縹渺ひょうびょう)” の例文
私の趣味から言へば、私は前掲の「心暖き夕」よりも「笑ひ声」の方が、縹渺ひょうびょうとしたメランコリイの波を流してゐて好きである。
全体に縹渺ひょうびょうとした詩境であって、英国の詩人イエーツらがねらったいわゆる「象徴」の詩境とも、どこか共通のものが感じられる。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
「——竹の孔からながれ出て天界へのぼってゆく尺八の音に乗せて、自分のたましいをも縹渺ひょうびょうと宇宙に遊ばせるつもりで聴いていればよい」
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
四階へ来た時は縹渺ひょうびょうとして何事とも知らず嬉しかった。嬉しいというよりはどことなく妙であった。ここは屋根裏である。
カーライル博物館 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
と声を呑んだのでありましたが、今、さきに行くお豊の馬上の姿を見ると、そこに縹渺ひょうびょうとして、また人のにおいのときめくを感ずるのであります。
讓の肉体は芳烈にして暖かな呼吸いきのつまるような圧迫を感じて動くことができなかった。女の体に塗った香料は男の魂を縹渺ひょうびょうの界へれて往った。
蟇の血 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
聖林寺観音の左右には大安寺だいあんじの不空羂索観音や楊柳観音ようりゅうかんのんが立っている。それと背中合わせにわが百済観音が、縹渺ひょうびょうたる雰囲気を漂わしてたたずむ。
古寺巡礼 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
わずか数カイリの遠さに過ぎない水平線を見て、『空と海とのたゆたいに』などと言って縹渺ひょうびょうとした無限感を起こしてしまうなんぞはコロンブス以前だ。
(新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
縹渺ひょうびょうとしたところがある。裾の辺が朦朧とけ、靄でも踏んでいるのだろうか? と思わせるようなところがある。
神秘昆虫館 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
庭の彼方の糸杉と山毛欅ぶな桃金花てんにんかとの森の彼方に隠れて、あたりには夕暗が縹渺ひょうびょうと垂れ込めて、壁に設けられた燭台の上には灯が煙々と輝きめていたが
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
しかしこの光景を空中高き処と見て、雁も月も縹渺ひょうびょうたる大空の真中、しかも首を十分にげて仰ぎ望むべき場合にありとすればこの比喩が適切でなくなる。
病牀六尺 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
同じく北国の夏の夜明けの夢をみるのならば、もう少し縹渺ひょうびょうとした夢か、桁のはずれた夢を見たいものであるが、もって生れた本性は致し方ないようである。
八月三日の夢 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
ただ、テムズを越えてみえるバタッシー公園の新芽の色が、四月はじめの狭霧にけむり、縹渺ひょうびょうとして美しい。
人外魔境:10 地軸二万哩 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
温泉宿も一軒きり、古ぼけた二階家を青ペンキで塗ってある。いて取り柄をいえば、縹渺ひょうびょうたる響灘ひびきなだを望む景色のよさと、魚の新しさくらいのものであろう。
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
やがて仄暗ほのぐらい夜の色が、縹渺ひょうびょうとした水のうえにはいひろがって来た。そしてそこを離れる頃には、気分の落著おちついて来たお島は、腰の方にまたはげしい疼痛とうつうを感じた。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
金堂も美術品保存の主旨から面目を新たにされているが、昔のような神秘縹渺ひょうびょうの趣は無くなった。
冬の法隆寺詣で (新字新仮名) / 正宗白鳥(著)
烈々たる炎のごとき感情の動くまゝに、その短生を、火花の如く散らし去った彼女の勝気な魂は、恐らく何のくいをもいだくことなく縹渺ひょうびょうとして天外に飛び去ったことだろう。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
い棄てつ、おもむろに歩を移して浜辺に到れば、一碧いっぺき千里烟帆えんばん山に映じて縹渺ひょうびょうのごとし。
金時計 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
見わたすかぎり縹渺ひょうびょうとかすむ田圃と森であった早稲田村は学校が創立されて数年経たぬうちに新市街となり、鶴巻町、山吹町というような町名がつぎつぎとあらわれてきた。
早稲田大学 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
「李広」と云う外国人の巻物「山水図」は大作で真に神韻縹渺ひょうびょうと云う気が全幅に溢れていた。
またはるかに——縹渺ひょうびょうのかなたには海上としては高過ぎ、天空としては星の光とも見えぬ
けだし一たん縹渺ひょうびょうたる音楽の世界へ放たれて揺蕩ようとうする彼のリアリズム精神は、再び地上に定着されるや、ほかならぬその形式のもとに安固たる不滅の像をむすんでいるからである。
チェーホフの短篇に就いて (新字新仮名) / 神西清(著)
縹渺ひょうびょうたる大西洋は、けろりんかんとしていた。どこに海底地震があったという風だった。
地球発狂事件 (新字新仮名) / 海野十三丘丘十郎(著)
「いえ、縹渺ひょうびょうとほんとに目に現れるのです。私は随分見ました。方々のよい噴水で」
噴水物語 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
人類生誕の劫初より縹渺ひょうびょうと湧いて来るような淋しさだった。平一郎はその淋しさを噛みしめながら、天野の「妾宅」であり、冬子の「家」であるところで三日間を過ごしたのである。
地上:地に潜むもの (新字新仮名) / 島田清次郎(著)
私は今年七十八歳になりましたが、心身とも非常に健康で絶えず山野を跋渉ばっしょうし、時には雲にそびゆる高山へも登りますし、また縹渺ひょうびょうたる海島へも渡ります。そして何の疲労も感じません。
いたずらに縹渺ひょうびょうたる美辞(?)を連ねるだけであるからせっかくの現実映画の現実性がことごとく抜けてしまって、ただおとぎ話の夢の国の光景のようなものになってしまうだけである。
映画雑感(Ⅳ) (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
縹渺ひょうびょう」ここにおいて肉体は寸尺の活動の余地を有しないが、精神は天地宇宙の間にひょうびょうと流れゆくのだ。あと一分の不自由だ。肉の焼ける匂いがする。若い肉体の燃焼する快い匂いだ。
長崎の鐘 (新字新仮名) / 永井隆(著)
うみうえでは、なみがあって、なみはなぎさへおしよせて、いわにくだけ、しぶきはたまのごとくとびちり、とお水平線すいへいせんは、縹渺ひょうびょうとして、けむるようにかすみ、しろとりが、砂浜すなはまれをなしてあそんでいるのを
うずめられた鏡 (新字新仮名) / 小川未明(著)
これは外遊のみぎり北京で手に入れた八大山人の小品じゃが、縹渺ひょうびょうたる静寂、これを孤独というのかね、身にしみる魂の深いものがある。
不連続殺人事件 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
広茫こうぼうたる一面の麦畑や、またその麦畑が、上風うわかぜに吹かれてなみのように動いている有様やが、詩の縹渺ひょうびょうするイメージの影で浮き出して来る。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
いずれともつかないうなずきを見せてはいるが、彼自身の意志は、そのあいだ縹渺ひょうびょうとして、天外に遊んでいるのかもしれない。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
更に相模野を遠く雲煙縹渺ひょうびょうかんにながめる時には、海上かすかに江の島が黒く浮んでいるのを見ることができます。
大菩薩峠:20 禹門三級の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
晩年に至っては神仙味を加え、起居動作縹渺ひょうびょうとし、規矩きく人界を離れながら、尚乱れなかったということである。
任侠二刀流 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
そのうえ、ここはさまざまな屈折が氷のなかでたわむれて、青に、緑に、橙色オレンジに、黄に、それも万華鏡のような悪どさではなく、どこか、縹渺ひょうびょうとした、この世ならぬ和らぎ。
人外魔境:03 天母峰 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
それでも、縹渺ひょうびょう無辺際むへんざいに広がっている海を、未練にももう一度見直さずにはいられなかった。
俊寛 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
浴びて馳駆ちくした人間かと疑われるほど、のどかな、むしろ縹渺ひょうびょうたる感じでした
石ころ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
そしてまた、僕たちの乗っているロケットが縹渺ひょうびょうたる大宇宙の中にぽつんと浮んでいる心細さに胸をかれた。なるほど、こんな光景を永い間眺めていたら、誰でも頭が変になるであろう。
宇宙尖兵 (新字新仮名) / 海野十三(著)
韻と律と腕を組んでいるようで、野も縹渺ひょうびょうなれば、山も縹渺である。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
何物にも慰まなかつた小さな心が、縹渺ひょうびょうとした海の単調へ溶けるやうに同化してしまふのを感じて、爽やかな眩暈を覚えた。
小さな部屋 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
そうした初夏の野道に、遠く点々とした行路の人の姿を見るのは、とりわけ心の旅愁を呼びおこして、何かの縹渺ひょうびょうたるあこがれを感じさせる。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
ところで、孔明という人格を、あらゆる角度から観ると、一体、どこに彼の真があるのか、あまり縹渺ひょうびょうとして、ちょっと捕捉できないものがある。
三国志:12 篇外余録 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
所々しょしょ遅桜おそざくらが咲き残り、山懐やまぶところの段々畑に、菜の花が黄色く、夏の近づいたのを示して、日に日に潮が青味を帯びてくる相模灘が縹渺ひょうびょうと霞んで、白雲にまぎれぬ濃い煙を吐く大島が
船医の立場 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
縹渺ひょうびょうとした心持にされていたのが不思議です。
大菩薩峠:27 鈴慕の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
翌朝目覚めた蒲原氏は、明るい太陽の光の下では、昨夜の縹渺ひょうびょうと流れた心を殆んど朦朧としか思ひだすことができなかつた。
逃げたい心 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
まして、はるかな歴史のかなたのこととなっては、縹渺ひょうびょうとして、分からないというのが本当なところである。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彼のイデヤは詩的であり、情味の深い影を帯びた、神韻縹渺ひょうびょうたる音楽である。これに反してアリストテレスは、気質的の学者であって、古代に於ける典型的の学究である。
詩の原理 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
何物にもなぐさまなかった小さな心が、縹渺ひょうびょうとした海の単調へ溶けるように同化してしまうのを感じて、さわやかな眩暈めまいを覚えた。
小さな部屋 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
壮図そうとむなしく曹丕そうひが引き揚げてから数日の後、淮河わいが一帯をながめると縹渺ひょうびょうとして見渡すかぎりのものは、焼け野原となった両岸の芦萱あしかやと、燃え沈んだ巨船や小艇の残骸と
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しかしながらこのイデヤの中には、概念の定義的に明白している、きわめて抽象的な観念イデヤもあるし、反対に概念のほとんど言明されないような、或る縹渺ひょうびょうたる象徴的、具象的な観念イデヤもある。
詩の原理 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)