと疼(うず)き出したように思えてならなかった。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
四肢がけだるく、腰は激しい疼(うず)くような痛みを覚えた。昔は自分の肉体など、感じないほど、五体が自由に動いたものだった。
浮動する地価 (新字新仮名) / 黒島伝治(著)
下着まで水に濡れた翌朝、彼が眼を覚ますと、鼻の奥や耳の底が不快に疼(うず)いていた。熱っぽい身体からは、かすかにどぶの臭いが立っていた。
黄色い日日 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
それから、ある日、何故(なぜ)か分らないが、女の顔がこの世のなかで苦しむものの最後のもののように、ひどく疼(うず)いているように彼にはおもえた。
火の唇 (新字新仮名) / 原民喜(著)
出来れば一つラヴ・ロマンス(お笑いになりましたね。)そいつを書いてみたいという思いが心のどこかの隅に、幽(かす)かに疼(うず)いていたようです。
風の便り (新字新仮名) / 太宰治(著)
でもこの前の時と違うのは、おりおり胸が気味悪く疼(うず)くことと、午後になると毎日のように疲労感が襲って来ることである。
鍵 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
だが、筋々が断(き)れるほどの痛みを感じた。骨の節々の挫(くじ)けるような、疼(うず)きを覚えた。……そうして尚、じっと、——じっとして居る。射干玉(ぬばたま)の闇。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
私は、そのときの自分の、芝田晴子という名の娘を思うたびに胸に揉(も)みこまれた、奇妙な痛みに似た閃(ひらめ)くような疼(うず)きを、いまだに忘れてはいない。
軍国歌謡集 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
そしてまだ陽を見たことのないクリーム色の(十二字(じ)削(さく))そして彼女の完全な(それは、悲しい、思っただけでも胸の疼(うず)くような)離反! 自棄酒(やけざけ)。
自殺 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
そのとき、太った鈴木隆助の胸に阿賀妻謙の名が彫りきざまれたのである。疼(うず)くような羞(はず)かしめの感じを伴っていた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
やがてまた音と、運動と、触覚——体じゅうにしみわたるぴりぴり疼(うず)く感覚。次に思考力を伴わない単なる生存の意識、——この状態は長くつづいた。
落穴と振子 (新字新仮名) / エドガー・アラン・ポー(著)
眼と鼻のあいだの寸が少しつまっていることだけが難といえば難であるが、しかし、内に疼(うず)く肉体の若さは化粧をしていないだけにみずみずしかった。
本所松坂町 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
マリアは一切を思い出させる力をもっている。既に恢癒(かいゆ)したはずの傷までがまた疼(うず)き出しそうだ。言うまでもなく私にとっては忘却の方が有難かった。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
お生命(いのち)も冥加(みょうが)なくらい、馬でも牛でも吸い殺すのでございますもの。しかし疼(うず)くようにお痒(かゆ)いのでござんしょうね。
高野聖 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
いくらよごれていても緊密に結ばれた男女の形には、若い身空の肉情に疼(うず)き入る何物かゞあるのでございましょう。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
赤い電球が電柱の蔭に見え隠れして、歪(ゆが)んだ十字架のような岐路の一方に、ひとり夜の心臓のように疼(うず)いている。
あめんちあ (新字新仮名) / 富ノ沢麟太郎(著)
お互いにあまり強く接吻し合ったものだから、二人ともその日一日じゅう前歯がズキズキ疼(うず)いたくらいであった。
それから彼が、脚を捥(も)がれた昆虫が草の中をまごまごするように、お手前同様下らん連中の中を疼(うず)くような悩みを背負って迷い歩くところを見てやろう。
決闘 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
水へ入るのは、まだいくらか肌寒く、歩くには暑いさんさんたる太陽の直射を浴びながらただもう夢中で、私は肉の疼(うず)きだけをモテアマシ切っていたのです。
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
すでに幾度も苦い汁(しる)を呑(の)ませられた庸三の警戒の目の下に、やり場のない魂の疼(うず)きを忍ばせている彼女は、すでにこの恋愛の前にすっかり打ち踣(のめ)されていた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
この二三年の月日でようやく癒(なお)りかけた創口(きずぐち)が、急に疼(うず)き始めた。疼くに伴(つ)れて熱(ほて)って来た。再び創口が裂けて、毒のある風が容赦なく吹き込みそうになった。
門 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「そこがあたいの腕のあるところなのよ、ちゃんと療治していただいて、疼(うず)きもとうに治っちゃった。」
蜜のあわれ (新字新仮名) / 室生犀星(著)
下腹や腰の周囲(まわり)がズキズキ疼(うず)くのさえ辛抱すれば、折々熱が出たり寒気がしたりするくらいに過ぎぬから、今のところではただもう暢気(のんき)に寝たり起きたりしている。
深川女房 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
そして、彼女の胸はしだいに激しく疼(うず)いてきた。彼女の両の目は、いつの間にか熱く潤んできていた。
恐怖城 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
根太が疼(うず)いたり、匂いは花になくて鼻にあったりするのにくらべたら、いささか感情の上に一進歩を認めるべきであります。なおさらに数歩を進めている句の一例は
俳句とはどんなものか (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
わたくしは胸の底が疼(うず)くような、なま温いような、擽(こそばゆ)いような、……小夜(さよ)ふけに寝床の中で耳を澄ましますと、わたくしの鼓動が優しくコトコトと鳴るのでございまス。
一足ごとに疼(うず)く痛さ、それは全く弾傷よりも切り傷よりも烈しくて、果ては眼さえ眩(くら)み出した。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
それも身内が疼(うず)くような大きな歓びであったことはたしかだ、——子のためにはどんな辛労も厭(いと)わないという、母親の愛とはこういう感動のなかから生れてくるのに違いない
菊屋敷 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
私はまたさらに寂しい心地(ここち)に滅入(めい)りながら、それでもやっぱり今柳沢に毒々しく侮辱された憤怒の怨恨(うらみ)が、嬲(なぶ)り殺しに斬(き)り苛(さいな)まされた深手の傷のようにむずむず五体を疼(うず)かした。
うつり香 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
独り居室にいるときでも、夜、牀上(しょうじょう)に横になったときでも、ふとこの屈辱の思いが萌(きざ)してくると、たちまちカーッと、焼鏝(やきごて)をあてられるような熱い疼(うず)くものが全身を駈(か)けめぐる。
李陵 (新字新仮名) / 中島敦(著)
無智とも不憫(ふびん)とも言いようのない感じではないか。それにつけても、呪(のろ)われた運命の子こそ哀れだ……悩ましさと自責の念から、忘れかけていた脊部肋間の神経痛が、また疼(うず)きだした。……
死児を産む (新字新仮名) / 葛西善蔵(著)
しかも、シュンシュンとその水は、自分の身体中で冷たく漣(さざなみ)立てて疼(うず)くのだ。
寄席 (新字新仮名) / 正岡容(著)
心の古傷も疼(うず)き出すことがあったが、何事も過去のことゝ諦めて、研究に邁進し、やっと近頃悲しい記憶を下積にすることが出来、君たちの結婚の日取までうっかり忘れるところであったが
恋愛曲線 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
大地は雪に蔽われて、死んだように寂然(ひっそり)している。彼女はいきなりその素足を氷のように冷たい、柔かな粉雪のなかへ一歩踏み込(こん)だ。と、傷のように痛く疼(うず)く冷感が、心臓のところまで上って来た。
初雪 (新字新仮名) / ギ・ド・モーパッサン(著)
しだいしだいに悩ましさを増して彼の心を疼(うず)かせていったのである。
並行して血を滲(にじ)ませた幾条かの打ち創のあるものはひそやかに血潮を吹いてゐた。定は静かに頭(こうべ)を垂れると次々にその創痕に唇を当てて行つた。その味(あじわ)ひは塩辛く彼の胸には苦艾(にがよもぎ)に似た悔恨が疼(うず)いた。
水に沈むロメオとユリヤ (新字旧仮名) / 神西清(著)
暑さ寒さに疼(うず)きやまぬその傷跡から
原爆詩集 (新字新仮名) / 峠三吉(著)
その底に疼(うず)きくるしむ
邪宗門 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
「だめだのう、まだおれは。あれを思い、これを思い。……ちょうどそちが煩(わずら)っていた歯痛みとおなじような疼(うず)きに終夜悩まされての」
云い知れぬ神秘的な悩みに全身を疼(うず)かせつつ、鎮守の森の行詰まりの細道を、降るような蝉の声に送られながら、裏山の方へ登って行った。
笑う唖女 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
殊(こと)に右の腋(わき)の下が疼(うず)いて、肋膜(ろくまく)にでもなるのではないかと云う不安を感じたが、好い塩梅(あんばい)にそれも数日間で直ってしまった。
細雪:02 中巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
と頭上にある青空が、さっと透き徹って光を放つ。(この心の疼(うず)き、この幻想のくるめき)僕は眼も眩(くら)むばかりの美しい世界に視入(みい)ろうとした。
火の唇 (新字新仮名) / 原民喜(著)
(その時俺は高城を射つか黙って射たれるか、どちらを取るだろう?)彼はその事を考えたとき何故か疼(うず)くような快感を苦痛と一緒に感じていた。
日の果て (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
時やんは、まだ、馬に乗って、郵便配達をしているのか知らん?——マンの胸の奥の奥で、ちくちく疼(うず)くものがあった。
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
もはや何の心労もなく、望みもなく疼(うず)きもしない彼女には、額に触っている、冷たい手一つだけを覚えるのみであった。
白蟻 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)