深淵しんえん)” の例文
そこには彼らをかばってくれる深淵しんえんがある。警察の方でもそれを知っていて、他で取り逃がした者をいつもパリーでさがすのである。
それは進行を止めて雲につかまりながら、両のこぶし深淵しんえんの上方にしがみつき、そしてまた全速力で空間中に突進する。颷風ひょうふうは怒号する。
救世観音の私に与えたなぞは、畢竟ひっきょうその背後に遠く深く漂う歴史の深淵しんえんにひそむのではなかろうか。私には歴史への信仰が欠けていたのだ。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
また小なれば、頭を埋め、爪をひそめ、深淵しんえんにさざ波さえ立てぬ。その昇るや、大宇宙を飛揚ひようし、そのひそむや、百年ふちのそこにもいる。
三国志:05 臣道の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「毒風肌を切る」葱嶺パミールをこえるに当って、玄奘は「竜王のひそむ大竜池」のほとりを通っている。それは、紺碧こんぺきの「無限の深淵しんえん」なのである。
『西遊記』の夢 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
理想が低ければ低いほど、それだけ人間は実際的であり、この理想と現実との間の深淵しんえんが彼にはより少く絶望的に思われる。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
そしてサラサラと淡雪をふり落とす松のこずえの上に高く、二三の星が深淵しんえんの底に光る金剛石のように寒くまたたいていた。
虫籠のようなマイクロホンが、まるで深淵しんえんに釣を垂れているように、あっちに一つ、こっちに一つとぶら下っている。
獏鸚 (新字新仮名) / 海野十三(著)
死は確かに一つの深淵しんえんであり、我れ等の誰れもが未だかつて、その全様相を見きはめたと云ふ話を聞かぬからである。
アリア人の孤独 (新字旧仮名) / 松永延造(著)
葉子は痛切に自分が落ち込んで行った深淵しんえんの深みを知った。そしてそこにしゃがんでしまって、にがい涙を泣き始めた。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
およそ五十メートルほどの幅の滝が、直下三十メートルほどの所に深淵しんえんをたたえた滝壺たきつぼに、濛々もうもうと、霧のような飛沫ひまつをあげて、落下しているのだった。
秘境の日輪旗 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
兄を深淵しんえんへ突きおとした後で、その肉親の弟をも、同じところへ突き陥すような残酷なことはなさるまいとは思いますけれども、念のためにお願して置くのです。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
世の中のすべてをのろってるんだ。皆で寄ってたかって彼女を今日の深淵しんえんに追い込んでしまったんだ。だから僕にも信頼しないんだ。こんな絶望があるだろうか。
淫売婦 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
その八十吉は明治廿五年旧暦六月二十六日のひるすぎに、村の西方をながれてゐる川の深淵しんえん溺死できしした。
念珠集 (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
一度深淵しんえんの底に沈んだ彼は、再び水面に上がることは、いかなる善行をもってしてもこの世においてはできなかったのである。いや不幸なのは彼のみではなかった。
レ・ミゼラブル:01 序 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
困難のじつに水量と反比例をなしきたすすむこと一里にして両岸の岩壁屏風びやうぶごとく、河はげきして瀑布ばくふとなり、其下そのしたくぼみて深淵しんえんをなす、衆佇立相盻あひかへりみて愕然がくぜん一歩もすすむを得ず
利根水源探検紀行 (新字旧仮名) / 渡辺千吉郎(著)
申すまでもなく、曠野こうやにさ迷うその旅人こそは、私どもお互いのことです。一疋の狂象は、「無常の風」です。流れる時間です。井戸とは生死の深淵しんえんです。生死しょうじ岸頭がんとうです。
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
私は臆病おくびょうな人間が恐怖をこらえて深淵しんえんの底を覗き込むように、「眼鏡のない顔」を数分の間息を凝らして視詰めてから、———新婚旅行の夜の記憶がとたんにあざやかに蘇生よみがえった。
(新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
概して何より彼を驚かし始めたのは、彼自身とそれらすべての人々の間に横たわっている、かの恐ろしい越え難い深淵しんえんであった。彼と彼らはまるで違った人種のようだった。
中島健蔵氏の云われる表現と生活との間に潜んだ例の多くの、「深淵しんえん」を渡らねばならぬ。
純粋小説論 (新字新仮名) / 横光利一(著)
(14)マホメット教徒の信ずるところによれば、現世から天国へ至るには蜘蛛くもの糸よりも細い橋を渡るのである。その橋を渡るときに罪ある者は地獄の深淵しんえんに落ちるという。
また深淵しんえんに臨んで、心ひそかにそのまさに陥らんとするを恐るるときは、知らず識らずその足を退くるに至り、見せ物を見てその愉快を感ずるときは、自然にその足の前に進み
妖怪玄談 (新字新仮名) / 井上円了(著)
彼女はいまその容貌ようぼうの変化が示すように、絶望の深淵しんえんにもがいているのだった。
五階の窓:04 合作の四 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
しかし百済観音の持っている感じはこうでもしなくてはいい現わせない。あの深淵しんえんのように凝止ぎょうししている生の美しさが、ただ技巧の拙なるによって生じたとは、わたくしには考えられぬ。
古寺巡礼 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
紀昌は慄然りつぜんとした。今にして始めて芸道の深淵しんえんを覗き得た心地であった。
名人伝 (新字新仮名) / 中島敦(著)
建文帝かくの如くにして山青く雲白きところに無事の余生を送り、僊人せんにん隠士いんし踪跡そうせき沓渺ようびょうとして知る可からざるが如くに身を終る可く見えしが、天意不測にして、魚は深淵しんえんひそめども案に上るの日あり
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
安全にいかりをおろした静かな生活から解きはなされ、不安な世界にただよい出たのだとわれわれはしみじみ感ずる。想像のなかだけでなく、現実に、われわれ自身と故郷とのあいだには深淵しんえんがひろがる。
船旅 (新字新仮名) / ワシントン・アーヴィング(著)
それから腕におぼえのある熊狩用の五連発旋条銃ライフルかつぎながら、深淵しんえんと、急潭きゅうたんとの千変万化を極めた石狩川をさかのぼって来た訳でしたが、幸運にもその一軒家の主人公らしい怪人物を発見すると間もなく
キチガイ地獄 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
無邊のてんや無量海、そこひも知らぬ深淵しんえん
海潮音 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
すべては再び深淵しんえんの中に消えてしまった。前途には何物も認められなかった。全生涯ぜんしょうがいやみの中に陥って、彼はただ手さぐりに彷徨ほうこうした。
おう、魂の深淵しんえんをうち開く音楽よ! 汝は精神の平素の均衡を滅ぼす。尋常の生活においては、尋常の魂はざされたる室である。
現存の正倉院しょうそういん御物と万葉集と仏教美術を想起しただけでも驚くべきであろう。そこにはあらゆる美と荘厳と、また悪徳の深淵しんえん渦巻うずまいていた。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
そしてその眼は一瞬、深淵しんえんの水にも似て、外へ求める光よりも、彼自身の内に澄んで、自身の記憶の中のものを探し求めるかのように耀かがやいていた。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
貴君は、今可なり危険な深淵しんえんの前に立っている。私は貴君がムザ/\その中へおちいるのを見るに忍びないのです。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
そして永続し得る唯一の幸福は、たがいに理解しあい愛しあうこと——知力に愛——生の前と後との二つの深淵しんえんの間でわれわれの闇夜やみよをてらしてくれる唯一の光明だ。
もし我々がこの第二の段階に達したときに、第一の段階の印象を思い起すことができるとするなら、これらの印象が彼岸の深淵しんえんの記憶を雄弁に語っていると言ってもよいようだ。
落穴と振子 (新字新仮名) / エドガー・アラン・ポー(著)
あんなことがいえるだろうか? いったい彼女の持っているあんな考え方ができるだろうか? 滅亡の深淵しんえんのふちに——もうそろそろ自分を引きずり込みかけている臭い穴の上に立って
その銀色の水にすぐさま顔を接することが出来るが、水はまだ深淵しんえんであって、水に顔を寄せ瞳をすえて水中を覗くに、汀の土が漸く水中に没し、深いところの土には水草が泥をかむって生えている。
ドナウ源流行 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
無辺の天や無量海、そこひも知らぬ深淵しんえん
海潮音 (新字旧仮名) / 上田敏(著)
実にバビロンの町の胃腸であり、洞窟どうくつであり、墓穴であり、街路が穿うがたれている深淵しんえんであり、かつては華麗であった醜汚の中に
音楽会で、楽曲を聴いてる最中に突然それがき上がってきた。夜中に眼を覚ますとき、それが深淵しんえんのように口を開いてきた。
僕の恐怖感もこの点に発している。言説をもって解明出来ぬ。深淵しんえんを長くうかがえば、深淵もまたなんじを窺うであろうということが恐ろしいのである。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
能登はかえって、底知れぬふちへ吸いこまれそうな気さえしたので、あわててその深淵しんえんから元の俯目ふしめに返ってしまった。
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
縦令たとい、その道が彼女を、どんな深淵しんえんに導こうとも、それは彼女に取って覚悟の前の事に違いない。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
そして無論次の瞬間には深淵しんえんのなかへつきこまれるのだ、と私は考えました、——その深淵の下の方は、驚くべき速さで船が走っているのでぼんやりとしか見えませんでしたが。
おそれをなすか、深淵しんえん
海潮音 (新字旧仮名) / 上田敏(著)
底には天国がうち開いているその深淵しんえんに向かって同じ歩調でもって進み続けたならば、それはいかにりっぱなことであったろう。
それが深淵しんえんのように足下に開けてくるのを見て、彼女は恐れて飛びしざった。もう訳がわからなかった。みずから怪しんだ。
玄徳は深く嘆じて、あの高士があれほどに激賞するからには、まさしく深淵しんえん蛟龍こうりゅう。まことの隠君子にちがいない。
三国志:06 孔明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
モスケー・ストロムの中心の深さはもっと大したものにちがいなく、この事実のなによりの証拠は、ヘルゼッゲンの頂の岩上からこの渦巻の深淵しんえんをななめに一見するだけで十分である。