一瞥いちべつ)” の例文
じろりと鋭い一瞥いちべつをくれたかと見えるや、果然、知恵の袋の口があいたとみえて、さえまさった声がたちまちずばりと放たれました。
彼は縄梯子なわばしごに取りすがって、舷檣の頂きに登ろうとつとめた。それはあたかも去りゆくものの最後の一瞥いちべつを得んと望むかのように——。
いつもの彼であれば、芸人冥利みょうり讃嘆さんたんのささやきを呟いてくれる、そうした人たちの方へ、礼ごころの一瞥いちべつはあたえたかも知れない。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
老公の頬に、すこしくれないがさした。かん紐爪ひもづめを解き、くるくると繰りひろげる。らんとした眼がずうっと、それに、並ぶ名を一瞥いちべつした。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
美奈子は電車が、平素いつもの二倍もの速力で走っているように思った。彼女は、最後の一瞥いちべつを得ようとして、思い切って顔を持ち上げた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
私はやうやくほつとした心もちになつて、巻煙草に火をつけながら、始めてものうまぶたをあげて、前の席に腰を下してゐた小娘の顔を一瞥いちべつした。
蜜柑 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
ただ当時の余はかくのごとき情調に支配されて生きていたという消息が、一瞥いちべつきうちに、読者の胸に伝われば満足なのである。
思い出す事など (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ですから、あの室に入って夫の屍体を一瞥いちべつすると同時に、私の眼は、まるで約束されたもののようにヴィデさんに向けられました。
潜航艇「鷹の城」 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
北斎のあらゆる方面の代表的作品とまた古来日本画の取扱ひ来りし題材ならびにその筆法とを一瞥いちべつもとに通覧せしむる辞彙じいの如きものなり。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
その落ち着いた一瞥いちべつの威厳のみで既に、ものすごい一群の者らをして、彼を殺すに当たって尊敬の念を起こさしめるかと思われた。
斯う云ふ場合、誰れもが感ずるらしい、気の引けるやうな、又、罪深いやうな心持ちをしながら、私は斜めに、彼の女をそつと一瞥いちべつした。
アリア人の孤独 (新字旧仮名) / 松永延造(著)
なお、新時代の先駆者たりし北村君に就いては、話したいと思うことは多くあるが、ここにはその短い生涯の一瞥いちべつにとどめておく。
北村透谷の短き一生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
黒いスーツに黒い外套がいとう、それを細つそりした身に上品に着こなしてゐる。席につくなりA氏に一瞥いちべつを与へるでもなく、窓外へ眼をそらした。
三つの挿話 (新字旧仮名) / 神西清(著)
自分等が一瞥いちべつしている関東東部の近世初期の開発地などには、以前の垣内制をおもわしめるような屋敷地取りの方式がなお折々は見出される。
垣内の話 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
妾は恐怖のために大声を挙げて叫びました。そして妾は佐野の許しを乞うような一瞥いちべつを意識して舞台に倒れてしまったのです。
バルザックの寝巻姿 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
賑やかにれ聞こえてくる階下の応接間の笑い声に、苦々しげな一瞥いちべつを与えると、物足りなそうに引き揚げて行くのであった。
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)
院長いんちょうは、その老人ろうじんと、いだ看護婦かんごふとをするど一瞥いちべつしてからいかにも、こんなものを……ばかなやつだといわぬばかりに
三月の空の下 (新字新仮名) / 小川未明(著)
いかに多くの像や形や細工物を工夫しても、ただ通りがかりの人の気まぐれな一瞥いちべつをとらえるだけのことしかできないのだ。
私の家来のフラテはこの水をさもうまそうにしたたかに飲んでいた。私は一瞥いちべつのうちにこれらのものを自分のひとみへ刻みつけた。
わたしが軽騎兵への返事に、非常な憤慨ふんがい一瞥いちべつをくれたので、ジナイーダは手をたたくし、ルーシンは「でかした!」と絶叫ぜっきょうするさわぎだった。
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
一瞥いちべつしただけであったけれど、切り戸から地上へ転がし出された、若い男の死骸が異様なものであったことが、紋也の眼には焼きついていた。
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
うっとり聞き入っている邦夷が、そうかあいつが、か、と、傍目わきめにちらりと一瞥いちべつして、それが安倍誠之助の面上にぴしりとむちのようにおちた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
ホテルから東京駅へのタキシのなかから一瞥いちべつした最後の東京。雨が降っていた。窓を打ってななめに走る水。丸ビルを撫で上げる自動車の頭灯ヘットライト
踊る地平線:01 踊る地平線 (新字新仮名) / 谷譲次(著)
その男の顔がさっと変ったとき、前簾まえすだれのすき間から月のように匂う生絹の顔をちらと見入った。生絹もその時不幸な一瞥いちべつを合わせたのであった。
荻吹く歌 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
尾形警部は沈痛な面持で、療養所長の証明書を一瞥いちべつしました。大きな四角い字で次のような字句が記されてあったのです。
赤耀館事件の真相 (新字新仮名) / 海野十三(著)
そこには若い医員が一パイに並んで診察をしていたが、その中の一人が、松浦先生の話をきくと、X光線の図には一瞥いちべつだも与えないで冷笑した。
いなか、の、じけん (新字新仮名) / 夢野久作(著)
欣弥は受け取りたる紙幣をかろいただきてふところにせり。時に通り懸かりたる夜稼ぎの車夫は、怪しむべき月下の密会を一瞥いちべつして
義血侠血 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
一瞥いちべつしつ「篠田の奴、実にしからん放蕩漢はうたうものだ、芸妓げいしや誘拐かどわかして妾にする如き乱暴漢ならずものが、耶蘇ヤソ信者などと澄まして居たのだから驚くぢやないか」
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
ペテロが師を知らずと言ったとき、イエスは振り返って鋭き一瞥いちべつを彼に与え給うた(ルカ二二の六一)。これによってペテロは救われたのです。
惺々せいせいは惺々を愛し、好漢は好漢を知るというのは小説の常套じょうとう文句だが、秀吉も一瞥いちべつの中の政宗を、くせ者ではあるが好い男だ、と思ったに疑無い。
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
わたくしはしばらくその前を動かなかった。やがて迫って来る時間に気づいて、中尊の阿弥陀像に一瞥いちべつをくれたまま、急いでその室を立ち去った。
古寺巡礼 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
巡査は我々の通る横町の左側、交番の前に立って、茅町を根津の方へ走る人力車を見ていたが、我々には只無意味な一瞥いちべつを投じたに過ぎなかった。
(新字新仮名) / 森鴎外(著)
赤彦君の顔面は今は純黄色に変じ、顔面に縦横じゆうわう無数のしわが出来、ほほがこけ、面長おもながくて、一瞥いちべつ沈痛の極度を示してゐた。
島木赤彦臨終記 (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
大多数の男はあんな目で見られると、この上なく詩的な霊的な一瞥いちべつを受け取ったようにも思うのだろう。そんな事さえ素早すばやく考えの中につけ加えた。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
扉を邪慳じゃけんに締めるなら締めろ。そんなことは平気だ。窓ガラスを透して、頬髯ほほひげやした貴様の支配人づらが、唇をもぐもぐさせているのを一瞥いちべつする。
まず女中が挨拶をするのに対して冷眼に一瞥いちべつをくれたままで、黙って返事をしなかった。そうしてしばらくしてから
漱石氏と私 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
今や吾人は現今わが邦の形勢を論ぜんとするに際し、吾人はまずこの父祖の社会に関し一瞥いちべつの労を取らざるべからず。
将来の日本:04 将来の日本 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
ビリング医師が一瞥いちべつしてほどこすべき策のないことをブラドンに告げると、彼は医師に取りすがって、何度も繰り返した。
浴槽の花嫁 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
Nはしばらく趙を憎さげに見下していたが、私達の方に一瞥いちべつをくれると、そのままぐるりと後を向いて立去って了った。
虎狩 (新字新仮名) / 中島敦(著)
机の上には、大形の何やら横文字の洋書が、ひろげられていたのであるが、佐伯はそれには一瞥いちべつもくれなかった。
乞食学生 (新字新仮名) / 太宰治(著)
わかるかい? おれはじろりと相手を一瞥いちべつした。おまえはあのひとを見たかい? 美人だろう。だがあの時の美しさはそんな風の美しさではなかったのだ。
舞踊家も舞踊の研究者もいまだかつてこのわが国に特有な音楽的芸術としての連句に一瞥いちべつを与えようとしない。
連句雑俎 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
彼はその子供たちの寝姿を見てもなんの感情も起らないふうで、冷やかな一瞥いちべつを投げるとすぐに眼をそらした。
追いついた夢 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
平次の冷たい一瞥いちべつを喰うと、しばらく佐吉の身体は硬直したようでしたが、次の瞬間には身をひるがえして奥へ——。
銭形平次捕物控:050 碁敵 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
けれどもその時、背後をふりかへつた娘の顔が、一瞥いちべつの瞬間にまで、ふしぎな電光写真のやうに印象された。
田舎の時計他十二篇 (新字旧仮名) / 萩原朔太郎(著)
擂粉木すりこぎ擂鉢すりばちとを、くだんの日蓮宗派に属するお寺の坊さんが恭しく捧げて、祭壇の前へ安置した時、端坐していた道庵先生が、おもむろにそれに一瞥いちべつをくれて
大菩薩峠:29 年魚市の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
これは、我々が社会に一瞥いちべつを投ずれば、直ちに明らかに存在を認められる事実である。ところでこの事実のみが経済的産業生産の事実を生ぜしめるのである。
しかしここでは到底その全部を紹介することは出来ないから、極めて簡単な一瞥いちべつを与えてみることとする。
その丘の頂上にのぼりつめた時、わたしはクラリモンドの住む町に最後の一瞥いちべつを送るために見返りました。
義経は、対面を終えた宗盛親子を受取ると、一瞥いちべつも与えられず、すごすごと都への道をたどるのであった。