藪蚊やぶか)” の例文
庭も広く、草も深いのに、秋の虫が多く聴かれないのは、わたしの心を寂しくさせた。虫が少ないと共に、藪蚊やぶかも案外に少なかった。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
それはもちろん異常なる緊張にもよることだったけれど、一つには夏の戸外にはとても藪蚊やぶかが沢山いることを忘れていたせいもあった。
地球盗難 (新字新仮名) / 海野十三(著)
「二三日釣らずに居ましたが、この邊は山の手でも藪蚊やぶかの多いところで、矢張り秋の蚊が出て來るから、今夜は釣つて見ようと仰しやつて——」
はてはそばまつろうのいることをさえもわすれたごとく、ひとしきりにうなずいていたが、ふとむこずねにたかった藪蚊やぶかのかゆさに、ようやくおのれにかえったのであろう。
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
が、その門の下は、斜めにつき出した高いのきに、月も風もさえぎられて、むし暑い暗がりが、絶えまなく藪蚊やぶかに刺されながら、えたようによどんでいる。
偸盗 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
わたくしはラフカヂオ・ハーンが『怪談』の中に、赤坂紀の国坂の暗夜のさま、また市ヶ谷瘤寺こぶでらの墓場に藪蚊やぶかの多かった事を記した短篇のあることを忘れない。
西瓜 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
ひげの長い、しゃ道行触みちゆきぶりを着た中爺ちゅうじいさんが、「ひどいですなあ」と云うと、隣の若い男が、「なに藪蚊やぶかですから、明りを附ける頃にはいなくなってしまいます」
百物語 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
ところが生憎あいにくな事に舞台の背後が、一面の竹藪になっている。春先ではあるがダンダラじまのモノスゴイ藪蚊やぶかがツーンツーンと幾匹も飛んで来て、筆者の鼻の先を遊弋ゆうよくする。
梅津只円翁伝 (新字新仮名) / 夢野久作杉山萠円(著)
そこいらが掘り返されるたびに、生々なまなましい土の臭気が半蔵の鼻をつく。工事が始まったのだ。両村の百姓は、藪蚊やぶかの襲い来るのも忘れて、いずれも土塚の周囲に集合していた。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
五月、六月、七月、そろそろ藪蚊やぶかが出て来て病室に白い蚊帳を吊りはじめたころ、私は院長の指図で、千葉県船橋町に転地した。海岸である。町はずれに、新築の家を借りて住んだ。
なぎに近い暑さ。風鈴が時々ものうく鳴る。明日はこの家を出たいものだ。何しろ、蚊が多いのはやりきれない。台所をかたづけて、水道で躯を拭いていると、ひどい藪蚊やぶかにさされる。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
父の大きな吐息といきが正行にもこのとき耳にわかる気がした。それほど正成の眉は、子にとって何かむずかしいものに見え、かたわらの扇をとって、藪蚊やぶかを追い、その半開きの扇のさきで
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
要は流しに出ていると体じゅうを藪蚊やぶかが喰うので、ざっとシャボンも使わずに汗を洗い落してから丁子の湯の中に浸りきっていたが、そうしていても蚊は相変らず首の周りへ襲って来る。
蓼喰う虫 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
藪蚊やぶか彼等かれらけたあかあしはりして、しりがたはら胡頽子ぐみやううてふくれても、彼等かれらはちくりと刺戟しげきあたへられたときあわてゝはたとたゝくのみでげようともらぬかほである。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
昨夜藪蚊やぶかに食われて碌々ろくろく眠ってない顔に、まぶしい朝暾あさひが当ってくると、たまらなく眠くなってきて……娘たちにも私の疲れているのが、わかるのでしょう、一眠りして行けと、勧めてくれるのです。
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
昨夜この小屋の主人を待つあいだ、あの川ばたの建築場で、焚火たきびを囲み、藪蚊やぶかをうち殺しながら相談した結論を、この一隊は実行しようとしているのだ。行こう、行こう、とうわずった声で叫んだ。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
かれ先刻さきに泰助の後を跟け来りて、この座敷の縁の下に潜みており、散々藪蚊やぶかに責められながら、疼痛いたみこらうる天晴あっぱれ豪傑、かくてあるうち黄昏たそがれて、森の中暗うなりつる頃、白衣を着けたる一人の婦人
活人形 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
久「藪蚊やぶかのように寝床まで飛んでめえり」
菊模様皿山奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
老僧の骨刺しに来る藪蚊やぶかかな
五百句 (新字旧仮名) / 高浜虚子(著)
藪蚊やぶかしてもてばかり。
とんぼの眼玉 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
藪蚊やぶかこそ現れて
晶子詩篇全集 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
「二三日釣らずにいましたが、この辺は山の手でも藪蚊やぶかの多いところで、やはり秋の蚊が出て来るから、今夜は釣ってみようとおっしゃって——」
虫のように、なんの造作ぞうさもなく死んでしまう。——こんな取りとめのない考えが、やみの中に鳴いている藪蚊やぶかのように、四方八方から、意地悪く心を刺して来る。
偸盗 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
人は樹木じゅもく多ければ山の手は夏のさかりにしくはなけんなど思ふべけれど、藪蚊やぶかの苦しみなき町中まちなか住居すまいこそ夏はかへつて物干台ものほしだい夜凉よすずみ縁日えんにちのそぞろ歩きなぞきょう多けれ。
矢はずぐさ (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
家のなかにはまだ燈火あかりもつけていないらしく、そこらには藪蚊やぶかの唸る声が頻りにきこえます。
蜘蛛の夢 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
あれを刈りに行くものは、腰に火縄ひなわげ、それを蚊遣かやりの代わりとし、襲い来る無数の藪蚊やぶかと戦いながら、高いがけの上にえているのを下から刈り取って来るという。あれは熊笹くまざさというやつか。
(新字新仮名) / 島崎藤村(著)
ぴしゃんとじょうをおろされて、それっきり、以来、十箇月、桜の花吹雪より藪蚊やぶかを経て、しおから蜻蛉とんぼ、紅葉も散り、ひとびと黒いマント着てちまたをうろつく師走にいたり、やっと金策成って、それも
二十世紀旗手 (新字新仮名) / 太宰治(著)
「夜は藪蚊やぶか、昼はこの炎天」
大谷刑部 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
長き日を歩みつづけて汗ばむ額も寺の庭に入れば新樹の風ただちにこれを拭ひ、木の根石の端に腰かくるも藪蚊やぶかいまだ来らず、醜草しこぐさなほはびこらざれば蛇のおそれもなし。
礫川徜徉記 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
荒い笹刈ささがりにはぶよ藪蚊やぶかを防ぐための火繩ひなわを要し、それも恵那山のすその谷間の方へ一里も二里もの山道を踏まねばならないほど骨の折れる土地柄であるが、多くのものはそれすらいとわなかった。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)