以前まえ)” の例文
と燈火の光なのであろう、橙黄色だいだいいろのほのかな光が、以前まえのようにすぐに眼に映り、つづいてその中に浮いている白い女の顔が見えた。
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
夏姫は、夫に済まなさを感じるでもなく、さりとて、軽蔑を感じるでもない。ただ、以前まえより一層心優しく夫をもてなすようになった。
妖氛録 (新字新仮名) / 中島敦(著)
声の主は以前まえからそこにいたものらしい、同時に、黒光りの重い板戸が音もなくあいて、敷居ぎわに、半白の用人が端然とひかえている。
つづれ烏羽玉 (新字新仮名) / 林不忘(著)
僕は同じ一日も暮しようによっては随分長いものだと思った。今朝東京駅で家の人に別れたのが余程以前まえのことの様に考えられる。
ぐうたら道中記 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
「節ちゃんは苦労して、以前まえから比べるとずっと良くなった。何だかおれはお前が好きに成って来た——前にはそう好きでもなかったが」
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
おれはどうやら、さっき兄貴のどなったこともすっかり読めたし、以前まえからのことも幾分わかってきたような気がするよ。
けれどもの家の前に立って見たって、みんな知らぬ人が住んでいる。中には取払われて、以前まえの跡形もない家もあった。
別れたる妻に送る手紙 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
私は、以前まえから箏曲では「那須野なすの」が、すこしの手も入れないで、あのまま踊になるということをいつも言っていた。
朱絃舎浜子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
「小浜さんはどうして中々金持なんですよ。二年以前まえに伯父さんの遺産を貰ってね、何でも何十万という事ですよ」
青服の男 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
あたかもそうした痛い処が私の頭の上に在るのを、ズット以前まえからチャンと知っていたかのように、事もなげな口調で
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
これは内證ないしょうのおはなしですがね、勿論もちろん百年も以前まえの事ですから、誰も実地を見たという者もなく、ほんの当推量あてずいりょうに過ぎないのですが、昔からの伝説いいつたえに依ると
画工と幽霊 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
発狂したようにわめきつづけるのである。死際しにぎわの頼みだ、待ってやれと、将の一人が云った。露八は、幕兵の手を振りほどいて、以前まえ空楼あきやの内へ駈けもどった。
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ぼろぼろにくずれて、戸をあけて内へ入ると、一種嫌な臭気がプーンと鼻をつく、それゆえ以前まえに居た人なども、物置にでもつかったものらしい形跡がある、こんな風に
怪物屋敷 (新字新仮名) / 柳川春葉(著)
こうしてイワンはよぼよぼの牝馬めうまを一匹だけ残され、以前まえ通り百姓をして両親を養って行きました。
イワンの馬鹿 (新字新仮名) / レオ・トルストイ(著)
それからノズドゥリョフは、やはり以前まえには素晴らしい馬が入れてあったという、からの厩を見せた。
お祖父さんも以前まえは大小を差して、戸田家にて仮令たとえ少禄でも御扶持ごふぢを戴いたものだ、其の孫だからお前も武士さむらい血統ちすじを引いて居るではないか、忠孝まったからずと云うて
霧陰伊香保湯煙 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
以前まえの夫人は社交界でも有数の美人で、可なりにヒステリックな、又、コケッチッシュな性質をちその操行については、よくない噂をさえ耳にしたことがありました。
印象 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
「いつ来たって、もう。——よっぽど以前まえだ、大阪へ行くまえだから七八年まえだ。」
春泥 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
然かし体躯からだ以前まえよりも遙かに健康よくなられた。直訴の時分には車が無ければ歩行事あるくこと出来なかつた人が、今では腕車くるまを全廃されたと云ふ。顔の皺も近頃は美しく延びて、若々となられた。
大野人 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
それに、ようすが以前まえとはすっかり違ったね。非常におこるよ。いつだッたか僕が川島男爵夫人バロネスかわしまの事についてさ、少しからかいかけたら、まっ黒に怒って、あぶなく鉄拳てっけん頂戴ちょうだいする所さ。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
というものは、ついその三四日以前まえまで、ふとした事から、天狗てんぐさらわれた小坊主同然、しかし丈高く、つら赤き山伏という処を、色白にして眉のやさしい、役者のある女形に誘われて、京へ飛んだ。
白花の朝顔 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
今よりちょうど一千二百八十余年以前まえ、かの三蔵法師で有名な中国の玄奘三蔵げんじょうさんぞうが翻訳されたもので、今日、現に『心経』の訳本として、だいたい七種類ほどありますが、そのうちで『心経』といえば
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
もうずっと以前まえから法廷で博奕をやってたってんですよ。
あやつり裁判 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
「全く有ったよ、然し余程以前まえに死で了った」
酒中日記 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
こうして次々に十二段の備えが進み出ては右へ曲がり、全軍悉く曲がり終えた時には以前まえの位置に以前まえの順序で全軍粛々と控えていた。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
以前まえまえからの約束もあり、今朝伊助は、貧しい中からいくらかの鳥目をお藤に持たせて、根掛けの板子縮緬いたこちりめんを買いに亀安へったのだった。
とお父さんが直ぐに答えたところを見ると、この談話はなし以前まえからの続きに相違ない。僕は兎に角形勢が分ると思って、一生懸命に夕刊を睨んでいた。
ぐうたら道中記 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
別荘——といっても、二昔ふたむかし以前まえに建てられて、近頃では余り人が住んだらしくない、古めかしい家の中から、一人の百姓女がまりのように飛出して来た。
青服の男 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
以前まえの伊勢崎屋というものは、隣家となりの方と是方こっちと二軒続いた店になっていたんだね。これが大勝へ抵当に入った。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
紅矢はずっと以前まえもとの藍丸王から、自分の第一番目の妹濃紅こべに姫をお后に差し上げるよう、固い御言葉を受けておりまして、まだうちの者には話しませぬが
白髪小僧 (新字新仮名) / 夢野久作杉山萠円(著)
「あなた、の人に逢った事がありますか。それは百年も以前まえの人です、アハハハハ」と、う云われて私も気が付いた、なるほどの仔細を知らぬ主人あるじが不思議に思うも道理もっとも
画工と幽霊 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
只今では岩崎いわさきさんがお買入れになりまして彼処あすこが御別荘になりましたが、以前まえには伊香保から榛名山はるなさんへ参詣いたしまするに、ふただけへ出ます新道しんみちが開けません時でございますから
霧陰伊香保湯煙 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
隣家となりの主人も、長い間の入りわけを知っている、以前まえの主人のところに往って話を聴いてもらうのが一等よかろうと言ってすすめるので、私はその気になって起って庭に下りようとすると
霜凍る宵 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
つとめて己を抑え、天の意には決して逆らわない。これが嘗て陳楚二国を擾がした妖姫とは、どう見ても受取れない。しかし巫臣は決してやすんじなかった。夏姫は以前まえから斯うした女なのである。
妖氛録 (新字新仮名) / 中島敦(著)
イエスに疑念をさしはさんだのは、かなり以前まえからのことであった。ユダにはイエスが傲慢に見えた。それが不愉快でならなかった。
銀三十枚 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
おしんは、以前まえから磯五とそういう交渉があって、お駒ちゃんのいたころから、お駒ちゃんとおしんのあいだには、いざこざが絶えなかったものだ。
巷説享保図絵 (新字新仮名) / 林不忘(著)
「なるほど」と、手帳を訂正しながら、「帰って来たのはその以前まえかも知れませんなア。然し、帰って来たのが十二時以後という事はあり得ない訳ですか」
青服の男 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
法医学的研究趣味とが相俟あいまって、伝え聞く数千年前の「木乃伊ミイラの化粧」式な怪奇趣味にまで、ズット以前まえから高潮しておりましたのが、斯様な機会に曝露したもので御座いましょうか。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
「で、ちた人はうしました、死んだ人もありましたか」相手はかしらを振って、「イエしんだ方はありません、ただ怪我けがをする位の事です、しかし今から百年ほど以前まえにこのおやしきの若様が、 ...
画工と幽霊 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
風雨に曝らされた板壁の様子や床に積もった塵埃ごみから推すと、三年、五年、もっと以前まえから小屋は造られてあったものらしい
沙漠の古都 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
「拙者の以前まえに持っておった者が、やはり三つの願をかけて、それも三つともかなったとか聞き及んでおるが——。」
「二十二年以前まえを思い出せ、と書いてありますね。それから何故ワルーム、というのですが、この記号は——」
血液型殺人事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
そうしてその途中か、又は、その前かわからないが、一個月ぐらい以前まえに、頭をハイカラの学生風に刈っていた事があるらしい。その時の姿に私は今、復旧しつつあるのだ……なぞと……。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
わたくしの邸へ縁付きましてから、今年で丁度まる五年その間別に変わった事もございませんでしたが、今から十日ほど以前まえの晩、時刻はの刻過でもありましょうか、薄暗い行燈あんどうのかげに何物なにか居て
お住の霊 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
あまり相手がおとなしいため、彼らは次第につまらなくなった。そこで彼らは城主を見棄て、また以前まえの隠れん坊をやり出した。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
公儀のことは文次などにはよくわからないが、彦根ひこね様が大老職について、以前まえから持ち越していた異国との談判、つづいて何だかんだとかなえのわくような世のさま。
つづれ烏羽玉 (新字新仮名) / 林不忘(著)
つけますと、先生はもつれた舌で、『もっと以前まえからつけて置かなくちゃ、寒くていかんじゃないか』
血液型殺人事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
そこで主税はその隠語を、以前まえから知っている隠語と合わせて、何かの意味を探ろうとした。隠語はこのように綴られた。
仇討姉妹笠 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
僕達はもう少しの所で捕まる所だったが、その時に森君は以前まえに見て置いたと見えて、村の交番の中に駆け込んだ。(ここは交番と云うのではなく駐在所と云うんだそうだ)
贋紙幣事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
以前まえの事情を説明しておかないと、話がすすまない。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)